第15話 .Lily

 太陽が頭上に登ろうとしている中、これでもかと言うくらいはしゃいだ二人はへとへとに疲れ切って、濡れた浜辺に座って、海を眺めていた。散々遊んだ後に見ても海は表情を変えず、優雅に波を踊らせている。リリーと同じように、隣でぼーっと海を見ていたシャーリィが、おもむろに口を開いた。


「そういえば。ねえリリー? お母様となにかあったの?」


 シャーリィの母、女王ターラのことだ。昨日王室であったことを思い出して、胸がちりっと傷んだ。誤魔化すように息を吸う。


「うん、ちょっと、喧嘩みたいになっちゃって」


 喧嘩、とは少し事情が違うかもしれないけれど、自分の逃げ方は喧嘩したときの子供みたいだったとリリーは感じていた。シャーリィに昨日のことを簡単に話すと、彼女は黙って聞いてくれた。


「そういうことだったのね。お母様らしくもないし、リリーらしくもない」


 顔が覗き込まれる。逃げるように顔を背けた。


「わたしもそう思う」


 自分の感情に身を任せるのはよくない。必ず誰かが傷つくから。ずっと気をつけているはずなのに、昨日はかっとなってしまった。もっと冷静に話すこともできただろうに。リリーは落ち込むのも隠せず、恐る恐るシャーリィに聞く。


「ターラさん、何か言ってた……?」


 聞くと、シャーリィがくすくすと笑った。


「お母様ったら『リリーを傷つけてしまったかもしれない、怒らせてしまったかもしれない! どうしようシャーリィ!』ってひどく慌てて言ってきたのよ。ほら、お母様ってリリーが怒るのをおばけよりも怖がるから。悪く思っているんだとは思うけどね」


 声から仕草まで完璧に真似て、シャーリィが教えてくれる。しかしリリーはシャーリィに訝しげな目を向けた。


「えっ、ターラさんってわたしが怒るのおばけよりも怖がってるの?」


 シャーリィがまた笑う。


「だって、私も怖いもの。……そうね、たぶん昨日のことは、お母様もリリーも譲れないことだったのよね」


 きっとそうだろうと思う。ターラにはターラの事情があった。だから譲らず、ほとんど反発するようにしてリリーもまた譲歩しなかった。つまり、話を聞くこともしなかった自分が悪いのだ。明白だった。シャーリィが話してくれたように、ターラにいらぬ心配もさせてしまったのだ。


 猫の死体を見て、容疑者にまでなった。愛情を注いでここまで育ててくれたターラが、自分のことを心配しないわけがない。


「次会ったら、謝る」

「それがいいわ。私もリリーが危険なことをするのは嫌だけど、私にできることなら協力するからね。でもやっぱり、無理はしないで」


 リリーはその言葉を噛みしめるように頷く。彼女を不安にさせたくはない。シャーリィを一人にはできない。危険なことなど、最初からする気はなかった。


「シャーリィは、この国にエールやミカフィエルの教徒が残っていると思う?」


 気になっていることを聞いてみる。だがそれは聡明なシャーリィにも難しい問いらしく、彼女はうーんと唸った。


「どうかしらね。……その子供、くらいならいるかもしれないけど」


 その子供。


「例えば両親だけが国を移動して、取り残されてしまった子とか、かな? そんなこと、あるか分からないし、いま考えたようなことだから、参考にはあしないでほしいけど」


 リリーは横に首を振る。仮にマクナイルに宗教を信仰している人がいるとすれば、その人は一体どうやって何かを信じることになったのだろうとずっと悩んできた。旅行がきっかけしたのではないか、国にこっそり残ったのではないかと踏んでいたけれど、考えるべきことはそれだけではなかった。もし宗教を信仰している人がマクナイルにいるのなら、その人がどういう理由で宗教の信仰が許されないマクナイルに滞在しているのかということも考えなければならなかったのだ。エール教徒の両親を持つその子供だけが残るというのは、盲点だった。


「本当に、危ないことはしないでね」


 俯いて考え込んでいるリリーに、シャーリィは困った笑い顔でそう言った。はっとして顔を上げて、シャーリィを見る。彼女はゆっくりと立ち上がると、長いミルクティー色の髪の毛を一度はらって、海のずっと先を見つめた。


 ――足元でちりちりと音を立てながら、砂が風に弄ばれている。光に照らされて、海の波のように輝いている。膝を抱えて座るリリーの目の前には、なにを考えているのか、海の向こうを見つめているシャーリィの姿があって、その綺麗な長髪を靡かせていた。佇んだままで、動かない。表情の見えない彼女に掛ける言葉が見つからず、ただ砂の感触だとか、砂に埋まっていく足だとか、そういうのを気にしているふりをして、彼女の後ろ姿を見つめていた。シャーリィがこちらを振り向いて、リリーは慌てて俯いて目を逸らす。大きく揺れた髪の毛と、微笑むシャーリィに見惚れそうになったからだ。きっと、自分の頬は紅くなっているに違いなかった。


