第25話 .Lily

 ご飯を全部食べた! リリーたちは、アリスの部屋へと来ていた。厳密には、アリスの部屋の前だ。


「散らかってるから! すぐに片付けるから! 待ってて!」と言い残したアリスは、そそくさと部屋に入ると、中で暴れているかのような音を出し始めた。三人は廊下でその音を聞きながら待ちぼうけをしているところなのだ。


「遅いですね」


 サラが愚痴をこぼす。ごめんなさい。アリスの趣味を隠すためにも、もう少し待ってあげてください。彼女はいまぬいぐるみを隠しているんです。


 横では、ヘイリーが窓から空を見上げていた。廊下が明るいので、星をよく見ることはできない。彼女に近寄っていって、目線を合わせる。


「ここはどう? 居心地は」


 話しかけられたヘイリーは一度びくっと華奢な身体を震わせたが、ゆっくりと首を振る。まっすぐにこっちを見た瞳はすでに腫れが引いていて、そのおかげで一際くりっとした双眸は、いっそう女の子らしさを増していた。


「みなさん優しくて、頼りになって、居心地はとてもいいです。いつまでもここにいたくなります。……うちは、裕福ではなかったから、高価な食事も、ふかふかの寝床も、たくさんの本もありませんでした。ここは、いいところです」

「でも、自分の家のほうがいいよね」


 そう語りかけると、ヘイリーは少し俯いて、こくりと頷いた。


 ようやくアリスの部屋の扉が開いて、「入って」と促される。アリスに続いて順番に、部屋の中に入っていく。


「まあ、適当に座ってよ」


 そう案内する彼女の額には、汗が浮かんでいた。サラがテーブルを囲む椅子に、ヘイリーがその横に座った。アリスの部屋は片付いていて、簡素という一言で表される。しかし普段はこうじゃないはずだ。いま、クローゼットの向こうにはぬいぐるみが押し込まれているはずである。彼女は、そう、アリスは……女の子らしい趣味を持っているのだ。それなのに、それに気が付かないものたちは、アリスを男のようで女らしさの欠片もないとのたまう。血も涙もない脳筋女。なんてことを言うんだ。誰か、アリスのこういう可愛らしい一面に気がついてください。この人は可愛らしくて、純粋でまっすぐなんです。


 そんな純粋でまっすぐな気持ちを心のなかで叫んでいると、唐突にアリスがリリーの右手を掴んだ。はっとして自分の手を伸ばした先を見ると、クローゼットの取っ手がある。気持ちが先行するあまり、開けてはならない箱を開けてしまいそうになっていたのだった。


「リリー? なにしてんの?」

「あ、いえ、お気になさらず……」


 ……まあ、アリスがひたむきに隠しているのだから、それでいいのだろう。一度掴まれただけなのに痛む右手をさすりながら、リリーも椅子に座った。


 アリスも席につき「さて――」と切り出す。「さっきの話を続けようか」


 それをきっかけにして三人がリリーに目を向けるが、ここにきてリリーは考え直していた。


「さっきの二人の会話を聞いて、考えていたことよりも、もっとしなきゃならないことがある気がしてて……」


 食堂で聞いた会話。確信はないとはいえ、アナが関わっているという部分は放っておくことができない。あろうことか、わたしのことを言うなんて。昨日会ったアナのことを思い出す。


 元々、サラには王室でターラやヘレナがなにかに勘付かないかを見守っていてもらい後で報告してもらう予定だったけれど、少し動きを変えてもらってもいいかもしれない。


 リリーが俯いて悩んでいると、アリスが声を発する。


「慎重に考えるのがいいよ。待ってるから。あ、いや、まだ考えなくてもいいかな」


 いまいち要領を得ずに、リリーは顔を上げてアリスを見る。彼女は指で前髪をくるくるといじっていた。アリスが人の話を聞いたり考え事をしているときの仕草だ。


「どういうこと?」

「実はね、臨時会議が三日後に開かれることになっててさ」


 臨時会議。リリーはその言葉を聞いて、改めて事の重大さを強く感じた。マクナイル城では、月に二度ほどの頻度で定例会議が開かれる。国の中枢組織の長とその補佐を呼んで開かれる会議だ。会議の種類にはもう一つ、臨時会議というものがある。一番最近に開かれたのは七年前、国が分割される際に開かれたのだった。つまり緊急を要し、さらに国を左右するような際に開かれる枢要的な会議である。


 この臨時会議が開かれる、ということは、多くのいわゆる偉い人たちが、先の猫事件に対して緊急を要すると判断したことになる。そしてその主催をするターラもまたそれを承認したことになるから、事は重大だ。


 この前の定例会議の際には、リリーはアリスに「旅行を禁止させないで」と頼んだ。恐らくその定例会議でも事件の話は出ただろう。しかしこうしてまた臨時会議が開かれるとなれば、その会議はあまり建設的でなかったに違いない。旅行についてのお触れが出されていないところを見ると、アリスはリリーの言ったことをきちんと通してくれたのだろうと思った。


「猫事件を受けてのそれぞれの意見、つまり、今後どうするかとか、そういうことを決めるのが主題みたい。だからそれまでになにか分からないかなって、私なりにも動いてるんだけど――」

