第12話 麗衣の願い

 翌日。


「お菓子を作る? 私がですか?」


 麗衣が、珍しく素っ頓狂な声を上げた。麗衣の声が乱れるのは、悲鳴を上げる時以外では初めてかもしれない。


「目的はなんなのでしょう? どうしてですか?」


「昨日の通知表で、家庭科の評価だけ他に比べて低かった、って言っただろ? あれを見て、対策をしなければって思ったんだ」


 は? と麗衣がいら立ったように声を跳ね上げる。どうやら、琴線に触れてしまったようだ。


「国立大に受かるのが目的と言ってありますよね? なのに、無用の家庭科のことを行って、意味があるのでしょうか」


「ある」


 俺は断言した。麗衣は意外そうに、少しだけ目を丸くする。


「料理したことある?」


「いえ。使用人さんが作ってくれるから、その必要がないんです」


 麗衣はエプロンを目の前にして、ためらっているように見えた。


 フリル付きの可愛らしいデザインのエプロンは、少女っぽい。俺はもちろん、麗衣くらいの年頃の女性には、少々、似合わないかもしれない。


 が、そんなことはお構いなしだ。俺はそのエプロンをワイシャツの上から着こんだ。


「……ッ」


「ん? どうした麗衣。顔が引きつってるぞ」


「……だ、だって、その恰好……ふくッ」


 麗衣のすまし顔が、かすかにゆがむ。


「ふふ、うふふふふっ。そ、その恰好、ぜんぜん似合いませんよ、先生」


 麗衣は口元を抑え、笑みを噛み殺すように悶える。よほど似合っていないのだろう。


「やっと笑ってくれた」


 俺はおどけたような格好のまま、笑みを向ける。麗衣は俺の態度がわざとだったと悟ったのだろう。慌てて頭を下げた。


「す、すみません」


「なんで謝るんだ? 笑うのはとてもいいことだ。もっと笑ってもいいよ、ほら」


 俺は手を広げる。


「ふふ……く、工藤先生って、お茶目なんですね」


 麗衣の表情がまろやかに緩む。


「私、誤解していたかもしれません。工藤先生は、お父様を騙して取り入った詐欺師かもしれないと思っていたんです」


 今までの堅苦しい態度が一変し、美少女本来の愛らしさがこみ上げている。


「まだ信用しきれないけど……少しだけ、信じられる気がしてきました」


「ありがとう。もっと信じてもらえるように、頑張るよ」


「うふふ。さ、料理を教えて下さるんですよね? よろしくお願いいたします、先生」


 ぺこっと頭を下げる麗衣は、すっかり態度がほぐれていた。


 気を許した相手には、こんなにも無防備になるのか。俺は麗衣の無邪気な少女っぽさを感じながら、さっそく自炊で鍛えた料理の腕を振るうことにした。


「果物を切る時の包丁の使い方は、簡単だけど慎重にやるんだ」


 俺は取り出した果物をまな板の上にのせて、見本を見せた。

 す、す、と果物を細かく切っていく。


「ほら、使ってごらん」


「は、はい」


 麗衣は、包丁を手に取って、両手で掴む。


「ちょっと待って。包丁を両手で掴むのは危ない」


「あ、あ、そうなのですか? 私、間違っていますか?」


「持ち方は、こうだ」


「あ……」


 俺が麗衣の握っている包丁に手を重ね、やんわりと片手を引き離す。そして、残った右手の指を一本一本、きっちりと握りの部分に絡ませる。


 俺はほっと胸をなでおろし、そしてまな板の上のいちご、バナナなどを並べる。


「さ、切ってみよう。慌てず騒がず、ゆっくりでいい」


「こ、怖いです……自分の手を切ってしまいそう」


「刃の部分をあてがって、そのままスライドさせる感覚でいいんだ。それなら絶対に自分の手を切ったりはしない」


「こ、こうですか?」


「そうだ。安心して」


 俺が麗衣のガイドとして指示し、それにならう麗衣は素直に手を動かす。

 息がぴったりのコンビネーションで、麗衣はイチゴを見事に四分割にすることができた。


「うまいうまい。上手じゃないか、麗衣」


「せ、先生の教え方が上手いんです」


 麗衣が無防備にはにかみ笑いを浮かべる。普段の冷静な彼女もさえわたるような美しさがあったが、今の満面の笑顔を浮かべる彼女は、年相応のかわいらしさがあった。


