第6話 不可抗力でしょう!?

「ん、あ……」


 俺が目覚めたとき、まずはじめに目に飛び込んできたのは、だだっ広い部屋の天井だった。


 ボタニックというのだろうか。植物の柄に染まった部屋の模様があしらわれていて、東洋とも西洋とも言い切れない不可思議な感じのデザインだ。


 こんなキレイな模様のあしらわれた天井など見たことがない。

 質素で清潔な空気が部屋の中に満たされている。

 俺は体を起こした。


「どこだここ」


 まだ頭がぼーっとしている。どうも、寝不足もたたって相当な時間、寝てしまったようだ。おかげで頭がクリアになって、スッキリ感がすごい。


 頭とは裏腹に、体はやや重かった。ずしりとした重みがのしかかり、起き上がるのが、いつもよりもだいぶ辛い。


 それでも何とか起き上がろうとしたら、ズキンとした痛みが顎のあたりに駆け抜けた。


 鏡があったら確認したい。それくらいには、顎がずきずきする。


 腫れてるんじゃないか、と思って触ってみる。直後、ズッキーンという電撃のような強い痛みが襲い掛かってきた。


「あいたた!」


 思わず悲鳴を上げ、のたうちまわる。猛烈に痛い。これ、アザができてるんじゃないだろうか。こんな痛みは久しぶりだ。すっかり目が覚めた。


 こうなったきっかけを思い出す。そうだ、あのお嬢様っぽい子に顎を思い切り蹴り上げられたんだ。


「あんな小さい体のどこにこんな力があるんだよ」


「小さくて悪かったですね」


 遠くから部屋の扉が開くような音と共に、重苦しい声が聞こえてきた。

 俺は慌ててそちらを向く。


「あ、さっきの……」


 見覚えのある少女の姿がそこにあった。

 手には洗面器を持っている。洗面器からは湯気が立っており、タオルらしき布がかかっている。


「これで顔を拭いてください」


「あ、ありがとう」


 もしかして、俺の様子を見に来てくれたのだろうか?


