第3話◾︎人らしさに首輪はいるか

「Apple」


 言われた言葉を、ガリ、と音を立てながら紙に文字を書いていく。

 俺はここに来てから初めて勉強というものをした。紙もペンも生まれて初めて触った。生きるために必要な物以外を触るのは不思議な気分だった。


 勉学とマナーを教えるとアダムは言ったが、道のりは遠いだろうなと思った。

 実際、俺はまず読み書きから教わることになった。


 計算の方がまだ出来るのだが、計算だけなら本物の犬だって出来るとアダムは笑っていた。

 人間らしさに読み書きは必要らしいから、だから、覚えている。


「Appje」

「違う。jではなくてlだ」

「Appie?」

「lだと言ってるのに」


 正しい綴りを横に書かれ、ああ、そっちかと理解する。


「Apple」


 長細いものは混同しやすくていけない。

 kとか、形が分かりやすいものなら覚えやすいんだ。


「よし。覚えたか?」

「ああ、うん。多分」

「もう一度書いてみろ」

「Apple」

「うん。綺麗に書けている。褒美の林檎だ」


 アダムはバスケットに入っていた林檎を投げ渡す。片手で受け取り「齧っていいか」と尋ねる。


「ナイフで皮を剥け」

「皮も食えるってこと知らねぇのかよ」

「身分あるやつにとってはゴミだ。少なくとも俺の使用人ならゴミだと判断する。食べたら恥だと思え」

「大抵のものはなんでも食えるぜ。紙も、アンタの服も、靴もな」

「意地汚い犬だ」


 惜しいなぁと思いながら、命令を守らずに齧ったら叩かれるから大人しく渡されたナイフで皮を剥く。


 ……時々、アダムは平然とした顔でこうした刃物を俺に渡す。

 俺のマナーに必要だからと言っていたが、いっそ違和感を覚えるほどアダムは当主のくせに無防備だった。

 いや、無防備に見せているだけなのかもしれないが……、結局、あの男の腹の中なんざ分かるわけもない。悪魔は負けたと喚きながらも本来の目的を遂げるものだ。煙草を頒布させた時のように。