 そうして果物を全て切り終えた麗衣は、それをボウルに入れた。

 あとは、前もって作ってあったスポンジとクリームを使い、ケーキ作りは完成だ。


「なんでケーキを作ろうだなんて言ってきたんですか?」


「なんとなくだよ。たまにはリラックスするのも大事だと思ってね」


「ケーキ作りがリラックスになるんですか?」


「甘いものって、食べ過ぎなければ幸せな気持ちになれるんだってさ。だから、一緒に作ってみたいと思った」


 麗衣は、納得したようなしないような、複雑な顔をしている。


「料理は好きか?」


「いいえ。むしろ苦手です。ずっと使用人さんにまかせっきりでしたし、危ないからってぜんぜん触らせてもらえませんでした。お母さまがなくなってからは」


「……お母さんは、させてくれたの?」


「はい。とても優しいお母さまでした」


 麗衣はにこやかな表情を崩さない。冷静に、そして穏やかに、俺の心情をくみ取ってくれているから、冷静さを保っている。


 気遣いができるのは、おそらく高度な教育のたまものだろう。俺は感心し、そして少し悲しくなった。


「でも、近所のケーキ屋さんの子が、特別に作っている最中の様子を見せてくれたことがあったんです」


「へえ! ケーキを作るところを見ることができたなんて、ラッキーだな」


「でしょう? 今でも自慢なんです。それで私、ケーキ屋さんになるのが夢だったことがあったんです」


 なるほど、それであのアルバムに……俺は合点がいった。この子は、昔の思い出を宝物として、胸の奥にしまい込んでいるんだ。


「今はもう、夢は消えてなくなっちゃいましたけどね」


 俺たちは出来上がったケーキをテーブルに運び、並んで腰かける。


「……ふふ。すみません。変な話、しちゃいましたね」


 俺は、麗衣が素直な気持ちを漏らしたのを好機だと思った。ここから、彼女のことを本当の意味で支えるための何かがつかめる。そう思ったのだ。


「麗衣は、寂しかったんじゃないのか?」


「……どうしてそう思うんですか?」


「強がっていて、一人でいることになれた気持ちでいても、やっぱり友達が欲しかったんじゃないのか」


「私、友達は……」


 いる、とは言えない。あの時、彼女を取り巻いていた少女たちは、麗衣を仲間としてよりも、シンボルとしてしか見ていないように感じた。


 それを麗衣もわかっていたのではないか。


「家庭科の授業は、やる気が出なかったんじゃない。大好きな思い出を壊したくなかったから、何もしなかったんじゃないのか?」


「……はい」


 麗衣は、素直に認めた。


「だって、仕方ないじゃないですか。私には屋敷の人がいる。親がいる。みんなの期待を、私は背負っている。勉強で一番を取って、将来のTALOSを背負うことを宿命づけられているんですよ?」


 麗衣はぶるぶると震え、表情を曇らせている。


「お母さまの願いだって、そうに決まっています。お父様の言うことを素直に聞いて、尽くすこと、それが何より大事って、そう、いったんです。いなくなってしまう間際に」


 麗衣の声は淡々としていたが、そこに、確かな本音があった。


「私は、この国のこの土地で育ちました。お母さまの生きていたこの土地で育ちたいという気持ちは消えません。だから、せめてこの地をはなれたくなかった。だからここに残ったんです」


 亡くなった母親への想いが、麗衣を突き動かしていたのか。


「母が愛した父親への想いを守るため、TALOSの跡継ぎとなる方に嫁ぐために、私は生きているんです」


 麗衣が放ったその言葉が、俺に突き刺さる。

 俺は麗衣の手を取った。


「それは違うぞ麗衣」


 俺は言った。叫びに近かった。


「それは断じて違う。人は、何かのパーツになるために、人生をかけてはいけないんだ」


 麗衣の目は潤んでいた。まるで、その言葉を言ってほしかったという願いと、そんなことは言われたくない、という叫びが混ざり合い、打ち消し合ったかのように、麗衣の唇がわななく。


