第9話 もう覚悟を決めるしかない

「この間の私の事故の時のことを覚えているかい?」


「……は」


 どうして急に事故の話が? そりゃ、言って見れば事の発端だ。忘れたくても忘れられない。


「私の身内には様々な奴がいてね。中には後ろ暗いことをしているのもいるらしい。半ば縁を切っているから分からんがね」


「は、はぁ」


「中には私の会社を狙っているものもいる。近しい親戚が、株主総会の時に私を攻め立て、苦しめ、一度は社長の首が入れ替わりそうになったことがあった」


「お家騒動、ですか」


「ああ。僅差で私が社長に残ることになったのだがね。が、それを逆恨みしたのか、親戚筋には私を殺害し、乗っ取りを画策しているものがいると聞き及んだ。この間の時のように、事故に見せかけて暗殺しようとするなどね」


「し、親戚が、殺害未遂を!?」


 お、驚いた。そんなことする人、いるんだ。物語の中の話だと思っていた。


「まだ疑いではあるがね。きっちりと調査し、裏が取れれば明らかになる」


「……恐怖ですね」


「まったく愚かなことだ。このようなことをして会社を乗っ取っても、TALOSという会社が地の果てに落ちて立ち行かなくなるだけだというのに」


 吐き捨てるような言葉遣いだった。社長は、全く知らない人を信用できなくなっているようだった。


「TALOSほどの会社を窮地に落とすことにメリットはない。競合他社にネズミが紛れ込んでいなければ、だがね。まぁ、つまりはどこにどんな疑念があることも考えられてしまうというわけだ」


 社長は俺に耳打ちする。


「つまり、だ。信頼できるのは、全くの関係性のない他人、それも善意をもって行動をとれる一般人というのが、今の私の心境なのだよ」


 俺はこの社長のことを誤解していた。情熱家のワンマン社長かと思っていたが、運否天賦の要素も同居しているタイプだったらしい。


 どうやったって行き当たりばったりの考えを、無理やりにロシア進出の話に結び付けている。


 これはもう、既定路線に乗ってしまったということで間違いないだろう。俺は胸中で、やらかしたと思った。この系統のトップは、何をしでかすか分からない。


「会ってから数日しかたっていない君にお願いするのは不自然だと思うのは間違っていない。私も、これは賭けだと感じている。だが、自分と妻の為にも、娘たちの未来の為にも、もはや君のような男に賭けるしかないんだよ」