 アリスが言っている最中に、部屋の扉が三度叩かれた。なんだろうと思ってそちらに首を巡らせると、すぐにアリスが歩いて行く。


 扉が開き、アリスは向こうの人物となに事かを話し始めるが、声は聞こえても内容までは聞き取れない。アリスの向こうにちらりと見慣れた近衛兵の白いワンピース型の制服が見えて、近衛兵であることを察した。二、三言交わした後、アリスは手を振って、近衛兵は扉の向こうに消える。戻ってくるアリスの手には、なにらかの書類が握られている。


 アリスはその書類をテーブルに置くと、とんとんと指で叩いてリリーたちに見せた。

 リリーはアリスの顔と置かれた書類を見比べて、なんの書類なのだろうかと、なに枚かあるそれを手に持ちぺらぺらと捲ってみる。紙は全部で八枚、書類の上部には『出入国者表』と記載されていた。


「それだけで、過去七年分ある」

「国境の守衛のやつ? これどうしたの?」


 聞くと、アリスは扉の向こうを見つめるようにした。


「いまの子に番兵から借りてきてもらった。あの子――ほら、エミリア。なかなか見込みがあるよ。リリーにはまだ及ばないけど、口が回る。まあこれに関しては普通に持ち出せたらしいけどね」


 アリスは嬉しそうに言った。元々アリスにはあまり人事の能力というものがなく、先代の優秀な隊長からアリスに引き継がれる際、必死でその能力を受け継ごうと努力したらしいことを、リリーはその先代――今は夜勤で門を見張っているチェリから聞いていた。エミリアについては、とても愛嬌のある子だと思っている。笑顔が素敵なリリーの同期だ。


 リリーは手元の紙を眺める。全員に見えるよう、テーブルの上に並べた。八枚で七年分。一枚の紙には裏表で十人までの名前が記載できるようだ。となれば、多くて八十名、少なくて七十一名の名前が乗っていることになる。それが七年間にしては多いのか、それとも少ないのかリリーには分からなかった。


 一枚目を見つめる。日付は七年前。一人目の旅行者は、前回の猫事件より数えて半年後にミカフィエルへと行っている。規定の三日以内に帰国しているようで、名前の横の「帰国印」に印が付けられていた。指をなぞらせていく。七年前は合計で八人、六年前は三十人、五年前は二十二人、四年前は十五人、三年前は十人――。そして二年前は、誰も旅行に出ていないらしい。日付が大きく飛んだかと思えば、一ヶ月前の日付が記載されていた。その日から今日までで、十人が旅行に出ている。八枚目はまだ埋まりきっておらず、五つ、枠が空いていた。


「どう?」


 アリスに尋ねられ、リリーは書類に目を落としたまま答える。


「七年前はあんな事件があったから、八人という人数で収まっているけど、六年前は異常に増えてる。そこから三年前までにかけて徐々に減っていって、二年前にはぱたっと旅行者が止んでる。……かと思えば一ヶ月前を境に増え始めて今日に至る……変な動きかなって思うけどね。ふつう、事件の記憶が薄れていくにつれて旅行者は増えていくと思うんだけど」


 確認がてら人数の傾向を言うと、アリスもまたうーんと唸った。


「七年前も、少ないとはいえ、いるにはいるんだね。怖いもの知らずというか」


 リリーは見えるはずもないミカフィエルを見るように、窓の外に目をやった。陽はとっくに暮れ、照明を点けていない家すらちらほらとある。もうそんな時間なのか。


 もう一度紙に視線を戻した時、リリーは額に豆を投げつけられたかのように目を見開く。


「ミア! ミアがミカフィエルに行ってる!」


 ミア――先日猫の死体を見て気を失い、リリーに対して休暇を申し出てきたあの近衛兵だ。旅行へ出ていると、確かにそこへ記載されている。


「旅行に行ってたの? そんなこと言ってた?」


 アリスも眉を顰め、紙面をじっと睨むようにする。リリーは考える必要もなくすぐに「そうとは言われなかった」と答えられた。休暇が欲しいとしか言っていなかった。彼女は、書面を見る限り、リリーにそう言った昨日の夜にはもう出て行っていた。リリーから許可を受け、そのあとすぐに支度をしてミカフィエルへ向かったというのだろうか。事件の起こったマクナイルより、ミカフィエルの方が安心できると感じたのかもしれないけれど――。アリスが息を呑むような声で言ったのは、そう考えているときだった。


「……まだ帰ってきてない」


 リリーは帰国印の欄を見る。確かに印は付いていないが、ミアが出ていったのは昨日になっているので、明後日までに帰って来れば期間内である。まだ丸二日もあるから、アリスがなにをそんなに驚いているのか分からなかった。しかし、その言葉の意味を探ろうと紙面を見るうち、リリーもまたその書類が示す現実に気がついた。アリスはいまミアのことを言ったのではない。その上に書かれている名前、そのまた上、上、上。旅行へ行ったと記載されている氏名の横にあるはずの「帰国印」が、一切押されていなかったのだ。「あるはず」なのは、そう、彼らの出国日から本日までの日数が、既に三日を超えているから。

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