「もう一度、言う。麗衣の人生は麗衣のものだ。ほかのだれかの、何かの都合の為に使われるなんてこと、絶対にあってはいけないんだ」


「じゃあ、なぜ父は私に、あれほどの教育を施したのですか? そしてなぜ母は、死ななければならなかったのですか?」


 難しい問いかけだった。この答えには、適当な返答などない。

 俺は目を閉じて、考えてから、じっくりと返答することにした。


「俺さ、この世の中には避けられない不幸と、避けられる不幸があると思ってる」


「どういうことですか?」


「ブラック企業に勤めてて、とんでもない量の仕事に見舞われて、毎日がぐったりだ。不幸そのものだったよ。でも、そこから逃げることができなかった。同僚のことや、自分の将来を考えたらさ」


 そう。俺は、逃げ出したくなかったんだ。

 ブラック企業に勤めて、理不尽に思いながら耐えていたのは、逃げたくなかったから。


 社長が死に瀕していた時、疲労困憊で面倒だからと逃げなかったのは、そこで逃げ出すような人間にはなりたくなかったからだ。


「避けられない不幸なら仕方ない。足掻くまでだ。君のお父さんが、そうしたように」


「私のお父様が……」


「避けられる不幸なら、その不幸から逃げずに立ち向かうことで打ち破れる……俺は、そう考えるんだ」


 ブラック企業から逃げていたら、今頃俺はただの無職だ。逃げるために何かしないと、立ち向かわないといけなかった。


 社長に見舞われた不幸、そこから逃げなかったから、今の俺がある。


「麗衣、俺は君に一つだけ言うことがある。聞いてくれるか?」


「……はい」


「幸せは、君自身が勝ち取るものだ。俺はその手伝いしかできない」


 しっかりとまっすぐ、彼女の目を見た。言葉だけでは伝えきれないものが伝わってくれないだろうか。そう願って。


「目の前の幸せから逃げるな。勝ち取れ」


「お父様やTALOSを、捨てろって言うんですか」


「いいや、違うよ。君なら、どれだけ時間がかかっても両方を手に入れられる。そう信じてる。だから、逃げるなって言うんだ。麗衣が、とても素敵な女の子だから」


「!」


 麗衣の目が丸くなる。そんな理想なんて、と言いかけているのが見て取れた。

 が、俺はそれでも、夢や理想を捨てきれずにいる彼女の願いのかけらを、その瞳の奥に感じていた。


「あ……」


 俺は、麗衣を抱き寄せた。胸元に顔を寄せる形になった麗衣は、モジモジと俺の腕の中でうごめく。


 見上げる瞳は潤み、その頬が、かすかに赤らんでいるように感じた。


「俺が側にいる。お前を支える。だから、一緒に進もう」


「先生が、側に……?」


「ああ。勉強でも、夢でも、俺が支える。それが俺の責任だからな」


「本当に、ですか?」


「ああ。本当にだよ」


「いつまでも?」


「ああ、もちろん」


 俺は、に、と笑って見せる。麗衣の仄かな香りが、俺の鼻腔を甘くくすぐった。


 この子は、一人だった。学校でも家の中でも、常に一人で戦い、孤高な人生を送ってきていた。


 豊かで恵まれているように見えて、彼女は孤高であることを選ばざるを得なかった。


 そろそろ、報われてもいい頃だと、俺は思っていた。

 俺は麗衣の頭をなでる。俺みたいなおっさんに髪をなでつけられても嫌かもしれない、と思ったが、麗衣は素直に俺の撫でる手をふりほどかなかった。


 さらりとした髪の感触が、手に心地よい。


「このケーキ、二人で食べようか?」


「はい。私のお部屋に来てください」


「分かった」


 俺たちは連れ添いながら、麗衣の部屋に向かうのだった。

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