第27話 .Lila

.Lila


 わたしたち二人は、ひどく単調な長い道を、言葉少なに歩いていた。隣を歩く楓という青年は足早に、わたしの前を歩いている。置いていかれないようにと、足を大きく跨いで付いて行くものの、男の人と並ぶのは少し苦労のいることだった。


 来た時にはまだあった夕陽はすっかり沈みきり、空はすっかり藍。雲が多く、星々をよく望むことはできなかった。もちろん聖域など望めない。遠くを見れば山が連なり、周りを見れば茶畑や田んぼ。薄暗い世界を淡く照らす街頭には、羽蟲が集っている。その街頭に照らされる地面は、見たことのない見た目をしている。ぬるい風が頬に当たり、吹き抜けていく。蛙の野太い鳴き声が耳を伝って消える。どこかじめりけのある雰囲気と、はっきりと輪郭を表してくれない風景、そろそろ足が疲れてきた。

「ねえ楓、家はまだ?」


「まだ」

「……そう」


 道はとにかく平坦で、単調で、それが肉体よりも精神を疲れさせた。なにもないわけではないけれど、これと言って、見るものがないのだ。彼に「ここにはお花畑しかないの?」と尋ねると、彼はしばらく笑って「ここは田舎だから」と言った。いわゆる田舎は聖域にもあった。城下の活気から離れた場所。時折遊びに行くと、心が落ち着くような場所だ。


「ほら、あそこ」


 楓が唐突に前の方を指差した。永遠に続いているように見える道を目で追っていくと、先の方に灯りが見えた。その灯りがぼんやりと家の形を映し出していて、その周りにもいくつかの民家があることが伺えた。すぐにでも行こうと歩みを早めると、楓に肩を掴まれる。


「俺がうまくやるから、君は黙っていてくれ、いい?」


 子供に言い聞かせるように目をじっくりと見ながら、楓はわたしに言った。随分近くに寄って目を見ていた割には、すぐに目を逸してしまう彼を心の中で面白がりながら、小さく頷いた。わたしはきちんと、楓の言いつけを守るつもりだった。そのつもりで着いていって、楓の家に到着するまでも気持ちは変わっていなかった。


 しかし、段々それではいけないような気がしてきていた。


 楓の家は木造の二階建てで、平べったい屋根が特徴的だった。ここに来るまでにも同じような形の民家を見ていたが、わたしはこの形の建物を初めて見る。向こう――聖域では背の低い建物が少ないし、屋根が平べったいといったことも少ない。それこそマクナイル城なんかはとんがり帽子の屋根ばかりだし、エールの大聖堂なんて、こう、ちくちくしている。そしてそれらは総じて背が高く圧迫してくるような印象を与えてきて、ただの民家も例に逸れない。屋根に登ろうと思えば登れてしまうような建物というのが新鮮だった。


 それを見ながらわたしは、まだ考えていた。展開を必要以上に想像してしまうのは悪い癖だと分かってはいる。けれど、仮に自分が一家の主で、息子が突然女の子を連れてきたとき、その子が息子の後ろに隠れたままなにも言わず息子の言う言葉になに度もなに度も頷いているだけだったら、家に入れてあげたいと思うだろうか? そして事もあろうに、わたしは厚かましくもこの家でしばらく厄介になろうと考えているのだ。


 楓が戸を横に引くと荷車が転がるような音が立ち、玄関の向こうが覗いた。家の中の光が庭に漏れる。「ただいま」と楓が声を掛けると、中から女の人が出てきた。楓のお母さんだろうか、手には料理に使う包丁を握っていて、エプロンを身に着けている。肩に落ちる黒髪は一つにまとめられており、見慣れない黒の長髪は、わたしの目にはとても美しく見えた。


「おかえりー……ん? えっ、だれ」


 楓の後ろにわたしを見つけたその女性が、驚いて目を見開く。楓もその視線に気がついて、ちらりとわたしを見た。その目は如なににも「頼むから話を合わせてくれよ」と言ってくるようだった。だったのだが、この時にはすでにわたしの腹は決まっていた。やはり自分から事情を説明し、受け入れてもらうのが一番だ。


「こんばんは」楓の背中から顔を覗かせる。「わたし、行くところがなくて、しばらく滞在するところを探していたんですけど、楓くんがうちはどうかと声を掛けてくれたんです。お言葉に甘えて付いてきてしまいました。よければ厄介になれませんか」

 楓に邪魔をされてしまわないうちに、早口で捲し立ててしまうと、楓は口をぱくぱくとさせて分かりやすく慌てた。


「か、母さん、いやこの子は――」


 やはり女性は楓の母だった。そして、彼女の出方を伺う。しばらく首を傾げてわたしを見ていたが、やがて手のひらをぽんと打つと、楓の横を通り過ぎてわたしの方へ近寄ってくる。


「なるほど、いいわよ。じゃあしばらくはうちの子ね。わたしのことは好きに呼んで」

「では、お母さん」

「ふふ、女の子にそう呼ばれるのは新鮮でいい。楓だけだから、子供」


 そんな会話をしていると隣で楓の溜息が聞こえた。彼は頭を掻きながら靴を脱いで、家にあがっていく。そのまま向こうへと歩いて行ってしまい、その背中を見ていると、楓の母に肩をぽんと叩かれる。


「あなた、名前は?」


 リーラです、と答えようとして、踏みとどまる。この名は、わたしが天使であるということをばらしてしまうことにはならないだろうか。聖域での人間に対する感情は知っているものの、ここでの天使に対する感情は知らない。もしかしたら、同じように嫌われているかもしれない。


 せっかく泊めてくれる家を見つけたのに、これで終わってしまうかもしれない。呼吸が落ち着かなくなるのを感じながら、縋るように楓を見た。すると彼はわたしの目を見た後、ため息をつきながら「りりっていうんだ」と言った。


 楓の母、お母さんは、わたしの代わりに答えた楓をじっと見つめる。その時間は、ただ目を合わせるには、少し長い気がした。そしてやがてこっちに向き直る。


「りりちゃんね。銀色の髪に綺麗な顔立ちだから、外国の子かと思ったけれど、日本の子なの? ま、上がんなさい。みんなに紹介しましょ」


 もしかしたら、わざわざ別の名前を貰う必要はなかったのかもしれなくて、そのままリーラと名乗っても、彼女の言う『外国の子』だと思われていたのかもしれない。やたらと高い段差のある玄関で靴を脱いで、楓の家に足を踏み入れながら、わたしは胸の高鳴りと、なに故か顔がにやついてしまうのを抑えられなかった。この感情がなにであるのかが分からず、慣れない空気の質感の違いを覚えて、実家でも香る、出来たての料理の、わくわくするような匂いに安心して、それでもその内に隠れた一つの感情、それがどういった由来かは分からなかったけれど、下の世界で、下の世界でわたしが生きていくための名前を貰ったという実感が、胸の中で飛ぶように暴れているのが大きかった。玄関の花瓶に生けられたユリの花から甘い香りが漂った。あとに聞いたら、りりはこの花の別の呼び方らしかった。

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