「さきほどは大変失礼いたしました。慌てていたとはいえ、顔面を蹴り飛ばすなんて、やりすぎました」


 素直に少女は頭を下げる。激しい怒りの割に、素直な謝罪だった。


 自分でもやらかしてしまったという自覚はあったらしい。申し訳なさそうな態度だった。俺は首を横に振った。


「こちらこそゴメン。あんなことしちゃって、なんて言ったらいいか」


「お気になさらず」


 つんと澄ました少女は、その体躯に似つかわしくない大人っぽさで、俺を突き放すように無表情だ。仕方ないとは思うが、ここまで露骨に距離を取られると、気落ちする。


「自己紹介が遅れました。私は神楽坂麗衣かぐらざかれいと申します。神楽坂家の長女です」


 少女、麗衣は頭をぺこりと下げた。

 神楽坂……ということは、社長の娘さんだろう。俺が請け負った家庭教師の仕事の相手、というわけだ。


 この聡明そうな子に、俺が、勉強を教える……? 見た目で判断するのは良くないけど、とてもそんな必要はなさそうに見える。


「ご、ご丁寧にどうも。工藤幸人くどうゆきとといいます。君たちの家庭教師として呼ばれたんだけど、聞いてる?」


 麗衣は、神妙な面持ちのままうなずく。俺はタオルで顔を拭きつつ、美少女の整った顔を改めて観察した。


 少しきつめではあるが、お嬢様らしいおっとりとした雰囲気だった。


「父が大変お世話になったようですね」


 彼女は俺に礼を言う。言葉は丁寧だが、感情の色が混ざっていない、あっさりとしたものだった。


「心からお礼を申し上げます。本当に、ありがとうございました」


 麗衣は、深々と頭を下げてお辞儀をする。俺もつられて上半身だけ起きた状態で頭を下げた。


「それに加えて、謝罪させていただきます。さきほどは失礼しました。父親の命の恩人に対して、大変なご無礼をしてしまいました。申し訳ございません」


 穏やかで静かな響きが、俺の耳に清涼感を届けてくれる。謝罪の言葉も流暢で誠意というものが伝わってくる。だが、その目は笑っていない。


 顔色にはまだ少し警戒の色が濃く残っていて、俺たちの間には深い溝があるように感じた。


 まぁ、家庭教師とか言って見知らぬ異性がいきなり来ることになったら、ためらうだろう。箱入りのお嬢様っぽいし、当たり前と言えば当たり前の反応だと思う。


 部屋の空気が引き締まる。俺は、喉の奥がきゅううっと締まるような気持ちだった。


「お怪我の状態はいかがでしょうか?」


「あ、ああ。大丈夫だよ」


「頭の痛みはいかがでしょう」


「大丈夫。むしろすっきりしてるくらいだよ」


 俺はぐるぐると頭を回し、ついでに両肩を回す。大げさな元気アピールではあるが、実際に頭はかなり鮮明で明瞭だった。デスマあけのようなこの頭の軽さは、徹夜明けに思いっきり寝た後と同じだ。


「それはよかったです。あの後、十時間も眠っていたんですよ」


「じゅ!?」


 そんなに寝たの!? マジで? いや、そりゃ疲れてたけど! でも、そんなに寝ることってある? いくらなんでも寝すぎだ。そりゃスッキリするわけだよ。


「もしかして脳に損傷でも与えてしまったのかと、とても焦りました。屋敷付きのドクターを呼び寄せて診察してもらったら、ただの寝不足と言われて安心したのですが、やはり全く起きないのは不安でした」


「そ、そりゃそうだ」


「目を覚ましてくださって、よかったです」


 安心したように胸をなでおろすその姿は、本気で心配しているようではあった。悪いことをしたという意識はあるらしい。


「汚れてしまった衣服は洗濯させていただきます。あちらに替えが用意してあるので、この後に着替えて下さい」


 麗衣は俺から使用済みタオルを受け取り、そんなことを言う。

 口調は優しく、声だけ聴いていればさっきの怒りの片鱗すら見えない。


 俺からタオルを受け取る嫋やかな手は透き通るように白く、肌はすべすべしていて細長い指が白魚のような線を描きだす。


 丁寧で身のこなしも流れるように滑らかだ。言葉遣いにも失礼はなく、隙らしい隙がない。


 頭脳明晰、懇切丁寧……ちょっとあわてんぼうだけど、それを恥じて謝る分別もある。


 いい子だとは思う。そこは素直に感心できる。


 が……これだけ話していても、こちらに向けられる眼光は張りつめたままだ。表情が硬いままである。整っているだけに、なおさら迫力がある。


 麗衣の視線が俺に突き刺さる。俺を警戒しているのか、それともまだ根に持っているのか……多分、両方だろうな。このジト目、可愛いけど、怖い。


 お礼と謝罪はした、けれども決定的な部分では心を許すことはない。そんな堅固な意思を感じた。どこかよそよそしい彼女は、お互いに気を許すきっかけを終えても、俺に対して決定的な壁を作っていた。


 まぁ、それほど初対面の印象が悪すぎたということか。


 俺は肩をすくめた。お年頃の少女のパンツを見たものの成れの果てだと思ってあきらめよう。胸をぎゅっと掴まれたような居心地の悪さと共にしばしの沈黙が流れる。


 美しい麗衣の唇が、きゅうっとしまっている。


「あ、あの」


 俺は気まずさに耐えきれず、口を開いた。


「話は聞いてる?」


「……話というのは、どの話でしょう?」


 どの? 何種類かある、ってこと?


