第10話 家庭教師生活・始動

「さて、では採点に移るよ」


「はい、わかりました」


 俺はいま、麗衣れいの部屋に来ている。

 翌日、さっそく麗衣の勉強を見ることになったのだ。


 長女であり、最も難易度が高い長女の勉強を見ることができれば、きっちりとあとの二人の勉強も見ることができる。そう思ったからだ。


 何よりも、彼女は俺を信用していない。この子を信用させられるくらいの実績を作れば、ほかの子、特にイリアは納得するだろう。


 俺は、気合が入っていた。成り行きで始めることになった家庭教師だが、やれと言われればやるしかない。


 こんな好待遇の環境で仕事ができるなんて、もう今後の人生で来ることはないだろう。しっかりとやり遂げないと。そういう気持ちでいっぱいだった。


 麗衣は習い事があるらしく、学校から帰ってくるのが遅い。その分余裕が生まれるかと思いきや、高校のころの学習内容を復習するのに手一杯だった。今時の高校生はこんなに難しい内容をやっているのか、なんて思いながら勉強内容を見守っていた。


 しかし、見守る必要があるのか、と思うくらいに、彼女は完璧だった。


「すごいじゃないか。ほとんど満点だよ」


 俺は感心した。麗衣は真面目そうな印象の通り、素晴らしい成績だった。


 いま教えているのは数学だ。高校三年のこの時期ともなると問題の難易度は急激に跳ね上がる。


 麗衣の回答は、どれも完璧だった。


「問題を解くときの考え方がきっちりしていて、公式もちゃんと使いこなしてる。全く問題は見当たらないよ」


「ありがとうございます」


 麗衣はすまし顔である。これくらいはなんてことない、ということだろう。


 うーん、困ったぞ。これ、家庭教師が必要なのか? 俺がいても勉強の邪魔になるんじゃないか?


 それはこの子も同意見のようで、俺のことを横目で見ながら、軽くため息をついてきた。


「いかがですか? 私の能力に、どこか問題はありましたでしょうか?」


「ぜ、ぜんぜん問題ない」


「でしたら、引き続き問題集を解いていきましょうか?」


「う、うん。とりあえず、ひとしきり全部、見せてもらいたい」


 俺はそうして、麗衣の勉強を見守ることとなった。


 結論として、彼女は主要な教科すべて、超優秀な成績だった。特筆すべき出来事は、俺が添削している間、その様子を見守る彼女が、すすっと遠くに離れていくのを目の端で確認して悲しくなったことくらいだ。


「とても優秀な成績だよ。うーん、どうしようかな」


 俺は思案した。どうにもこうにも、とっかかりがない。ちょっと話をしたり様子を見た感じ、長女の麗衣には弱点らしき弱点がないのだ。


「通知表、見せてくれないかな」


 何かのとっかかりになるかもしれない。彼女は成績優秀だし、見せてもらうのは大丈夫な気がする。一か八か聞いてみることにした。


「……仕方ありません。わかりました」


 予想通り、麗衣はためらいつつも、通知表を持ってきてくれた。あまり抵抗がない、というのは助かる。


 中身を見てみる。すると、まぁ優秀なこと……ほぼ全教科、五段階評価の五だ。主要五教科は言うに及ばず、女子は苦手そうな体育まで五だ。この子、完璧すぎないか?


 と、思っていたのだが、一つだけ目立つのがあった。


「家庭科だけ、三だね」


「はい、その通りです」


 それが何か? とでも言いたげだ。彼女の目標は国立大に受かることだ。国立大に受かるのに家庭科の点数は重要ではない。面接に多少の影響がある程度で、文句は出ないだろう。そもそも標準点は取れている、問題ないと言えばそうとも言える。


 だが、俺はどうしてもそこに引っかかりを感じていた。

 なんでそんなに気になるんだろう。大したことでもないのに。


 自分で自分が不思議だが、そんな俺の思考をさえぎるように麗衣が勉強机から頭を上げた。


「そろそろお時間ではないでしょうか」


「あ、そうだね。じゃあ、今日はここまでにしておこうか」


「はい。ありがとうございました」


 時間を確認したら、家庭教師の時間が始まってから二時間たっている。話を聞いたところ、麗衣は高い集中力を維持するために一時間程度で小休止を挟むらしい。人間の集中力の限界がそれくらいだとか。理にかなっていると思う。俺は感心した。


