第26話 .Lily
「ほんとだ……この人たち、もう帰ってこられないってことだよね。どうして……」
一ヶ月前に旅行者が増えて以降に記載された名前には印が付けられている。しかし、それは約二週間前の日付で途絶えていた。二週間前から今日までに旅行へ出た人が、帰ってきていないのだ。そしてもう、ミアを除く全員が、二度と帰ってくることもできなくなっている。期限の七十二時間を越した場合、マクナイルの再入国は不可と定められている。急にミアのことが心配になる。……彼女は、帰ってくるだろうか。
そしてこれは紛れもない一大事だ。当然、国衛軍や準国事隊はこのことを認知しているだろうけれど……。
はっとして、リリーはヘイリーを探す。さっきまで同じテーブルを囲んで座っていたはずなのに、いつの間にかいなくなっている。後ろを見ると、サラがヘイリーを膝枕し、寝かしつけようとしている最中だった。
「ああっ、ちょっと待ってくださいサラさんっ! ヘイリー、ちょっと起きて!」
急に起こされたヘイリーは眠そうな目をこすりながら、上半身を起こす。むにゃむにゃと呻いていた。
「はい、はい、どうしました……?」
「ごめんね起こして。あの、ミカフィエルに観光するような場所ってある?」
ヘイリーはしばらく頭を捻っていたが、やがて申し訳なさそうに口を開く。
「ごめんなさい、思いつかないです。建物はほとんどが集合した住宅ですし。風景も悪くはないですけど……、わざわざ観光で見に行くほどでも……」
「そう、分かった。ありがとう! おやすみ!」
リリーはヘイリーの肩を掴んでサラの膝に倒す。ちょうど頭の中が急回転していて、それに行動が伴ってくるので少し勢い良く彼女を押し倒してしまったが、次の瞬間には心地よさそうな寝息が聞こえてきた。
『なんでもミカフィエルの環境が優れていて、観光に行く人が多いらしいですよ』
昨日、アナが言っていた。休暇で旅行に行くのが流行っていて、特にミカフィエルは良い観光地であると。その発言には正しい部分と、誤った部分がある。旅行が流行っているという点は、一ヶ月前以降増えている旅行者の数を見れば正しいと分かる。一方でミカフィエルが観光に優れているという点は、地元の住人であるヘイリーの話と大きく違っていた。そもそもアナ自身が聞いた話であるために彼女を責めることはできないものの、問い質す必要はあるように思える。犯人の噂を流したのが彼女ならなおさらだ。
「サラさん――」
それを踏まえてサラに明日の行動を伝えようとして振り向くと、今度はサラが頭を揺らしてうつらうつらとしていた。こちらの話を聞いてはいたものの耐えきれなくなってしまったのだろう。アリスに視線をやると、アリスは顎でソファーを示す。サラの膝で眠るヘイリーを、まずはソファーの横辺りに敷いたクッションの上に寝かせ直し、サラをソファーへと運んで横にしてあげておいた。サラがソファーから落ちたらヘイリーが潰れてしまうけど、まあいいだろう。そっと布を被せておく。
「まあ、明日の朝でいいか」
リリーが椅子に戻ると、隣のアリスが出入国者表を眺めながら口を開いた。
「なに度も出ている人はいないみたいだね」
ゆっくりと首肯する。なに度も旅行に行っているうちに宗教に興味を持った人、という候補が――可能性がないわけではないが――失われたのだ。いくつもの名前があるが、繰り返し繰り返し出ているような人はいない。そして逆に、七年前に国を移動しなかったエール教徒がいるという可能性が濃厚になった。猫の首を切り落とすという行為が宗教上の儀式である以上、まさか無宗教の人が行ったとは思えない。猫事件の犯人がマクナイル国民であるなら、そのマクナイル国民はエール教徒ということになり、七年前と同じように、やはり信条ゆえの行動なのだろうか。リリーは自分の手の甲をさする。頼りない手だった。
「これは、シャーリィが言っていたんだけど」テーブルの縁をなんとなしに撫で付けながら、横で黙って座っているアリスに話しかける。「七年前に両親だけが国を移動して、取り残されてしまった子供がいることもあるんじゃないかって。考えられる可能性の一つだよね」
国が別れ、マクナイルに残ったエール教徒。七年という時は短いようにも思えるが、リリーが十歳から十七歳になったと考えれば、子供が大人になる十分な時の流れと言えるだろう。なにらかの理由があり取り残されてしまったエール教徒の子供……その人がこうして事件を起こすというのはあり得る気がした。
「ありえるなあ。それで、リリー自身はなにか考えてること、ないの?」
ある。
ただ、答えようかどうか少し悩んだ。結論を出す場ではないし予想を立てるのはいいのだろうけれど、少し無責任な内容だった。言葉にすると、すべて正しく思えてしまう。言葉にされると、聞いてその考えに囚われてしまう可能性もある。さっきも考えたように、七年の時というのは長い。子供は大人になり、大人もまた成熟する、それが可能な時間。
「……マクナイルでの出世は簡単だ――って言うよね」
アリスが間もなく頷く。
「前の王様の言葉だっけ」
「そう」
ターラの父、つまり前国王が若かりし頃に言った言葉だというそれは、言葉本来の意味と、皮肉的な意味を兼ねている。いわく、マクナイルには仕事熱心な者が少ないという意味が含まれているらしい。
例えば二人の漁師がいるとして、一人は大量の魚を獲って売り、それで生計を立てさらに店を大きくしようと考えている。また一方は、趣味で魚を獲り、余った魚を売って小遣いを稼ごうと考えている。すると当然、品揃えの豊富さ、余裕を持った価格設定のできる前者が稼ぎも人気も出る。しかしここマクナイルには、後者のような考えの人が多いのだ。穏やかな国民性、と言えばいいのだろうか。商魂たくましい人、出世欲にまみれた人、というのはかなり少ない。そのような環境の中で出世を目論めば、案外簡単に偉くなれてしまう。必要な努力はもちろんあるにせよ、その基準が全体的に低いことは否定できない。
