気味が悪いほど似ている。

nero

第1話■何も分からずとも


 死神の足音というものは雨音によく似ている。


 バラバラと雨粒が振り落ちていく。俺はそれを馬鹿みたいに見上げ、体を濡らしていきながら、確かに死神の足音を聞いた。


 ざあ、ざあ。耳元で死神が笑う。

 お前の番が来た。

 そう言ってせせら笑う。


 笑われた俺はなんとなしに腹を触る。べたりと赤が手の平に付着した。

 なんだこれ、と思った後に痛みが来た。

 刺されたのかと理解した時には相手は俺の金品を奪取して逃げていやがった。


「チクショウ」


 チクショウ、ンの野郎。


 口の中で呪詛を呟く。チクショウチクショウチクショウ。苛立ちで頭が沸騰しそうだった。

 もしかすると刺されたショックと痛みで発熱しているのかもしれない。

 俺は刺されたナイフの柄をギリ、と握り締めたまま「チクショウ」と呟いた。


 死んじまうじゃねぇか。


 考えていたのは腹の傷のことではない。奪われた金品の方だった。


 腹の傷は針と糸で縫うことが出来る。そりゃ血が出過ぎて死ぬかもしれない。変なものが傷に入り込んで死ぬかもしれない。

 それでも生き残る確率は残っている。捨てられちゃいない。


 だが金品の方はそうもいかない。

 あれはやっとのことで掻き集めた五日ぶりの食糧を買える金だったのだ。固いパン一つ買えるはずだったのだ。

 だというのに、ああ、チクショウ。


「死んじまうじゃねぇか」


 ガサガサの声でボヤいた。それを潤すように雨水が唇を濡らしたが、ちっとも嬉しくなかった。


 またあの分の金を掻き集めるのは無茶だ。そこらから盗む体力も残っていない。なにせ腹を刺されている。死体に変えられ、衣服を剥ぎ取られるのは俺の方だ。


 ああ、死ぬのか。死んじまう。死ぬんだ。


 ジリジリと脳の端を焦がす焦燥感に、意味もなく叫び出したくて仕方なかった。

 ギリ、と手に力を入れる。間違ってナイフが更に深く刺さって眉を寄せる。ぶわりと脂汗が湧き出た。正気ではいられないほど痛くて「グ、」という声しか出てこなかった。


 死んでしまう。死んでしまうから、ええと、俺は、俺、どうすりゃいいんだ?


 どうすればいいんだよ。


 誰も答えを寄越しちゃくれない。フウフウと息を吐き出しながらどうすべきかを考えた。

 死なないように動くのは無理だ。意味が無い。


 死ぬために、どう動く?