「剥いた」


 子供が作った泥団子を母親に見せるような仕草で剥いた林檎を見せた。


「少し皮が残ってるな」

「細けぇよ」

「俺の使用人になるなら細かく気を配れ」

「チ、これでいいかよ」


 指摘された箇所をショリショリと削るとアダムは「いいぞ」と頷いた。それで漸く林檎を齧ることが出来た。


 林檎は口にしたことがあったが、あの時の林檎はもっとシワシワの萎びたものだった。

 この男から渡される果実はどれも瑞々しくって、仕入れてすぐのものばかりなのだろうと簡単に想像が出来る。


 アダムは俺のモチベーションを上げるためなのか、読み書きの問題を食べ物から始めた。

 そうして覚えることが出来たらこうしてその食べ物を与えた。


 食べ終えてベトベトになった手をアダムがさっと拭う。白いハンカチは、俺の寝床だった布よりもずっと上等なものだ。

 服で拭いちまえばいいのに。

 思ったが、言わない。鞭が飛んでくるので。


 そしてまた勉強が再開する。

 アダムは屋敷の当主として仕事をするため、あまりこの部屋に長い時間滞在しない。

 ただ、空いた時間があるとこうして顔を出しては物を教えた。暇では無いだろうに。アダムは熱心に、根気強く教師役を務めていた。


「バスケットはこう、ナイフはこうだ」

「basket。……knife」

「そう。剥くはこう」

「peel」

「林檎の皮を剥く」

「……peel……、……am apple?」

「惜しい。Peel an apple」

「Peel an apple」


 単語だけでなく、アダムはついでのように文章を教えた。

 俺は手が覚えるようにと何度か同じ文字を繰り返し書いた。


「ナイフとフォークが書けるようになったら肉を食べさせよう。腹の縫合も大分落ち着いた頃だろう」

「げ、肉ぅ?」

「嫌いか?」

「嫌い。肉ってあれだろ。ぶよぶよしてて、アー、かさぶたみてぇな……違うか、ミミズみてぇな味のやつ」

「ミミズを食べたことがないから分からないな」

「すげー不味いぜ」

「だろうな」


 ゴミ捨て場にあった肉はそんな味だった。

 皆が群がるから、そんなに良いものなのかと思って食ったが、あれは酷かった。期待していた分怒り狂うかと思った。

 ミミズと同じなら、入手が楽なミミズを食った方がまだ良かった。


「ステーキは美味いぞ」

「なにそれ、肉なのか?」

「肉だな」


 肉なんてミミズと同じなのに。ミミズが美味いなんて。

 きっと舌が馬鹿なんだ、コイツ。


 アダムを憐れむように見ると、視線に気づいたのかアダムが軽く鞭で手を叩いた。パシ、と乾いた音がする。


「主人をそんなふうに見るのは不敬だぞ。気づかれないように見ろ」

「気づかれないなら良いのかよ」

「まぁな」


 アダムは煙草に火をつけて口の端を持ち上げた。


 それを見て何かが頭に引っかかった。

 ……ああ、確かそれも教わった。

 煙草を見つめ、頭の中にぼんやりとスペルが並んだ。


 煙草。コイツがよく吸うから、以前何かのついでに問題に出されたのだ。

 アダムから教えられたことはよく覚えている。間違いはすれど、存在を忘れることは無かった。


 記憶の棚を探りながら、紙の端に「cigarette」と書く。思い出しながらだったから、書く速度は遅かった。


 スペルは間違っていないようでアダムはそれを見ると「正解だ。褒美をやろう」と言って煙を顔にふきかけた。

 げほ、と噎せて、それだけだ。

 物を出す気配は無い。


「これが褒美かよ。食えるものにしろ」

「何が良い。お前もそろそろ自分から強請るといい。問題を考えるのにも飽きた」

「砂利じゃなきゃなんでもいーよ」

「与えがいのない犬だ」


 犬と呼ばれる度、首輪の存在が増すような気がした。

 痒みを覚えて隙間から指を捩じ込む。そのまま皮膚を綺麗に切られた爪で引っ掻く。


 ……爪は以前、ギザギザと鋭く尖っていた。

 爪切りの鋏なんてものは無かったから、口で噛みちぎって捨てていたのだ。


 鋭くしていたのにも意味がある。

 痩せっぽちの男が食糧奪いに勝つための武器だった。盗む時に少しでも上手く事が運べるようにするための武器だった。


 その武器でもあった爪は、みっともないとアダムが整えた。丁寧にやすりまでかけられた。

 この時ばかりは首輪の存在を忘れ、主従が逆なのではないかとすら思った。


「掻きすぎると血が出るぞ」

「痒い」

「我慢しろ」


 その言葉を無視して掻こうとしたが、叩かれると思ってやめた。

 代わりに首輪の鎖が繋がる部分をガチャガチャと弄った。音はよく部屋に響いた。


「首輪っていつまで着けるんだ」

「この部屋を出るまでだ」

「ふぅん。出たら着けねぇんだな」

「きっとな」


 ふうん。

 唇を尖らせて、俺はじっとドアを見つめた。


 この部屋をいつ出るか。具体的な日数は語られていない。なにせアダムが出ていいと判断したら出られるのだ。


 俺はこんな部屋は嫌いだった。


 地下にあるのか、ヒヤリと涼しい部屋は湿気でジメジメとしていた。

 窓の無い部屋は閉塞的で息苦しい。

 オマケにこの部屋には蝋燭が二本しか無い。鎖が巻き付いている場所に一本、机の上の手持ち燭台に一本。だから部屋はとても暗い。


 暗くて、ジメジメしていて、息苦しい。

 まるで死が手招きしているような部屋だった。

 だから、嫌いだ。


 早く物を覚えて、さっさと出よう。

 この部屋から出て首輪が外れることが、なによりの褒美に違いなかった。


 ……そうして、日が経った。

 二週間は過ぎた。


