第2話■犬らしくあれと鞭打つ手

 まず始めに、鎖の音を聞いた。

 シャラシャラと耳元で音が鳴るから、俺はてっきりアクセサリーの音だと思った。また盗んだ後に大事に大事に抱えて眠ったのだろうと。


 目を開けて、起き上がろうとする。ところが体がぐんと床に引き戻される。

 俺は自分がなぜまた横たわったのかが分からず、目を瞬いて、「ア?」と零した。


 声を出すと、首の締め付けが存在感を増した。


「ア? ……ン?」


 目玉をぎょろぎょろと動かして周りを観察する。


 石造りの床、窓の無い部屋、一本だけ灯された蝋燭、粗末なベッド……と言っても俺の寝床よりは上等なもの……、それから、己に繋がる鉄の首輪。


「や、起きたか不運な使用人」


 声のする方向を見る。暗闇に目が馴染んできた。目を凝らすと灯りの届かないところにいる男を見つけた。


 あまり目にしたことのない、ふかふかとしたクッションのある椅子に、男は足を組んで座っていた。

 どうやら本を読んでいたらしかった。こんなに暗いのに。


「しようにん……?」

「puppyの方が良かったか? それともkitty?」


 男は揶揄を含んだ声で言う。

 俺はぼんやりとした頭で言葉を聞いていた。


 よく分かんねぇなと思いながら、ガリガリと首を掻く。首輪が擦れて痒かった。

 爪を首輪の隙間に捩じ込み皮膚を引っ掻いた。

 ガリガリ、ガリガリ。


「ハハ、首輪は嫌いか?」

「痒い」

「そうか。だが外すことは出来ない。悪いな」


 男は全く悪びれた素振りを見せないまま言葉だけ謝った。

 外す気も無ぇくせに。

 口の中で舌を打つ。


「いずれ首輪は外すさ。さ、契約の話をしよう」

「……金なら無い」

「期待してない」


 まぁ、そうだろうな。と思った。

 じゃあ何を契約するってんだ。とも思った。


「俺はな、お前を気に入ったんだ。だからお前を飼うことにした」


 窓の無い部屋は男の声がよく響く。目を閉じると男が後ろに立っている錯覚すらした。

 けれども俺は聞き間違いじゃあないかと思って、男の言葉を聞き返したくなった。


 かう……買う?

 眉を寄せて男を睨む。男は口の端を持ち上げるばかりだった。


「金持ち様は人身売買も嗜むってか」

「生憎だが、俺の屋敷でもそれは禁止されている」


 男は肩を竦めて心底残念そうに言った。


「俺の希望としては愛玩用として飼いたかったが……世間体が悪い。屋敷の者からの信用を失ってしまっては困る」

「なら諦めろ」

「俺は不屈の男なんだ」


 男は手を組んで、商談相手に語りかけるように笑みを作った。


 もし一歩でも近づいてみろ。唾を吐きかけてやる。

 男は俺の気持ちを知ってか知らずか一歩も近づかず、椅子に座ったまま俺を見下ろして話を続けた。


「ここへ来る予定だった新人が、不運にも、野盗に襲われ、命からがらここへ辿り着いたのは……まぁ、不幸中の幸いというやつかな」

「何言ってやがる」

「設定だよ。お前を飼うための設定だ」


 男はアダムと名乗った。

 あのバカでかい屋敷の当主だと言うのだ。


 偉いやつだとは思っていたが、まさか当主とは。

 驚愕すると共に、こんな男が当主なら従う奴らはさぞ苦労するだろうと思った。

 そして気づく。先程アダムに使用人と呼ばれた事を。


 ……曰く、アダムは死にかけの男を大層気に入ったらしく、手元に置きたいと考えた。

 手元にいれば良いので、関係性はなんでも良かった。養子にしても良かったが、跡継ぎで揉めても面倒だ。世には男を愛人にする奴もいるが、アダムの趣味では無い。

 結局、使用人として置こうと決めたらしい。

 人身売買が許されるなら奴隷にしていたと言うのだから恐ろしい話だ。


 アダムは屋敷の使用人にこの話をしなかった。反対されるのは目に見えているからだ。

 だから嘘を吐くことにしたのだ。

 嘘に勘づく奴はいるだろうが、表立って文句は言えまい。


 だが昨日の今日で浮浪者が屋敷で働く使用人になれるわけが無い。学も無ければマナーひとつ知らないのだから。

 だから覚えるまでこの部屋に軟禁するとアダムは告げた。


 ジャラリと鎖が音を立てる。

 鎖は部屋の隅から伸びていて、今は起き上がれないほど短いが、調節すればこの部屋のドアぎりぎりまで移動できるらしい。


「屋敷の者にはそれとなく話して、今は療養しているのだと話せばいい。間違いではない」

「これが療養かよ」

「手当はしているだろう」


 傷の手当がされているようで、腹にはぐるぐると包帯が巻き付けられていた。頭も同様に。


「額が切れている。腹はもっと酷いな。口の固い医者を後で呼ぶから、それまで待て」

「……医者とかいらねぇよ。針と糸用意してくれりゃ、勝手に縫う」

「お前、想像以上に馬鹿だな……」


 アダムは地面に這う虫を見つけたような顔をした。


「俺は飼い主。お前は愛玩動物だ。飼い主の言うことには逆らうなよpuppy」

「畜生になれってか? なるわけねェだろ」

「契約と言ったが、返事はハイかYESかワンだ」


 アダムは革靴で俺の足を小突いた。

 だらしなく伸ばした足を窘めるような動きだった。


「意味が分かんねェんだよ」


 思わず溜息を吐いて、胡乱な目でアダムを見る。

 アダムは愉快そうにくつくつと喉奥で笑うと「意味か」とオウム返しをする。


「今に分かるさ」


 彼は夜闇に紛れて盗んだ宝石より美しく笑った。


 けれどそれに見惚れて「ウン」と頷けるほど馬鹿でもいられなかった。


 ……返事はハイかYESかワンだって?

