第14話 .Lily

 所狭しと並ぶ木の真ん中を、石畳で舗装された静かな道が通っている。木漏れ日が地面に落とす不規則な影の上を、二人は並んで歩いた。こっちに進むとほとんど人影がはなくなり、それゆえに、二人の足音がはっきりと聞こえるようになった。しばらく歩いて、二人はほとんど同時に歩みを止める。そして耳を澄ませた。


「波の音だ」


 心地の良い音が聞こえ始めてていた。海の声、波の音。それに気が付いて目を見合わせたあと、二人はまた歩き始める。次第に歩幅が広くなっていく。小走りになったかと思えば、次には走り出していた。


 手を繋いだまま、どちらかが速く行くのでも遅く行くのでもなく風を切っていく。海の音がどうしてこう気持ちを昂ぶらせるのだろうかと考える。広大で手に負えない世界の端の宝石。その潮風が走る速度で頬を叩いていく。


 並木道を抜けると砂利道が現れた。山に囲まれていて建物が何一つない静かなこの場所は海への近道だった。二人は右を逸れる。目に坂道が映った。進むに連れて、足元の砂利がだんだん細かな砂になっていく。心なしか香る潮。そこにいることを、海は身体全部使って教えているのだ。


 逸る心を抑えながら、でも潰さないように、坂道を登っていく。ここを登ればそこから海が見える。二人は転ばないようにしっかりと地を踏んで、坂を登って、やがて頂上に辿り着いたとき、感嘆の息を吐いた。


「――海だわ」


 シャーリィが言ったのを聞いて、リリーは返事の代わりに手を握り直した。広い浜辺の先に、果てしなく海が堂々と存在している。青い海の上で、太陽の光が波に揺らされていた。向こうから運ばれてきた水は波打ち際で白くなって、また還っていく。海が青いのは、空の青を映し出しているからだという。海は世界で一番大きな鏡なのだ。


 しばらくのあいだ、坂の上で見る海から目を離せずにいたが、ここにいても触れることはできないということに、二人はほとんど同時に気づいて、道を下った。浜辺に足を踏み入れると、その瞬間に胸がいっぱいになる。肺が潮の彩りで埋め尽くされる。足が沈み込む。足の裏に細かい粒の一つ一つを感じる。歩きづらくて仕方がなくても嬉しかった。噛みしめるように踏みしめる。海自体はお城からいくらでも見られる。いつでも見られるのに、いざ来るのとでは印象が違った。声が聞こえるからだろうか。潮を感じることができるからだろうか。それとも海のあまりの大きさに圧倒されてしまうからだろうか。海は青く日を照り返して、ばちばちと輝いていた。


 リリーの手を離して、シャーリィが海へ寄っていって、足を踏み入れる。目を見開いたシャーリィが、リリーのことを見つめた。リリーは砂浜で待ちながら、シャーリィがなんと言うのかを考えた。


「ひどくぬるいわ」

「えっ」

「すごいぬるいの」

「もっと気の効いた感想ないの?」

「入ってみなさいよ」


 リリーも同じように足を踏み入れてみると、シャーリィの言うように、想像していたよりも遥かにぬるい海がリリーを出迎えた。時折冷たく感じることもあるけれど、暑いからだろうか、そんなに冷やっこいわけではなかった。


「これじゃあ水をかけあっても盛り上がらないわね」

「着替え持ってきてないし、やらないのがいい」

「せっかく来たんだし、たまには後先考えずにはしゃいだっていいと思わない? なんていうか、溜まってるのよね、鬱憤」シャーリィが水面を蹴る。

「鬱憤? なんか嫌なこととかあったの?」

「ほら、会食とか」


 言い切ったあと、シャーリィは小さく「まあ、それだけなんだけど」と、付け足した。

 下手したら聞き逃してしまいそうなほどの声量だったそれを、シャーリィは多分聞かせる気はなかったのだろうけれど、リリーの耳にはしっかりと届いていた。それを聞いて、シャーリィの顔から目が離せなくなってしまう。


 足元で波が揺れている。海に浸かった足は、油断するとさらわれてしまいそうだった。そんな小さな声で言って、誰に助けを求めてるの。


 それだけ、と彼女が言うのが気に食わなかった。きっと何気のない一言なのだろう。でも、やっぱり気に食わなかった。海水を蹴って水滴を煌めかせるシャーリィを見る。彼女は簡単に言ったけれど、堅苦しい場所に行って、王族としての役割を果たすことがどれだけ大変なことなのか、リリーには想像することもできない。想像しても稚拙だった。相手がつまらないことを言っても、愛想よく笑うことを求められるのだろう。きっとつらくなるほど大変なことなのに、シャーリィは何気なく「それだけ」などと言ってしまうのだ。


 いつの間にか顔が俯いていて、水面を見つめていた。シャーリィは自分に、弱音を吐いてはくれないのだろうか。そう思ってシャーリィの方を見ようと顔を上げると、シャーリィの姿が見えなくなっていた。はっとして状況を掴もうとする。目の前に水が浮いていて、やがてそれが視界がそれを遮っていることに気がついた。


「あ」と言った瞬間に、顔に大量の水が降り掛かる。驚いてわたわたと顔の水を手で拭っていると、シャーリィの無邪気な笑い声が聞こえてきた。


「ほんと、なにか考えていると周りが見えないわね!」


 びたびたとリリーの身体から滴った水滴が落ちていく。唖然としたのは一瞬で、段々怒りがこみ上げてきた。リリーもぬるい海水を掬って、容赦なくシャーリィにかける。当然のように反撃が来て、お互いに替えの服なんて持ってきていないのにもかかわらず、着ている服がびしょびしょに濡れていく。


「シャーリィのことなのに!」

「あら、何を考えていたの!」


 水がリリーの髪を濡らす。


「いや、言わない。もう言わない。もう知らない!」


 今度はシャーリィの髪が濡れた。


 でもそれだけじゃ物足りないような気がして、もう一度手のひらいっぱいに水を掬う。そして大声で言いながら、水をかけた。


 ――たまにはわたしに甘えてみろ、ばか!

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