 読み書きは日常生活に支障のない程度まで覚えた。そこから更に書類仕事に必要な言葉を覚えていく。

 他の勉学も並行して習い出した。中には哲学、宗教学なんてものも混じっている。一体俺に何を求めているんだと暴れ出したくなる。


 二週間が経ったので、髪も随分と伸びていた。

 だからそれをアダムが鋏で切ることになった。


 俺は地べたに座り、アダムは椅子に座りながら髪を切り落としていく。


「ここに来た時に切ったのに、すぐ伸びるな」

「知らねぇよ。髪に事情を聞け」

「髪が言葉を話すか?」

「話すンじゃねーの」


 アダムの手は止まらず、シャキシャキと音を立てて切り落としていく。


 アダムはなぜか、こうして俺の世話を焼きたがった。

 逆ではないかとは何度も思うし、度々やめろと口にしたがアダムは変わらず世話を焼いた。


 俺は面倒になり、元々人を飼いたいだなんて言い出す奴だからな、と諦めた。

 そういう奴なのだ、きっと。


「もう二週間は経ったか? 一ヶ月か?」

「十八日だ。二週間と四日」

「それだけの期間で……」


 アダムは乱雑に俺の髪を撫ぜた。切り落とした髪の毛がパラパラと俺に降りかかる。

 目に入らないようにぎゅっと瞑る。笑い声が頭上から落ちてくるのが分かった。


「お前は覚えが早いな。チェスだって強い」


 機嫌良さげにアダムは俺の頭頂部にキスを落とした。放っておくと鼻歌でも歌い出しそうだった。

 アダムは高揚を隠さない声で「地頭が良いんだ」と言った。


「言葉より物で褒美をくれよ」

「冷たいやつだな」

「褒め言葉で腹は膨れないだろ」

「違いない」


 アダムは笑い声に合わせてシャシャシャ、と鋏を動かした。


 俺は「それに」と反論する。


「それに、チェスに関してはお前に負けてばっかりだ」

「他とやればお前が勝つさ」

「随分と俺の腕を買ってるようで……」


 アダムはチェスが好きなのか、よく俺を相手にチェスをした。毎日一回は相手をするが、俺はアダムに勝った試しが無い。


「兎角、お前は出来がいい」

「はあ」

「マナーを覚えて、敬語を覚えたら良い頃合だろうな」


 アダムは最後にジャキンと鋏の刃を交差させると「一週間で足りるだろう」と告げた。


「一週間だ。一週間後、お前は"療養"を終える」

「ふぅん」


 興味無さげな声が零れた。興奮しすぎていたから、それを抑えようとしたのだ。

 アダムはそれを分かっていたようで「はしゃぐなよ」と苦笑した。


 部屋のドアを見つめる。その外がどういったものか、気になって仕方がなかった。


「いよいよお前は俺の犬になるな」


 振り向くと、アダムの瞳は熱に浮かされた時のように妙に爛々と輝いていた。


「……よろしく頼むよご主人サマ」

「……まだ敬語のレッスンを開始していなくて良かったな。開始していたら叩いていた」

「可愛い飼い犬によせよDarling」

「可愛くなるところから始めろよHoney」


 ふ、と。

 どちらからともなく互いに吐息で笑った。

 反吐が出るほどくだらねぇやり取りだった。


 犬扱いをされ、首輪の内側が痒くって仕方なかった。

 だから。

 だから、俺は四日でレッスンを終え、部屋の外へ出た。


 部屋の外は同じような石造りの床が続いていた。少し歩くと階段があるらしく、手持ち燭台を手にしたアダムが俺を手招きした。


「転ぶなよ」


 俺は頷いて、首を擦りながら慎重に歩いた。興奮で足が震えているのだ。


 この屋敷の使用人が着ているという服を着て、初めて革靴を履いて歩く。

 アダムはやはりこの日も世話を焼き、鼻歌を歌いながら俺の髪をセットした。


「歩き方を忘れたか?」

「申し訳ありません。緊張で、少し……」


 丁寧な口調で言葉を返す。

 ……慣れはしたが、まったりとした言葉は口に合わない。いつも俺の舌がビリビリと痺れたような気になる。


 アダムが許可しない限り、元の口調では喋れない。ずっとこの口調で喋らなければならないのは苦痛だった。

 が、首輪の無い生活を思うと今の方がマシである。


 さて、首輪の無い生活を送るためにも早いところこの地下から出たい。

 なので、上手く動かない足を動かすべく、拳を一つ太腿に向かって振り下ろした。

 骨に当たる音がして、じんと痺れる。その痛みが俺の足を縛る枷を壊す。力を入れると、問題なく動くようだった。


「……ええ、もう平気です。ご迷惑をおかけ致しました」

「そうか。あまり傷つけるなよ。お前の体とはいえ俺に所有権がある」

「承知しました」


 アダムは思い出したように「ああそれと、」と俺に向けて言った。


「二人だけなら前の口調でも構わない」

「……、……早く言えよ」

「忘れていたんだ」


 忘れていたと言うくせに、アダムはにやにやと笑みを浮かべている。俺の口調を面白がっていたのだろう。

 ロクでもない主人だと思い、溜息を吐き出した。


「そら、ここのドアを開けると屋敷の一階だ」

「"療養"はやけに長かったな」

「無知の療養にしては早い方だ」


 アダムは階段の出口横に手持ち燭台を引っ掛け、蝋燭の火を消す。

 唯一の光源が消え、地下を真っ暗な闇が包み込んだ。


 かと思えば、光が差し込んだ。

 人工的なものでは無い。日の光だ。アダムがドアを開けたのだ。


「ようこそ。不運な使用人」


 いつかのようにアダムはそう呼びかけた。

 日の光を受けて淡く藍色に透けるアダムの髪を見ながら、俺は目を細めて「よろしくお願い致します旦那様」と返した。


 そして俺はアダムの犬になった。

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