「家庭教師の話なんだけど」


「……その話ですか。当然、伺っておりますよ」


 俺の問いかけにうなずく麗衣は、硬い表情に戸惑いを浮かべ、小首を傾げた。


「なぜ突然、民間のお方が家庭教師になるという話になったのかが分からなかったのですが、父の指示ですから従う他ありません」


 なんだか、しぶしぶ認めたって感じだ。


「その件も含めて、話をさせていただきたいと思っておりました。まずは、みんなの前で自己紹介を兼ねた挨拶をしていただきたいのですが、いいですか?」


 まだ俺はみんなの事を何も知らない。家庭教師をするっていうことは、ちゃんとその子ひとりひとりの性格をきちんと把握しないと、ただの押し付けになってしまう。


 教えるのは、自分が学ぶよりも難しいのだ……というのは、俺の高校時代の恩師の言葉だ。


「うん。大丈夫。俺もちょうど、話をしっかりしないとって思ってたところなんだ」


「それは何よりです」


 満足そうにうなずく。伏し目がちに顔を上げた麗衣は、美しい顔に緩めの笑みを浮かべた、ような気がした。


 可愛い……やはり、自然な笑顔の時は輝くような美しさを放っている。


「皆の顔合わせをするための部屋がこの二つ向こうの部屋です。そちらで皆が待っております」


 麗衣はあっというまに表情を固まらせ、事務的に告げて背中を向ける。


 俺はベッドの上で身じろぎした。すると、スプリングの弾力で俺の体がばいぃんと跳ねた。フッカフカだ、このベッド。舌を巻きながら、何度か体の位置を変える。びっくりするくらいに居心地がいい。


 そりゃ十時間以上も寝るわ。こんなに寝心地いいんだもん。

 まるで何も身に着けていないくらいの身軽さで、シーツの下の俺は起きながらにして夢心地だった。


「あちらにバスルームがありますので、シャワーを浴びてから着替えて下さい」


「あ、ありがとう」


「みな準備が済んでおります。なるべく早くお越しください」


 俺はベッド上で仰向けのままうなずいた。


「わざわざそれを教えてに来てくれたの?」


「はい、それが私の役目でしたので……」


 そういいつつも、麗衣は目をそらす。なんとなく空々しい。実は罪悪感にさいなまれていたんだろうか。


 へぇ、可愛いところもあるな。俺はそんなことを思っていた。


「ありがとう。助かる」


「役目を果たしたのみですから、お礼を言う必要はありませんよ」


 麗衣は淡白な態度だった。まだまだ壁は厚い。俺はそう感じていた。


 麗衣は俺に背を向け、そのまま扉から出ていく。時間を確かめるものを探り、壁に駆けられた時計を確認したら、もうすっかり夜になっていた。


 もうそろそろちゃんと起きないと。

 俺はそう思いつつ、バサっと毛布を思い切りめくった。この布団は気持ちよすぎる。


 まるで全身が空気に包まれているような、スースーとした清涼感さえ感じてしまう居心地のよさだ。いつまでも眠ってしまいそうだった。


 うーん、と伸びをして、あまりにもスースーとした清涼感が生っぽいのに気づき、そこで衝撃の事実に気づいた。


「!!!!」


 俺はほとばしりそうな声を噛み殺し、自分の体を確認した。

 貧相な俺の体は、上下ともに下着すらつけていない、真っ裸の状態だったのだ!


 な、なな、なんで!?!? どうして裸!?

 そりゃ暖かい季節だけど! 部屋内だけど! どういうことなんだ!?


 そういえば、さっき麗衣が「着ていたものは洗濯した」とか言ってたような……


 だからって全裸にすることはないだろうよ!! 誰がどうやって脱がしたんだよ、怖いわ!!


 や、やばばば、ばい、やばい! 起き抜けの勢いで遠くへ吹っ飛ばした毛布の端を掴もうと、ベッドで体を起こす。


 その時、だった。


「あの! 私、反省してるんです! 父の恩人に傷をつけるなんてはしたないことをしてしまったと!」


 彼女が、ぎゅっと目を閉じたまま、思いっきり勢いよく振り向いた。


「あなたのことを嫌ってるわけではありません。むしろ感謝しているんです。大変な危険を冒してまで父を助けて……」


 そこまで話して、麗衣が目を見開いた。その光景はどう見えただろう。


 必死に語る美少女、その目の前には、中年のおっさんが素っ裸だ。


 その目には、俺の全裸姿が、映し込まれている。


「……あの」


 俺の、全裸姿を見て、麗衣が固まる。

 が、直後、彼女はぶるぶると全身を震わせ始めた。


「い、い、い……いやあぁぁぁーッ!! 変態―ッ!!!!」


 麗衣の黄色い叫びが轟く。

 そして。


「あいだあぁぁぁぁ!!」


 彼女が、タオルをのせるために使ったプラスチックトレーを俺に投げつけた。

 それは俺の顔面にスマッシュヒットする。

 猛烈な痛みと衝撃に、俺は真っ裸のまま、その場に崩れ落ちるのであった。


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