第34話 .Lily

 夕暮れ、アリスの自室にサラが戻ってきた。


 サラは二人がいることを確認すると、微笑みながら会釈をしたが、表情はどことなく落ち着いていなかった。リリーは椅子に腰掛けていて、サラに「おかえりなさい」と声をかける。アリスはベッドで寝転がったままだった。


「もう聞いているでしょうか。その、王室の」


 扉の前に立ったままのサラがリリーに問う。


「はい、さっきまでそこにいました。メイドさんが見つけてしまったんですよね」


 サラはリリーの応答を聞いて、視線を床に落とした。


「わたくしが行かせてしまったのです。新人なので、王室の掃除を教えようと思い、向かわせておいたら……とても悪いことをしました」


 サラの声は床に落ちていくようにか細かった。アナに話を聞いてほしいと言った時、彼女はアナへの信頼ゆえに、リリーの計画に対して苦い顔をした。アナはなにもしていないと言いたかったのだ。その信頼は、けしてアナだけに向けられたものではなく、他のメイドに対しても向けられているものだった。サラは自分の部下たちを信頼し、表面には滅多に出さないにしても、彼女たちを慈しんでいる。故意でなくとも猫の死体を見せ、その心を傷つけてしまったことを深く悔やんでいるのだ。


「サラさんは、悪くないです」


 そう言って励まそうとしても、サラの表情は浮かないままだった。


「加えて……情けない話ではあるのですが、アナと会うこともできませんでした」

「……どうかしたんですか」


 思わずリリーの目が光る。連日の件がある、アナはこのところ落ち着いていなかった。もしかしたら彼女の身になにかあったのではと胸中がざわつく。


「……分からないのです。無断で休むことなど、いままで一度たりともなかったのですが。他のメイドに確認してみても。なにも分かりませんでした。――あの、リリー様、こんなことをお伺いしても、困らせるだけだとは、思うのですが、」サラは顔を上げて、今まで見せたこともないくらいに切ない瞳でリリーを見澄ました。「アナになにか、あったのでしょうか……」


 リリーは、床の一点を見つめて固まった。なにも返してあげられる言葉がないことに、悔しくなった。


 アナはどうしたのだろう。いまにもひょこっと現れて、愛嬌のある笑顔を見せてくれればそれで安心できる。でも、もし――もし、なんだ? 彼女の身に、本当になにかあったというのか。そんなことあってはならない。きっと無事だ。明日には、……考えるうちに、リリーは歯がゆい思いで唇を噛んだ。


 サラが息を吸う音が聞こえた。


「取り乱しました、すみません。……そちらは、どうでしたか?」


 サラが尋ねてくる。リリーは顔を上げて、事の顛末を話した。


 夕日に照らされていた室内が、段々と影に覆われていく。そんなに長い話ではなかったが、リリーは話し終えてひどく疲れた気がした。アリスが立ち上がり、カーテンを閉め電気をつける。二、三度点滅して、部屋が人工的な明かりに包まれた。




「そんなことが……」


 話を聞き終えたサラはそう言って、何かを堪えるように目を瞑った。


「七年前の猫事件と関わりがあるかどうかは不明ですが、今回のマクナイルとミカフィエルのことはやはり関連してるんじゃないかと思ってます」


 サラは頷いて、椅子に座り込む。表情が晴れることはない。元々静かな人ではあるが、いまは目に見えて落ち込んで、話す気力もないように伺えた。思えば、サラはこの短い数日の間に、いくつもの懸念を抱えたことになるのだ。ヘイリーという事情の難しい娘を預かり、アナはなにも言わずに仕事を休んで連絡も取れず、自分が王室に向かわせたメイドは、不幸にも猫の死体を発見してしまった。その連続に疲弊した表情で彼女は口を開く。


「わたくしは最初、正直に言ってしまえば、他人事だとしか捉えていませんでした。けれど、こうして身近に事件が立て続いてはじめて、けして他人事ではないと、気付かされました。もっと早く気がついて、もっと早く考えておくべきだったのに。……いま言ったところで、役にもならないんですが」


 彼女は、自嘲するかのような声色で語った。声をかけるか悩んで、結局なにも思いつかなかった。済ました顔をして、てきぱきと仕事をしているサラはそこにいなかった。顔を顰めて、眉を寄せて、手を何度も組み合わせている。サラは苛々しているように見えて、リリーはろくな言葉もかけてあげられないと思った。


「今日は、戻ります」


 サラが気を取り直したように立ち上がって出て行くのを見送って、リリーはまたアリスの部屋の椅子に腰掛ける――。

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