第32話 .Lily
リリーとアリスは沈黙を保っていた。
向かうときはその長さに頭がくらくらした国境のトンネルも、帰り道には、思考を静かに働かせるのに邪魔のない環境としてリリーを出迎えてくれている。リリーは、そしてアリスも、ミカフィエルで見聞きした状況に、立ちくらみを引き起こしかねないような心境を抱いていた。残ったのはひどいやるせなさと、神聖エール教国に対する怒りに似た感情だった。
「わたしにできること」
リリーはつぶやく。いまや、自身の容疑を晴らす以上の目的を、リリーはこの事件に見出していた。
不意にアリスが立ち止まったことに気がついて、リリーも慌てて立ち止まる。トンネルも終わりに差し掛かり、出口が望めるところまで来ていた。途端に忘れていた暑さや、乾き切った喉に気が付いて、まさにいま目が覚めたかのように、きょろきょろと辺りを見渡した。
トンネルを抜けると、途端に開放感に包まれる。やっと息を吐いた気がした。朝よりも気温が高くなっているが、今日は風が吹いている。
すぐそばにいた番兵に身元を確認してもらって、もう一度塔に入り、帰国の印を押した。二週間前に出ていった人以来、初めての帰国だった。
二度目の番兵たちによる熱烈な歓迎を受けたあと帰路につき、足は城下から城への長い長い階段に差し掛かる。半分ほど登りきった時、顔を上げて階段の終わりを覗こうとすると、ふとそこに人集りができていることに気が付いた。アリスと顔を見合わせる。ざわざわと落ち着かない群衆、それを嗜めるように抑える近衛兵がいたが、どうやら手が足りていない。
「こんなところで集まってたら危ない」
リリーが言う。急な階段だ。一人が倒れでもしたら、後ろの人が巻き込まれて途端に大事故だ。アリスはリリーの言葉に頷いて、声を上げた。
「死にたくなければ詰めないで!」
アリスの声に気が付き、彼女を見た群衆は水を打ったように静まり返る。アリスが剣を抜いて頭上で振り回しているからだ。さっきまでの騒ぎは一瞬にして収まり、その場にいた人たちがゆっくりと散らばっていく。アリスの大胆さに慣れっこなリリーはそれを横目に、群衆を抑えつけていた近衛兵に話しかけた。
「なにかあったんですか」
彼女は小さな声で言う。群衆に聞こえないように、というよりも、言うのが憚られるかのようだった。
「……城内で、猫の死体が発見されたって」
「え?」
リリーは思わず聞き返した。
「猫の死体、王室で」
だが、最初から聞き取れていたし、意味も分かっていたのだ。信じられなくて逃避しようとしたけれど、それは無意味な試みだった。城内と聞いた、次に王室だと聞いた。徐々に鼓動が速くなっていく。昨日は海辺で、一昨日に城下で見つかったかと思えば、今度は王室で?
「少し騒ぎが大きくなっちゃったね。たぶん彼らのなに人かは聞いてる」
ちらと群衆を見た彼女はそう言い、呆れたように首を振った。
「ありがとうございます」
言い切る前に、リリーは力任せに地を蹴って駆け出した。しばらくして、後ろからアリスが付いてくるのが分かった。ターラは、ヘレナは、シャーリィは、大丈夫なのか。耳の横で風を切る音が鳴る。髪がぜんぶ後ろに靡いた。広場から城内に入り、曲がり際の手すりをひっつかんで角を曲がり、いくつもの階段は一段飛ばして駆け上がった。喉の奥が乾いて、咳が一度出る。
王室で猫の死体が発見された。近衛兵はそう言った。ターラたちは見てしまっただろうか。リリーもアリスも吐き気を催した、あの酷い光景を彼女たちには見て欲しくなかった。もし見てしまっていたら、どう忘れさせてあげればいいだろう。
リリーは数十秒走って、ようやく王室の前に辿り着く。そこには近衛兵が数人と、嗚咽を漏らしながら泣くメイドがいた。鳴り止まない激しい鼓動を深呼吸でゆっくりと鎮めていく。
「隊長、リリーさん……」
近衛兵が近づいてくる。その子の表情は困惑と恐怖に包まれていた。だが神妙な声音で、状況をすぐさま報告してくれる。
「王室で猫の死体が発見されました。発見したのはあそこのメイドです」
「死体は? 見た?」
後ろから付いてきていたアリスが近衛兵に訊く。アリスは息を切らしていなかった。
「中にあります。ごめんなさい、私は、見れていません……」
痛々しそうに言った彼女は、扉を視線で示したが、すぐに逸した。
「ううん、それでいい。ありがとう。そもそも、準隊が来るまでは動かせないから」
アリスが俯く彼女を励ます。見渡したが、ターラたちはいないようだった。ひとまず安心して、リリーは扉に近づく。
「アリスはそっち見ててよ、わたし中見てくるから」
そう言い残して、誰にも内部が見えないよう、扉を自分が入れるくらいの最小限に開く。王室へと入り、扉をそっと閉めようとするとアリスが身体を滑り込ませてきた。
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