 生憎、残すべきものは何も無い。

 家族も無ければ友人も無い。オマケに家も地面に引いたボロ布一枚だけ。

 俺の物なんざ、自分の体と身につけている衣服、顔の知らぬ親に名付けられた名前だけしか無かった。


 ――人は死んだら星になる。


 そんなことを以前、薬で馬鹿になった女が笑って言った。


 俺は何を言っているんだと思いながらその話を寝物語代わりに聞いた。女の妄言は数少ない娯楽の一つだった。

 女は「星は死体よりもよっぽど綺麗だ」とだらだらと涎を垂らしながら笑った。口が上手く閉じれなくなっている、赤子みたいな女だった。


 「アタシは星になるんだァ。死体じゃなくて星になるんだァ」と笑った三日後に、女は爪だけを残して死んでいた。臓器や体のパーツはどこかへ売られたのだと言う。

 当時は娯楽が減ったということしか思わなかったが、今になって女の行方が気になった。


 あの女、星になったかな。


 俺は雨雲に遮られた夜空を見る。バチバチと雨粒が頬を打つ。目を細める。

 雲の向こう側で、確かに星がいるらしかった。


 まぁ。死体よりは、綺麗なのだろう。


 そう思ったから。

 俺はナイフの柄を握り締めたまま歩き出した。ズルズルと引き摺るように足を動かして歩いた。


 雨の降らない場所へ行きたかった。

 死んだ俺が行く場所をこの目で見たかった。

 俺がどの星になるのか見たかった。

 星が見たかった。


 体が重怠くて仕方なかった。

 きっと。背中に死神が覆いかぶさっているのだろう。


 暫く俺は道なのかも分からない獣道を歩いた。細い枝木を折り、膝元まである草を踏み倒し、半ば這うように歩いた。


 薄汚れたシャツがベッタリと肌に張り付いて気持ちが悪かった。雨は依然として止まない。

 そのくせ夜風はいやに冷たくて、体がぶるぶる震える。噛み合わない歯はガチガチと煩く音を立てた。


 寒さのせいか指先の感覚がない。

 それでもどうにか指を動かして熱を逃さないように擦り寄せあった。


 ふと、込み上げてくるものを誤魔化すようにぐふぐふと咳き込んだ。


「……っ、ゲロよりも酷ぇ味だな……」


 内臓が傷ついているせいか、咳き込むと血が出てきた。

 ハ、と息を吐き出す度に血が舌を伝う。不味くて笑えてきた。


「まずい」


 俺、死ぬ時にはとびきり美味いものが食いたかったのになあ。


 しみったれた人生だ。

 現状が馬鹿みたいにくだらなくって、いっそ愉快だった。ハ、ハ、と犬が舌を出すように笑った。


 体は冷たいくせに腹だけは燃えるように熱い。腹に熱が集中しているんだ。そしてそこからどんどん熱が逃げていく。


 それでも歩く。


「うっ……おっ……」


 道中、嘔吐感に負け、舌を出す。

 ぐぷぐぷと腹の中身がひっくり返ってるような音がする。舌が攣りそうになる。

 そのまま血混じりのゲロを吐いた。よく分からない色の液体で、その饐えた臭いにまた嘔吐した。


 それでも、歩いた。


 ぼたぼたと地面に血を垂れ流して道を作っていく。雨は止まない。


 なだらかな坂に辿り着く。生い茂っていた草木も先程よりかは落ち着いてきた。

 顔を上げると、今まで見た事がない大きさの屋敷があった。


「……こんなの、あったっけ……」


 ぼんやりと呟く。


 思い出そうとするも、そもそも自分はそこまで遠出をしない。

 ボロ布が一枚だけ敷かれた地面が自分のテリトリーであり家だった。

 遠くへ行く体力があるのなら、近くで起こっている食糧の奪い合いに参加した。


 加えて、意識が朦朧としながら歩いたおかげで、どのような道でここへ辿り着いたかも覚えていない。考えるだけ無駄だった。


 屋敷に近づく度に俺の体はどんどん重さを増していった。足を動かすのも一苦労で、屋敷から少し離れたところでとうとう転んだ。

 額を思い切り打ち付けたが、その痛みも朧気だった。


「……げほ、……」


 キーン、と耳鳴りがして眉を寄せる。

 耳を塞ごうとして手を浮かせようとして、地面からほんの少しだけ浮かせてまたぼたりと地面に落とした。

 自分の手が重たくて耳を塞ぐこともできやしないのだ。そもそも、耳を塞いでも耳鳴りは止まない。


 立ち上がる気力はいくら待てども湧いてこない。このまま寝転がったまま、雨に打たれて死ぬのだろうと思えた。


 あーあ。


 声に出さずに嘆いた。


 俺の人生ってこんなのかよ。


 骨と皮ばかりの体を小さく折り曲げるように丸めると、こころなしか暖かくなってきたように感じる。眠いと感じたのはいつぶりだろう。

 この睡魔に身を委ねたら、きっと楽になれるだろう。そのままこの苦しさも痛みも全て手放してしまいたい。


 ああ、星が見たかったのに。


 それすら叶わせてもくれない。ああ、チクショウ。俺はどうして…………。


 その先の言葉を無理矢理消す。

 変えられない事実に文句を言ったってどうしようもないのである。


 代わりに、自分が星になる妄想をした。

 みすぼらしいものではない。とびきり輝く星になるのだ。今度こそ。


 目を閉じる。

 既に痛みは遠いところにあり、現実は薄い膜に覆われていて知覚するのは難しくなっていた。

 意識はどんどん朧気になっていく。


「なぁ、お前」


 意識の片隅で声を聞いた。誰かを呼びかける声だった。中性的な少し低い声だ。

 こんな人気のない屋敷でも人はいるのか、そんなことを考える。

 声の主は誰に呼びかけているのだろうか。どうでもいいことを考える。


 泡沫のように疑問だけが浮かんで弾け、また浮かんで弾ける。


 今はまだ夜なのか。

 夜は明けたのか。

 雨は止んだのか。

 ここはどこだろうか。

 屋敷の主はどんな姿なのか。

 俺の親は生きているのか。

 俺の名前の意味はなんだったか。

 死にたいと思う奴はいるのか。