 社長の瞳に浮かぶのは、俺への信頼、そして崇拝のような感情だ。


「本当に私でよろしいのですか? 何が起こってもおかしくない、そんな男に任せて、いいのでしょうか」


 社長は、力強くうなずいた。


「このような縁というのは、恐らく一生に一度、訪れるかどうかのものなんだ。神がかり的なものだと思っていい」


 それは、言う通りだった。俺がこの人のような大物と知り合う可能性など、普通に生きていたらありえない。


「工藤くん。賭けるなら、私は君のような男に賭けたい。後悔をしたくない。そして、なによりも君は信用できる。自らの命を顧みずに人を助けられる君は」


 情熱感たっぷりの社長の言葉が、俺の中に染み入っていく。


「君も、私の提案に賭けてくれないか?」


 がし、と俺の肩を掴んでまっすぐに俺を見つめる社長の瞳は、少年のように輝いていた。


 その言葉に、俺の心は大きく揺さぶられた。さすがに情熱型の社長だけある。


「む、娘さんたちの気持ちは、どうされるんです?」


 俺は横を見た。麗衣、涼音、イリアそれぞれが複雑な表情を浮かべている。


「少し話がせわしなさすぎる気がします」


 そこで、麗衣れいが口をはさんできた。少女の声は落ち着いていたが、声が微かに震えている。


「お父様、私、ずっと言っているようにロシアに行くなんてとても考えられません。日本に友人がいますし、やりたいこともあります。ですが……」


 麗衣は美しい顔に複雑な色を浮かべていた。警戒心、戸惑い、不信感、不安、そんな感じだ。


「縁もゆかりもないこの男性に、私たちのことを任せる必要はありますか? 護衛の方々がいます。そちらの方だけで十分なのでは?」


「わ、わたしも、同じいけん……家の中に男の人がいるなんて、こわい」


 はっきりとした警戒の意志を感じる長女と、恐怖や嫌悪が映る三女の顔は、俺の立場を明確に浮かび上がらせている。


「使用人に身の回りのことを任せているのを、仕事にかまけて放置していた。それを反省しているんだ」


 社長は、そんなことを言う。意味が良くつかめなかった。


「麗衣、お前の成績は志望の国立大に受かるだけの学力だろう。が、それだけが重要なのか? お前は我が家の長女だが、一人の女性だ」


「……つまり?」


「お前には学ばなければいけないものがある。足りないものを、彼が教えてくれる」


 は? 足りないもの? それを、俺が? ど、どういうこと?


 ぎょっとしたが、社長は俺に目配せすると、ふふっと笑った。カマでもかけたのか?


「……それは、とてもありがたいのですが、でもこのタイミングでなんて」


「お前たちのことを思ってのことだ。聞き入れてほしい」


「……お父様の命令には、従います」


 麗衣はしぶしぶといった感じである。続いて社長は、隣の次女の涼音に目を向ける。


「涼音、モデルの仕事をするのはいい。だが、学業を疎かにしていいということではないぞ」


「えぇー? でもぉ、プロの仕事に触れるのはいいことだよって、パパはいつも言ってたじゃん」


「事と次第によるんだ。涼音が活躍する姿を見るのは父親としても嬉しい。が、あまりに奔放すぎれば、それは大けがにつながる」


「そーかなー。今までなんともなかったんだけどなぁ」


「彼が、お前に教えてくれる」


 ま、また。俺のことをどこまで娘たちに推しまくるのはいいけど、期待値を上げまくられてしまっている。それに加えて、どんどんと外堀が埋まっていく。

 やばい。


「イリア、お前には悪いと思っている。まだ小さいのに、両親と離れ離れになるだなんて想像もできなかっただろう」


「だいじょうぶ。イリア、パパのこと、信じてる」


 イリアの表情は複雑だった。感情の揺らぎが微妙で、いまいち考えていることが伝わりにくかった。


「……本当に悪いと思っている。お父さんはこれから、ママの故郷に行く。お前は日本で、健やかに育ってほしい。お前のことは、彼が正しい場所へ導いてくれる」


「パパ……」


 イリアは、不安を抱いたままのようだが、それでも姉に倣って納得したようだった。


 俺は動転していた。


 同居? 面倒を見る? 俺が? 一回り以上も年下の少女の? こんなにも煙たがられているのに?


 そんなことを想いながらも、俺にはこの話を受ける以外の道は残されていない。

 彼女たちの家庭教師をしながら、一緒に過ごしていくしかない。


 ここまで来たら、俺にできることはもう一つしかない。

 彼女たちの家庭教師という仕事をつつがなく行い、信頼を勝ち取り、ここでの立場を確かなものにすることだ。

 責任は果たす。それだけを考えることにした。


 かくして、社長たちと俺の話は終わった。


 結局のところ、社長からの依頼内容は、住み込みで家庭教師として働き、神楽坂一家の成績向上と、生活の充実をお願いしたいというもので確定した。三姉妹もその内容で同意し、あくる日から、まずは家庭教師として学業指導をする、という形に落ち着いた。


 俺は、学業支援と生活の充実とはまた別のものを求められているような気がした。

 それはなにか……俺は、考える。


 あくまで基本は家庭教師として働くが、住み込みである以上はその他の事で交流する機会はあるだろうし、それまでは制限されないということだから、ある程度の行動の自由はある。護衛がいるから身の回りの安全も問題ない。


 俺は、この面々を見渡しながら、これから始まる奇妙な同棲生活に、大きな不安と小さな期待を抱いていた。

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