第16話 涼音の目標

「うちさー、あんま勉強してなかったんだよね。モデルの仕事が楽しくて、そっちのことばっかしてんの、にゃはは」


 悪びれもせずに無邪気に笑う涼音は、いつもの調子だった。


「モデルの仕事は順調なのか?」


「順調だよー。」


 カリカリと参考書の内容を書き写す。その様子は、集中力がないと言っている少女の面影はない。


 涼音は、教えたことを吸収するのは早かった。漢字、慣用句、英語……そこらへんは覚えるのが早い。


 もともと集中力はある子なんだろうな。俺は感心してしまう。


「うちさ、将来は女優になりたいんだ」


 涼音は背筋を伸ばしながら、そんなことを言う。


「女優志望なの? モデルじゃなくて?」


「うちね、映画が好きなの。でね、一番好きな映画で主演してる女優さんが、すっごくかっこいいんだよー」


「なんて言う人?」


「塩地スミレって言う人だよ。知ってる?」


「ごめん、初耳だ」


「ちょっと待ってて。えーとね……これ、この人だよ」


 涼音は携帯を俺に見せる。その画面には、大人っぽい雰囲気の美人さんが写し込まれていた。


「この人ね、高校卒業してすぐに役者になったんだって」


 夢見る乙女の表情になっている。きっと、ずっとあこがれている役者さんなんだろう。


 俺は、会社勤めしている最中はとてもそんな余裕はなかったから、最近の俳優とか全く知らない。だから、この人が有名かどうかなんてさっぱりだ。


 でも、これだけ人を惹きつけることができるというこは、それだけすごい女優さんなんだろうな、と思う。


「神楽坂の娘なら、会うくらいはできるんじゃないか?」


「えー、なにそれ! コネで会うってこと?」


「う、うん。」


「そんなの嫌だよー。うちは、実力で女優になって、隣に立ちたいの!」


 涼音は、ばっと立ち上がり、天井へ向かって手を挙げる。


「うち、絶対に女優になるって、心に決めてんの。だから、まずはその前に、雑誌モデルでトップを取るって決めたんだ!」 


 にぱっと笑いながら、涼音は飛び跳ねる。


「同級生の子で、カリスマモデルって言われてる子がいるんだー♪ ほらこれみて、この子!」


 と、涼音はスマホを操作し、画面を見せてくれる。その画面には、少女が映し出されている。どこかで見たことがある気がした。


「んー。やっぱ可愛いなー、よりちー♪」


「よりちー?」


「同じモデルの子でぇ、うちよりも美人で可愛くて人気がある子なの! んでね、頭も良くって、テレビのクイズ番組なんかにもたまに出てるんだよー」


 涼音は、まるで自分のことのように自慢する。そして、その少女の姿を見せびらかすように、スマホの画面を見せてくる。


 涼音の画面に映し出されている映像を見てみると、そこには女の子の姿があった。


 黒を基調とした上下の衣服は、バンドマンのような気の強さを感じさせつつも、女性らしいにじみ出る美しさが印象的だ。


 やや冷淡そうな笑顔が特徴的な、大人びた子だ。麗衣とはまた違ったクールさで、切れ味を感じるほどの鮮烈な美少女だった。


「うち、絶対にこの子に追いつくって決めたの! モデルの事務所でレッスンやる時、ぜったいによりちーと同じの選ぶようにしてるんだ♪」


「この子が、事務所のトップなのか」


「そだよ♪ だってほら、見た目でわかんじゃん♪ ぬけてるーってゆーの? こんなにクールでカッコイイのに、笑った時はすんごくかわいいの♪ そんでそんで、ダンスがめっちゃうまいんだよ!」


 目がキラキラと輝いている。涼音は、好きなことには夢中になれるこなんだな。


「だから、うち、もっともっと可愛いくなって、いっぱいできるようになりたい! もっともっと、今よりずっと!」


 すごい迫力だった。

 俺は内心、この子を見直していた。

 実家の太さに甘え、ただ楽しいからという理由でギャルをしているのかと思っていた。


 だが、それは誤解だった。

 きちんとしたも目標をもって、なりたい自分になるために努力してる子なんだ。


 俺は考えを改めた。この子は真面目なんだ。だったら、その想いに応えなければいけない。


「えへへ、でもね。これ言うと、麗衣ちゃんは白けちゃうし、イリアちゃんは目を真ん丸にして、無理だって言うんだよ。本気なんだけどなー」


「そ、そうなのか」


 ようやく色っぽいシーンが終わり、俺は胸をなでおろしつつ返事する。


「ゆっきーはどう思う? うちの夢、バカみたいって思う?」


「思わないよ」


 俺は即答した。


「涼音がやりたいと思って目指してるんだろ? なら、俺はそれをバカにしたりしない」


「うわー、うれしいー。ゆっきーって物分かりイイんだね」


「まあな。俺はこう見えて、頭は柔らかいんだよ」


 俺は自分でも不思議なくらい、涼音の夢に同調していた。もしかしたら俺は、知らず知らずのうちに自分の過去を重ね合わせていたのかもしれない。何も考えず、強い望みもなく、ただ生きてきたために貴重な時間を浪費してきた過去の自分を。


