第5話◾︎何事も無かったブレイクタイム

 午前はニックらと一緒に屋敷の掃除をし、昼には配膳を手伝い、午後はアダムの仕事を手伝い、夜にはチェスをする。

 週に一度、休日もあり、その日は大抵本を読んで過ごしていた。午後になるとアダムの元へ行き、飽きずにチェスをした。


 休日のチェスの時間は随分長く、休憩を挟めながら午後全ての時間を使う。


 休憩の合間は何をしているかと言うと、なぜか俺が世話を焼かれていた。

 アダムは主人のくせに世話を焼かれるのが苦手で、俺の世話を焼くのが好きなのだ。


 というわけで、俺は人形のように大人しく地べたへ座り、アダムの玩具になっていた。


「首を傾けるな。上手く編めないだろう」

「編むほど長くもねぇんだよ」

「俺が楽しいからやってる」

「自分の髪でやれよ……」


 アダムは俺の短い髪の束をつまみ、ちまちまちまちまと編んでいる。

 俺は引っ張られる感覚に負けないよう、首を真っ直ぐにしながらじっと耐えていた。


「なんつーか、世話焼きだよな、アンタ」

「そうか? ……ま、犬の世話をするのは飼い主の務めだからな」

「はいはい」


 適当な返事をして、早く終わらねぇかなぁとじっと待つ。


「おっと」


 肩に纏っていたブランケットがずり落ちる。それを直しながら、またアダムは手を進めた。


 ……少しも俺を必要としねぇんだな。


 単純にそう思う。

 使用人としてのプライドが傷ついた、だとかそういう捻くれた考え故の言葉では無い。

 単に、コイツは人の手を借りたがらない男なのだと再認識したのだ。


 ブランケット自体、アダムが自ら用意したものだ。肩から落ちたとしても直すのはアダム自身。チェスの用意もアダムだし、片付けるのもアダム、紅茶を入れるのもアダム。勿論犬の世話を焼くのもアダムだ。