「それがどうかしたの?」
「七年前にこの国に残ったエール教徒が、なにかの理由――例えば敵討ちみたいな目的で、七年の間に偉くなる、そしてその立場でしかできないような方法、あるいは情報を使って密かに職権を悪用することもできると思わない? もし予め猫事件を起こす計画を立てていたのなら、その計画を実行するために努力して出世している可能性もあるんじゃないかなって思ったんだけど……」
ありえなくはないかもね、とアリスが天井を見つめながら言う。
「アリスやサラさんみたいに、すぐに頂点に登っちゃう人もいるわけだからね」
実際マクナイルの中枢機関では、昔からそういうことが多い。理念を持っている人がやはり強いのだ。
「私たちも早かったからね。リリーももちろん。それこそあの……国衛軍のアーロンとかはその内の一人だよね。タグラスさんが国衛軍の総帥になるんじゃないかって噂が流れていた頃に突然現れて持っていったじゃない?」
リリーが大会を通じて隊長になろうとしていた頃に、急に現れて隊長になったアリスのようなものだ。リリーもタグラスの話は聞いたことがある。アーロンと言う男が国衛軍の総帥になった当時、その地位を狙っていたタグラスは彼のことをひどく嫌悪していたらしい。いまでは互いに信頼し合ういい二人組だと、国民からの信任も篤いのだが。
「一方でヘイデンさんはじっくりって感じだよね」
「準隊は敷居高いからね」
準国事隊の総統であるあのヘイデンもまた実力と努力で登りつめていった人だが、彼は着実に経歴を積んでいった稀有な御仁だ。マクナイルの出世にも色んな形があるのは当然だ。それが純粋な国への忠義ならばこちらも安心できるものの、それに対する信頼が揺らぎそうになっている。リリーは頭を振って、それに囚われそうな自分を叱咤する。
「……なんにせよ、今は一つの可能性を信じ切っちゃいけない。誰でも疑って……かからないと、ね……」
頭ががくんと下がって、身体がびくついて目が覚める。瞼が重い。目が乾いてきたし、段々呂律と脳みそが回らなくなってきた。
「誰でも……私も?」
アリスが冗談めかした表情で言う。
「いやいや、アリスにはできないよ……」
だって可愛いものが大好きなんだもの。猫を殺せるわけがないし。そう言うと、アリスの顔がつと真剣なそれになるのが分かった。
「だめだよ、信じ切ったら。自分の言ったように、誰でも疑わないと」
「ん、ごめん、……なんて?」
「ううん」
けれど、突然襲ってきた睡魔のせいで、アリスがなんて言ったのかがうまく聞こえなかった。頭が落ちて、テーブルに額を打ち付けそうになって、慌てて身体を持ち上げるが、もう限界のようだった。
「無理しなくていいよ、眠いんでしょ?」
優しい感覚が髪の毛の向こうから、頭を伝わってくる。手のひらがさらさらと、子供をあやすような手つきで頭を這う。櫛を通すように前髪を通り過ぎていくアリスの手が、愛おしいほど穏やかだった。
「まだ寝られない」とつぶやいて、テーブルに肘を置き、手のひらを額に置いて俯く。精一杯の眠気に対する抵抗だ。眠ってしまわないよう、目は開いている。頭のなかでは様々な考えが、鈍行な行進のように行ったり来たりしている。その流れのどこかに掴みどころはないだろうかと必死に手をのばす。アナの噂、食堂で聞いたあの話、猫事件、記憶、旅行者。帰ってきていない旅行者。アナはなぜ、根拠のない噂を流しているのか。誰がどんな目的で、目立つ場所に猫の死体を置き去りにしたのか。記憶はどうして消えたのか。旅行者はどうして帰ってこない? アリスが、三日後に会議があると言っていた。それまでにすべきことを考える。
……かなりの時間が経った気がする。もしかすれば、時はそれほど流れていなかったかもしれないけど、ようやく、明日以降にすること、してもらうことが頭のなかでまとまって、顔を上げた。
隣ではアリスが、黙って待っていてくれた。考え込むとつい周りの見えなくなってしまうリリーの悪い癖を知っていて、アリスはそうしていてくれる。シャーリィなら痺れを切らして、水をかけてきているかもしれない。シャーリィとは違った安心感、アリスとシャーリィは全く別の、二つの安息地だ。隣にいるだけで気持ちを安定させてくれる、大切な人たち。サラとヘイリーの寝息が聞こえる。白い照明に照らされた部屋の中は明るいのに、無機質な静けさと寂しさがあった。周りを見渡すと意識がはっきりするような感じがしたけれど、やはりぼーっとしているだけだった。
「明日のことなんだけど――」
なんとか意識を持ちこたえて計画を話し出そうとすると、アリスはリリーの唇に人差し指を当て、それを制した。
「しっ。また明日聞かせてね」
音量を抑えたアリスの声が、静謐な室内に響く。瞼がついに開かなくなって、テーブルに突っ伏す。ふわふわと浮かび上がるような感覚がしたあと、本当に身体が浮いていることに気がついた。アリスの体温が、半身を伝わってくる。柔らかいものの上に寝かされ、薄い布をかけられたような気がした。それに気がついてはいながらも、開こうとする口は結局だんまりで、礼を言うことができなかった。視界がやがて真っ暗になる。瞼の裏に、今日の光景を思い浮かべながら、いつの間にか、夢に落ちていた――。
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