 それに、正直に言えば、俺は涼音に感謝していた。


 俺は、ここまででこの子にどれだけ助けられたことか分からない。

 俺は人と会話するのが苦手だったから、今までとてつもない苦労をしてきていた。


 ここにきてすぐ、他の姉妹と会話をするのが自然な流れでできたのは、この子のぐいぐいとした押しがあったからに他ならない。


 俺は、この子に報いなければいけない。そう思っていた。


「よし、涼音。俺は今日から、お前が女優になるための手助けをする」


「ふえぇ? え、マジ?」


「大マジだよ。勉強ってのは受験のためだけに学ぶものじゃない。日常生活にも使えるんだ。もちろん、演技にだって応用が利く」


「そうなの?」


「ああ。高校の授業で習ったことって、実際には使えないって思ってたか?」


「うん。正直あんま役に立たないって思うよ」


「ところがそうじゃないんだ。映画が好きなら、なんでそうなったのかがよくわからないシーンがないか?」


「そういえば、あるよ。よくわからないうちに物語が進んじゃって、何気なく見ちゃうってこと、あるあるだよね」


「映画なんかの物語は自動的に進むから、なんとなく理解できたつもりでも見ていける。けど、演じる側となると、いろんな知識を要求されるんだ。ドラマでも、最近は難しい用語が出てくるだろ? そういうものを、知識として知って使うのと、言わされて使うのでは、表現が違ってくると思う」


「うーん、そうなの?」


 涼音は首をひねる。あまり想像がつかないようだ。


「漢字を読むとき、意味が分からないと困ることだってある。英語は言わずもがなだ。社会で基本的な歴史を知っていると、便利なことが多い。学校の勉強っていうのは、現実世界とつながっていることが多いんだよ」


 これは社会人として働いていた時に実感したことだ。


 例えば現代国語でならう慣用句だが、仕事上で意味を伝えようとするときにとても便利に使える。だが、相手がその言葉の意味を知っていなかったら、手取り足取りで教えることになりかねない。


 歴史だってそうだ。昔、実際に起きた出来事を参考にして、今の社会は成り立っている。それは、日常生活にだって影響を及ぼしたりするのだ。


 まだ学生の涼音には分からないのも無理はない。


「俺は、涼音を手助けする。それが俺の仕事だからだ。涼音も俺を信用して、教わってみてほしい」


 俺は、心を込めて言葉を選んだつもりだ。涼音はそれを聞いて、どうとらえるか。

 それを確かめるように、俺は返答を促す。


「できるか?」


「うん。うち、ゆっきーの事、信じる」


「よかった。やらないって言われたらどうしようかと思った」


「そんなこと言うわけないじゃん。ゆっきー、うちのことを考えてくれてるんだなって、すごくよくわかったもん」


 涼音は鈴のような声音で笑う。笑い方は明るく、それでいて下品ではない。明るく健やかに育ったギャルは、まっすぐにで曲がったところのない美少女だった。


「モチベ上がったよ、ゆっきー。うち、モデルの仕事を頑張りながら、勉強も頑張るようにする! で、ゆっきーの指導がよかったから成績が良くなったんだよーって、パパに言うよ」


「はは、分かったよ。お手柔らかにな」


 俺は苦笑する。

 俺と涼音、二人の取引はここで成立ということだ。


「見守っててよね、ゆっきー先生!」


 涼音は手を広げ、頭の上に持ち上げる。ハイタッチのポーズだ。

 な、なんか照れるな。


「はやくぅ」


 俺はためらいつつも、涼音に求められるまま、手を挙げてハイタッチする。

 ぱちーん! という乾いた音とともに、小気味いい衝撃が手に広がる。


「えっへへー! これでうちら、マブだねー」


 俺は明るく微笑む涼音に、微笑み返していた。

 邪気の全くない、少女らしい愛らしさに満ちた笑顔は、俺の心に清涼感を届けてくれる。


 俺のような冴えない男に対してこんな風に接してくれるから、涼音はモデルとしてトップになれたんだろうな。そう確信していた。


「よし、じゃあ切りもいいし、今日はこれくらいにしておくか」


「はーい。やー、疲れたよー」


 涼音は硬直していた全身の筋を一気に緩めたように、テーブルに突っ伏した。よほど集中していたらしい。表情は弛緩していた。


「あ、ちょっと待って」


 涼音はそういうと、きゅっと顔を引き締めてからスマートホンを持ちだし、ノートと自分を一緒の画面に納めるようなアングルから写真を撮った。


 何してるんだ?

 そう思っていたら、携帯電話を操作し始めた。


「インスタ投稿っと。わはぁ、もうコメントついてる」


 涼音はその愛嬌あふれる顔に元気な笑顔を浮かべている。抜け目ないな。勉強の時間も、自分の人生を充実させるものの一つに変えてしまうのは、非情に賢い。

 地頭がいいんだろうな。


 俺は、感心していた。

 インスタグラムみたいなSNSでいろんな人とつながって、いろいろな人脈を作り上げて、いずれは社会に出ていくのだろう。


 俺はその時、気づいていなかった。

 携帯電話の操作をしていた涼音の表情が一瞬、曇っていたことに。


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