 思えばあの鬱屈とした地下の時からキパキパと動く男だった。


「アンタ、人に世話されるのが嫌いだよな」

「嫌いではないが……うん、必要なかったからな。自然と、一人でいいようになった」

「あっそ」


 アダム付きの使用人は一人もいない。強いて言うなら俺がその存在に当たるのだろうが、俺は何もしない。

 アダムは人の手を必要としなかった。

 その気になれば屋敷の管理を一人で行い、一人でひっそり死ぬ事も出来るのだろうな、と思った。


「俺がアンタの世話をしなくていいのか?」

「必要ない。……お前が相手だと不都合があると言った方が適切か」

「はぁ、不都合」

「不都合だな」


 首を捻る。まるで不都合を抱えているようには見えなかった。

 アダムは淀み無い手付きで俺の髪を引く。

 そしてなんてことなさそうに話を続けた。


「……お前、女の裸を見た事があるか?」

「はあ?」


 一体なんでそんな話になったのか。

 思わず振り向こうとするも、ぐっと髪を引かれ「動くなよ」と囁かれる。俺は渋々、そのまま大人しく前を向いた。


 ……あの環境で、女の裸を見た事が無いだなんて。冗談にもならない話だ。


 日に透かしたら向こう側が見えるくらい薄い布を体にひっかけて、ゴロツキを相手にする貧しい娼婦は何人も見てきた。

 行為の最中だって見たことがある。無花果がぐちゃりと潰れたような、グロテスクな体に興奮なんか覚えなかった。吐き気すらした。

 あの枯れ枝のような手で手首を掴まれ誘われた時なんざ……。


 ぽつぽつと思い浮かぶ女の姿に首を振る。せり上がってきた吐き気を堪え「ある」と短く答えた。


「そうか」

「……それがどうかしたのかよ」


 アダムは無言で俺の髪を撫でただけだった。


 沈黙が二人の間を横たわる。

 アダムの指先は何度も同じ動きを繰り返して、その先へ進まない。逡巡しているような動きだった。


 やがて、アダムが観念したように尋ねた。


「お前の目には、俺が男に見えているか?」


 雨音が垂れるような声だった。


 何を言ってるんだ。俺は怪訝な顔を隠さずにそう言おうとした。

 そして開いた口をそのままに「――あぁ」と得心がいったような声を出した。


「アンタ、女なのか?」


 口に出すと同時に細い指が頬を這ったから、思わず尋ねた声が震えた。


 途端に、後ろにいる人物が誰だか分からなくなる。


 俺の命を掬い上げた人物なのか。あの薄汚れた道をふらふらと歩く女なのか。俺が仕える主なのか。細い手をひらひらと振り続ける女なのか。悪魔のような契約主か。洞のような目でじっと俺を見つめる女なのか。俺の飼い主なのか。