 ふざけていやがる! クソ男が!


 使用人なんざ名ばかりで、畜生の如く扱われるのは目に見えていた。


 俺は死こそ逃れたが、悪魔に捕まってしまったのだ。どちらも救いにはならない。

 俺はまた自分の人生を呪いながら、呻くように「ハイ、イエス、ワン」と答えてやった。


「Goodboy!」


 わしゃわしゃと本当に犬にしてやるように頭を撫ぜられる。額が切れているとさっき自分で言ったくせに。


 俺は躊躇わずに唾を吐きかけた。

 びちゃ、と血混じりの唾液がアダムの頬に飛ぶ。

 アダムはへらへら笑ったまま「Badboyの間違いだったな」と呟いた。


 瞬間、バチリと火花が飛ぶ。


 痛みよりも先に熱さを感じた。ぼた、と反射的に零れ落ちた涙を見て、漸く痛みを自覚した。目の水分が蒸発したようにジリジリと痛む。

 グ、と鼻にシワを寄せて歯を食いしばる。でなければ悲鳴が飛び出るのだ。


「躾が必要だな。今から骨が折れる」


 アダムは疲れた声で嘆いた。パシ、と軽い音のするそれは短鞭だった。

 俺はそれで叩かれたのだ。


「グ……グ、ぅ、ウウ……!」

「獣らしくなったな」


 ぐいと鎖を引っ張り俺の頭を無理矢理持ち上げる。その衝撃に髪が浮き上がってバラバラと顔に落ちた。

 髪の隙間からアダムの顔が見える。昏い目がこちらを覗き込む。


「獣なりの謝り方を教えてやろうか?」


 声に怒りは無かった。どこか楽しんでる素振りすらあった。さながら玩具を与えられた児のようであった。


「……ハ、そう怒るなよご主人サマ。躾のされてねぇ犬を飼いたがったのはアンタだろ?」


 アダムはじっと俺を見つめた。品定めをするように、頭からつま先までを眺めて、一つ頷いた。


「手を噛まれないように躾けるのは大変そうだ」


 鎖を握っていた手が、パ、と開く。それに従って鎖はジャラジャラと音を立てて床に落ちていき、俺の頭も落ちた。


 チ、雑に扱いやがって。


 俺は顔を伏せたまま顔を歪めた。


 コイツにとっちゃ俺は人じゃねぇんだ。犬畜生と同じなんだ。くそったれが。


 苛々して頬肉を噛んだ。まるで気分は晴れない。


 こんな調子なら治る怪我も治らねぇな、と思った。事実、この生活が続くのであれば怪我は悪化の一途を辿る。

 頭の包帯も既に解けていたぐらいだ。アダムがちまちまと巻いたのだろうに。


 アダムといえば気が削がれたようで、鞭を仕舞い、溜息を吐き出した。その後またアダムは椅子へ座り、煙草に火をつけた。

 煙をくゆらしながら、アダムが名前を尋ねる。


「お前、名前は?」

「飼い主が名付けろよ」


 それはほんの少しの皮肉と意趣返しだった。

 困った態度を多少なりとも出せば本名を教える気ではいた。


 が、アダムは嬉しそうに「それもそうだよな」と笑ってわざとらしく腕を組んで考え始めた。


 俺は途端に反抗心を抱いているのが間違いなんじゃないかと思い始めた。逆らっても皮肉を言っても暖簾に腕押し。もしくは正面からぶたれる。どちらに転んでも面白くない。


 アダムは口の中で何やら俺の名前の候補らしき言葉を呟いている。上手くは聞き取れなかった。


 さて。どんな変てこな名前が飛び出すか。

 よもや本気で犬猫のような名前は付けないだろうな、と戦々恐々としながらアダムの答えを待つ。


 俯いていた顔を上げ、アダムはじっと俺を見つめた。


「お前がいるなら、くだらない争いをする兄弟の片割れになれるだろうな。きっと」


 アダムは小さく「ディー」と告げた。

 Dee。アダムは指で文字を綴った。が、学のない俺にはそれを見ても首を傾げるだけだった。恐らく俺の名前を書いたのだろうけれど。


「でぃー」

「お前の名前だ」

「……人らしい名前だ」

「お前は俺の犬だが、本物の犬にはなれないからな」


 ディー。ディー。うん。成程。

 短い音は意外と早く口に馴染んだ。


 俺にも一応は本名はあったのだが、これまでの人生を捨ててこの男に飼われるのだ。ならば、名乗るはずだった本名も捨ててしまおう。


 俺は一つ笑顔を作って口を開く。


「お前の犬のディーだ。虐めてくれるなよご主人サマ」


 アダムはその言葉を聞いてふぅんと目を細めた。

 そしてまた観察するようにじろじろと俺を見たあと「お前が悪さしなければ躾はしないさpuppy」と言った。


 眉を寄せる。

 つまりは今後も鞭で叩かれるというわけだ。


 俺があまりにも顔を歪めていたのだろう。アダムは手を叩いてアハアハ笑った。

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