 ここまで自己管理できる子に、教えることなんてあるのか? そうも思ったが、だが頭の一部では、それに対してアラートが鳴っている。この子には、何かがあると。


「ちょうど夕食の時間です。向かいましょう」


 麗衣の先導で、俺は食堂へと向かう。俺はつかみどころのない彼女に、とっかかりとなる尾が見えたような気持ちを抱えながら、食堂へと向かった。


 食堂は、ひときわ大きい部屋だった。

 洋画に出てくる貴族のようなテーブル配置で、長方形に整えられたテーブルにはテーブルクロスが引かれている。その上には食器が並べ立てられていた。


 そして、その中の一つの席に、涼音すずねが腰掛けていた。どうやら俺たちが来るのを待っていたらしい。俺は小さく挨拶して、隣り合って座る姉妹の真ん前の席に腰掛けた。


 彼女は俺たちの姿に気づくと、パッと手を挙げてほほ笑んでくれた。相変わらず、この子は明るくて助かる。


「ちっすー。ねね、どぉどぉ? 初日の感想、教えてよぉ。麗衣ちゃん、ゆっきーの教え方、おじょーずだった?」


 涼音がワクワクした顔で尋ねる。それに対して、麗衣は俺をちらりと横目で確認してから、冷ややかな目で応対した。


「……可もなく不可もなく、といったところね」


「へぇー、ゆっきー、やるじゃん!」


「? やるって、どこが?」


 いい評価には聞こえなかったけどな。


「麗衣ちゃんね、ほかの人の評価が、すんげー辛口なの。成績がいいのに生徒会の会長とかやってないんだけどさぁ、その理由がそれなんだー」


「え、役員とか推薦されるんじゃないの?」


「習い事や勉強があるから、そのようなことは全て断っているんです」


「それは、立派なことだね」


「……ありがとうございます」


 この子は自分の家族のことを、何よりも大事に思っているらしい。どうして、と思うくらいには、実直すぎる。


 どうしてなんだろう。そう思うが、今の彼女が答えてくれることは、きっとない。


 ふと、そこで俺は違和感に気づいた。イリアが姿を現さない。


「イリアは?」


「あ、あの子? あの子ね、夜はあんまり食べたがらないんだよ。部屋にこもってなんかやってんだよねー」


 ふぅーむ……どうやら、ここにも何やらあるらしい。まだ初日だから全員をきっちりと見ていられないが、俺はイリアの普段の雰囲気や言動を考えて、何らかの対応をしないとな、と考えていた。


 そうこうしているうちに、白衣に身を包んだ人たちが、足音も立てずに部屋に入ってきた。その手にはトレイがあり、料理を持ってきてくれたようだった。


 目の前の空間に、使用人と思しき人が食事のトレーを置いていく。


 俺は運ばれてきた食事を見て驚愕した。


「え、え? 何これ、フランス料理!? 豪華すぎないか?」


「んー? どこがぁ?」


「い、いや、すごいじゃないか、皿にソースで模様とか書き込まれてるし、この肉料理? みたいなやつ、レストランでしか見たことないぞ」


 カモ肉らしき肉料理にホワイトソースがかけられている。その見た目は優雅で、それだけで一種のエンターテインメントになっている。野菜サラダ、ライス、そしてスープがそれぞれ目の前に置かれていく。肉料理は数種類あり、どれも少量ではあったがバラエティ豊かな色合いで、赤みがかった牛肉のローストやロールきゃべるの薄い緑色は、色とりどりの様相を醸し出していた。


「あー、そっかぁ。ゆっきーはこういうの珍しい人だったっけ」


「こういうのって?」


「うちの料理、こういうの多いよ。毎回じゃないけど、新鮮味がなくなるくらいには多いかな」


 まるでフランス料理のフルコースなんだが……これを新鮮味がなくなるくらい食べてる? マジか? 異世界すぎないか? っていうか、こんなのばっかり食ってて体が悪くならないの?


「このような料理が毎食でるわけではありません。今日は恐らく、工藤先生がお越しになって初めての晩餐だから豪華なものになったのでしょう」


「そ、そうだったんだ」


 そっか、この屋敷の人なりに歓迎してくれたということか。こりゃ味わって食べないといけないな。そう思い、こわごわとした手つきでナイフとフォークを使う。


「いっただっきまーっす」


 涼音が元気よくフォークとナイフを取り、ホワイトソースがかけられた肉料理に手を付ける。葉菜の束と共に肉を口にする涼音は、目元を細め、実にうまそうに食べていた。


 俺も、一口食べてみる。ローストビーフっぽいその肉料理は、口に入れてかみしめると、じゅわわっとした肉汁が口中に満たされていく。


 ジューシーかつコクがあるそのまろみ豊かな味わいに、俺は一瞬で心奪われた。


「うまい! これ、すごくうまいよ!」


「にひひー。でしょでしょ? うちの料理人さん、三ツ星レストランで仕事してたこともあるんだってー。すっげーよね」


 涼音の口調が滑らかである。そりゃそうなるよ。こんなうまいもの食ったの初めてだ。


 俺はしばし、夢中になって食事をつづけた。


「……ごちそうさまでした」


 かたん、と音がして、目の前の席に座っていた麗衣が立ち上がった。


 見てみると、食事は半分ほど残っていた。小食なのかもしれない。


 凄く食事に対して淡白だった。あんなおいしいものを食べたというのに、全く意に介しもせず、もくもくと食事を済ませて、部屋に帰っていく。


 その麗衣の後ろ姿は、どことなく寂しそうだった。


 どうしてだろう。勉強が優秀で、志望の国立大も合格確実だ。実家は裕福で、こんな料理も食べることができて、最高の環境を持っている。


 不満なんか抱きようがない。だが、俺は、麗衣には何か大きいしこりのようなものがあるように感じられた。


 それは何なのか分からなかったが、その寂しい背中を見て、俺はその違和感の正体を探ろうと決心していた。




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