 俺はこんなに死にたくないのに。


「おい。無視はよせよ。聞こえているんだろう?」


 不意に世界が揺れる。どうやら肩を揺さぶられているようだった。

 僅かな振動だろうに、思い切り内臓をシャッフルされたような心地で呻く。腹の傷は途端に身を裂くように痛み出した。


 うっすらと目を開けると、男の顔が見えた。

 いつの間にか俺を仰向けにしたらしい。空が見える……。


「あ」


 ガサガサの声が溢れ出た。俺は空に視線を奪われる。男の姿なんか気にならなかった。


 白銀の星々が、俺を見下ろしていた。

 霞んだ視界でも星の形はハッキリと見えた。

 まるで降り注ぐようだった。男を透かして俺に振り落ちてくるのではないかとすら思えた。


 俺はあの星になる。

 確信があった。


「ハハ、お前、泣いてるのか」


 男は笑って俺の頬に手を当てた。

 自覚は無かったが、俺は泣いているらしかった。


 ぼやけた視界が雨のせいでも傷のせいでもなく、泣いているからだと気づく。

 それでも涙が止まることはなく、俺は静かに頬を濡らした。


 涙のせいで男の顔は薄らぼんやりとしている。年老いてはいないようで、俺と近い歳のようだった。

 ぱちぱちとゆっくり瞬きをする。視界は変わらない。


「随分と物騒なカッコをしてるじゃないか。腹のそれがお洒落というわけでもあるまい」

「……、……?」


 男の口が動くのは見えた。けれど声は途切れ途切れにしか聞こえない。

 首を傾けると、男は俺が聞き取れていないことに気づいたらしい。


 アハアハと大口を開けて笑い「お前……直に死ぬなぁ」と零した。それだけはハッキリと聞き取れてしまい顔を歪める。


「お前、死ぬのか?」


 軽い口調のまま尋ねられた。


 見れば分かるだろう。死ぬしかない。まさか生き延びれるわけが無い。

 嫌味のように聞こえる男の問いに、不愉快さを隠さず俺は目を吊り上げる。


「それが、どうした。直に、死ぬ」


 声はもう枯葉が擦れたような音しか出なかった。

 それでもどうにか聞き取れたのだろう、男は「ふぅん」と顎に手を当てた。淡白な反応だった。


「お前は、死にたいか?」


 眉一つ動かさない冷ややかな表情で男はまた問いを重ねた。静かな声だった。

 そこには何の感情も見えなくて、背筋がひやりとする。


 俺はこの男こそが死神なんじゃないかと思い始め、ゾワゾワとした恐気が背筋を這った。


「なあ」


 男は生暖かい手をひたりと俺の頬に当てた。

 こちらを見ろと言うような仕草に、俺は視線を外せなくてだらだらと冷や汗を流した。


「お前は、死にたいか?」


 穏やかな声だった。

 いっそ無視を決め込みたかったが、頬に置かれた暖かい手がそれを許さない。

 観念して俺は口を開く。


「死にたく、ない」


 開いた口から掠れた声が零れ落ちる。

 男は悪魔のように笑った。口の端が裂けていく笑い方だった。


 死にたくない。そうだ。俺は生きたい。

 こんなくそったれな終わりは認めない。生きて、生きて、生きて生きて、俺は満足に笑いたい。

 それまでは決して死にたくない。死ねない。死なない。


 例え目の前の男を殺してでも、俺は生き延びたかった。


 ふと、頭の中から音が消えた。

 星になるのだと騒ぐ女の声が、死にたくないと騒ぐ俺の声が、死神の足音が。ピタリと止んで、俺は静かに男を見た。男は身なりの良い上品な服を着ていた。


 例え、目の前の男を殺してでも。


 頭の中はとても静かだった。

 俺は震えの止まった手で、勢いよくナイフを引き抜いた。そしてそのまま男の腹を目掛けてナイフを突き出す。


 死んでしまえと願った。

 胕を零してしまえと。シミ一つない服を汚してしまえと。お綺麗な顔が歪めばいいと。


 それが持たざる者の嫉妬なのだとは気付かぬまま、俺は決死の思いでナイフを、腹へ沈めた。


「ハ、アハハハハハハ! 死んでた目が生き返って、何をするかと思えば!」


 それはいとも容易く防がれた。

 男はナイフを手で掴み、血が出るのも構わず握り締めた。痛いはずだろうに。男は痛みすら感じられないという風に愉しげだった。


 恍惚とした顔をずいと近づけて男は血を垂れ流す片手を俺の頬に当てた。男の瞳の中に俺らしき人物が映った。吐息ですら分かる距離だ。


 やっちまった!


 やっちまった!!


 商人の荷物盗りに失敗した時だってこんなに心臓は動かなかったのに、馬鹿みたいに心臓が跳ねた。

 心臓が動く度に、引き抜いたナイフを責めるように腹から血が零れた。


「ひ、……、っぐ……、う、うう……」

「抵抗するなよHoney」


 ナイフを戻そうとするも、男は強い力で握り締める。手からボタボタと血が流れた。

 だというのに男は爛々と目を輝かせながら笑みを絶やさない。


「そろそろ本当に死んじまうぜ。大人しくなれよ」

「で、できるかよ……俺は、俺は……」

「生きたいんだろ? 聞いた。確かに聞いた」


 最高の答えだと言われ、俺はまた「やっちまった」と嘆いた。何も分かってはいないが、兎角自分の返答がいけなかった事は理解出来た。

 ヒイヒイゼイゼイ息をして男の目を見る。男の目はがらんとした空洞が広がっているようだった。


「面白い。なにより顔だ。お前の顔には価値がある。生き汚いのも良い。出自が分からないのも良いな。気に入ったよ」


 跡をつけるように男は俺の頬を撫で、血を残していく。


「俺はお前を気に入ったよpuppy」


 言われた言葉の意味が全く分からなかった。

 分からなくてただ恐ろしかった。


「お前を飼おう」


 ああ、やっちまった。


 何も分からずとも、それだけは理解出来たのだ。

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