 大きな影が俺を包み込む気配がした。

 くつくつと喉奥で笑うのが後ろから聞こえる。


「やはり、お前は賢い犬だ」


 ぽつ、と拳に雫が落ちた。

 顎から伝って落ちた俺の汗だった。


 振り返るのが怖くなる。後ろにいるのは誰なのか、俺は全く分からないのだ。


 視線の行き場が無く、じいっと床を見つめた。

 まるで蛇が這うような模様だった。床に描かれている模様の螺旋を注視する。蛇に搦め取られ溺れていく人間を幻視する。呼吸が浅い。マトモに息が出来なくなる。


 アダムに似た声は「Goodboy」と囁いた。


 恐怖が俺の顔を覗き込んでいた。


 恐怖が決して俺に気付かぬように自分の気配を押し殺す。

 すると自分の意識が朧気になるのを感じた。自分が徐々に空気に溶け込んでいった。


 それから、どれだけ長い時間が流れただろう。


 パサ、と軽い音がして、手元に意識が戻ってくる。

 僅かに視線を下にさげると、アダムの羽織っていたブランケットが落ちていた。

 そのままジャケット、ベスト、ワイシャツと続いて落ちていく。


 俺はじっと落ちていく服を見ていた。

 顔は上げられなかった。


 服の上でアダムの影が踊っている。手招きでもしているような動きだった。


「顔を上げろ、ディー」


 アダムの声にのろのろと顔を動かす。ブリキが錆びたように動きが悪かった。

 きっと無意識で抵抗していたのだろう。


 けれど俺は犬だから。

 主人の命令には背けない。


 顔を上げると、真白い裸体が晒されていた。

 男の俺とは違う体だった。柔らかな曲線が揺れる。腰の太さも、臍の位置もまるで違った。なにより乳房がついていて、男性器が無い。

 それでも顔は俺とそっくりだった。


 まるで違う体の上に、俺と同じ顔が置かれてある。

 酷い冗談のようにも思えた。


 それは今まで見てきた中で一等綺麗な裸であったが、そんなものは関係が無かった。

 俺は恐怖と目を合わせたような心地で「お許しください」と懇願した。


「何を?」


 影は愉快そうに微笑んだ。


「なぁディー、分かるだろう。これがどれだけ異質なのか」


 アダムの手がするすると肢体を滑る。

 華奢な肩を伝い、浮いた鎖骨、なだらかな曲線を這い、乳首に手を置き、乳房を揉む。

 もう片方の手は太腿を撫で、きゅっとくびれた細腰を伝って、臍の下に宛てがわれる。


「これがどれだけ、異質か」


 爪が立てられる。傷つくことも厭わず、アダムは「この異形を見ろ」と自嘲した。


「胸があり、子宮がある。男として産み落とされ、男の名しか持たず、男として育ち、当主となった今でさえ――体だけが、変化しないまま女を保つ」


 人間は途中で性別が変わることは無い。男に生まれたなら男のままだし、女に生まれたなら女のままだ。

 けれどもアダムは性差の狭間で揺蕩うように己の性別を失っていた。

 男では無い。女でも無い。

 どちらかになど、なれなかった。


「笑えるよなあ」


 谷間を伝う汗に、ドッと心臓が跳ねる。

 それが興奮なのか恐怖なのか判断がつかないまま、許しを乞う。


「お許しください」

「そう怯えるな。下品な要求はしない」

「お許しください」

「女が怖いか?」

「お許しください」

「俺もだ」


 ぎゅうと裸のまま抱き締められる。

 ヒ、と息が詰まった。

 柔らかな女の肢体が俺を絡めとっていくのがどれだけ……。


 心臓が馬鹿みたいに暴れ出す。鼓動がうるさくって自分の声すら聞こえない。

 アダムの唇が動く。声は耳に届いているはずなのに、言葉は上手く聞き取れない。


「女が堪らなく怖いよ」


 アダムは俺の首筋に擦り寄った。生暖かい体温にすら身が竦む。もうあと少しでみっともなく泣き出しそうだった。


 吸っているんだか吐き出しているんだか分からない呼吸を必死になって繰り返す。

 酸欠状態で回らない頭は、当然アダムの言葉を上手く認識できないでいた。


「俺とお前はこんなにも似ているのに」

「ひ、」

「首から下だけがどうしても違う」


 ガリ、と。

 整った艶やかな爪が俺の首筋を引っ掻いた。


 俺は咄嗟に両手を突き出していた。アダムがあっさりと体勢を崩す。


「あ、あ! あ! お許し、お許しください!」

「……ハ、虐めすぎたな」


 目を丸くさせた後、肩を竦めたアダムは掠れた声で笑いを零した。くたびれた動きでブランケットを肩に羽織って裸体を隠す。

 俺はそれを見ているだけだった。どこか他人事のように目の前の映像は過ぎていく。


「すまないpuppy。落ち着いてくれ。そら、息を整えろ」


 声は耳に届いているのに、その意味を頭が理解しない。

 目を回しながら「え?」と聞き返す。それを三度続けたところでアダムは諦めたように苦笑した。


「聞こえてないな。服を着れば落ち着くか?」


 アダムはわざわざ俺の背後に回って服を着始めた。衣擦れの音がする。そこで漸く息が落ち着き始めた。


「旦那様」

「……その呼び方は正しくないと分かっただろ?」


 アダムは服装を正して俺の前に立つと、グズグズになった俺に手を差し伸べた。


「ほら、立て。服が皺になっている。襟なんかぐちゃぐちゃだ。ああ、涎を垂らすな。ん? 涙かこれは?」


 アダムはテキパキと俺の世話を焼いた。

 襟を正し、汚れた顔を拭き、椅子へ座らせた。

 俺は木偶の坊になったように大人しくそれに従った。自ら動く気力はまるで湧いてこなかった。


「……ハハ! 初めて会った時の顔だ! 死にかけの顔! そんなに怖かったか!」


 アダムはいつもの調子で俺の頭を雑に撫でた。

 そうして一言「悪かった」と謝られる。俺は目を回しながら「ああ」だの「いえ」だのとまごついた返事をした。


 アダムは一つ、バツが悪そうな顔で自身の首裏を撫でた。その撫でる仕草は女性的なものではなく、男性的な、粗野なものだ。

 顔を隠す吸い方で紫煙を燻らせる。血管の浮いた手が、手持ち無沙汰にライターを弄る。


 いつも通りの、男の、アダムだ。


 服で隠すだけでここまで男に化けるなんて。

 いや、男として産み落とされてからの年月が、一部の隙もなくアダムを男として形作ったのだろう。


 アダムはちらりと視線を投げかけ「落ち着いたか?」と尋ねた。


「え、ああ、はい、まぁ」

「煮え切らないな。まぁいい。休憩時間は終わりだ。続きをしよう」

「続き?」


 目を瞬かせると、アダムは訝しげな顔で「なに不思議そうにしているんだ」と眉を寄せた。


「チェスの続きに決まっているだろ」

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