 日射しがとても熱い。鼓動の速さに呼応するように、温度が上がるようだった。

「リリー」やがて、わたしを呼ぶ声がする。「おいで」


 俯いていた顔を上げると、浮いていた前髪がふと目にかかって、視界を薄い幕のように遮った。その向こう側、――ずっと先まで続く海と空を背景に立ってこちらを見つめるシャーリィのことを、やっとのことで見返した。自分はいまどんな顔をしているのだろう。分からない、分からなかったから、とても恥ずかしかった。


「おいで」


 もう一度言われて、リリーはゆっくりと立ち上がった。吸い込まれるように、シャーリィの元へと近づいていく。柔らかい足音が鳴っていた。手を伸ばせば届く距離まで行ってもなお、彼女はもっと近づくように言う。逆らうこともできず、リリーは従った。二人の距離はこれ以上ないくらいに近づいて、二人を隔てるものは、もはや柔らかい風と、濡れてしまった服だけ。それを埋め合わせるかのように、シャーリィが抱き寄せてきた。


「どこにも行かないでほしいの。ほんとうは、なにもしないでほしいのよ」


 切実な声だった。肩越しでシャーリィの表情は望めないのに、どんな顔をしているのかは想像ついた。求められている。それが伝わってくる。どこにも行ってほしくないという言葉が胸に滲みる。いつもは聞けない本音だった。


 お互い仕事が忙しく、会う機会も減ってしまって、きっとそれを寂しく思っているのだろう。リリーも当然そうだった。だから必死になって近衛兵の隊長になろうと奮起してきたのだ。ずっとそこを目指している。けれど知っている。シャーリィは別に、それを望んではいない。リリーが初めて「近衛兵の隊長になってシャーリィの側近の兵士になる」というようなことを伝えたときから、彼女はそれを応援してくれていた。でも、別に、シャーリィの隣にいる方法は、それだけじゃない。ただ友人として、毎日会うこともできるのだから。複雑な気持ちでいるのはリリーだけではなかっただろう。それでもリリーのやる気を削がないように、なにもしないでなどとは言わなかった。しかしここに至ってそれを言われる意味を、リリーは無視できなかった。

 応援はしているけれど、それで会うことが少なくなってしまっては本末転倒なんじゃないか。そう考えているのは、手に取るように分かる。近衛兵をやめて、メイドや司書でもなれば、シャーリィのためにもっと働けるかもしれない。それでも頑なに近衛兵を続けているのは、やはりシャーリィを守るためなのだろう。髪の毛について近所の男の子たちに言われていた時に助けてもらったから、今度は自分の番だと思ったのだ。なにからでもいい、シャーリィを悪く言う人からでも、シャーリィの嫌いな人からでも、悪い人からでも、彼女を守ってあげることができればいい。その目的に、近衛兵という立場は必要不可欠だった。


 制服を着ているだけで、みんな自分のことを気にかけてくれる。気持ちを引き締めてくれることもある。全ては彼女のためなのだ。自分の人生の一切を失っても、彼女のために生きたいとそう思っている。


「リリー」


 背中にあったシャーリィの腕が離されて、両肩が優しく掴まれた。リリーはそうされて、久しぶりだと、そう思った。青空を見上げてからリリーは目を閉じると、そのまま正面を向いた。シャーリィの息遣いが揺れるのが分かる。くすりと笑ったのだ。


「おねだりさん」


 シャーリィがそう言ってから、唇に柔らかいものが触れた。波が止まったかのように、風がやんだかのように、時が、自分の世界が完全に静止して、なにも聞こえなくなる。自分の唾液か、もしかしたらシャーリィの唾液が喉を通った音で現実をようやく思い出すも、それでもなお、唇は触れ合っていた。何度も離して、何度も繋がって、その度に時間が止まったり動いたりした。濡れた服がぴとりと肌にくっついて、シャーリィの体温まで感じられた。初めてキスをしたあの日から、ずっとこのキスが好きだった。


『リリーは好きな人っている?』


 幼いころの記憶が脳内を流れていく。この時のシャーリィは夕陽に包まれ煌めいていた。


『ん? わたしはシャーリィが好きだよ』

『私もね、リリーが好き』

『うん、ありがとう。ずっと友達でいようね』


 そう言った時、シャーリィは哀しそうな顔で笑った気がする。


『ねえ、好きな人とすることって分かる?』


 その時はまだ子供で、シャーリィの言う意味が分かっていなかった。


『……知らない』

『――リリー、おいで』


 同い年のはずなのに、シャーリィのほうがずっと大人びて見えていた。


 その瞬間に初めてキスが奪われても、何も理解できていなかった。ただ高揚だけが、身体中を駆け抜けていた。


 けれどその瞬間があったから、その瞬間が、あったせいで、もはや、シャーリィのことを、ただの友達として見ることができなくなっていた。


「……んっ」


 シャーリィに息を掛けるのが嫌でしばらく息を止めていたから、途端に息が苦しくなった。唇が離れたので目を開けると、シャーリィはほとんど無表情で、こっちを見つめていた。


「リリーは好きな人っている?」


この質問に心臓が跳ねてしまうのは、自分がすこし大人になったからだろうか。暴れるような心臓の鼓動とは裏腹に、リリーの表情は痛みを我慢するときのようにかたくなった。


「そんなこと聞かないで」

「どうして?」


 尋ねられて戸惑う。なんて言えば分かってもらえるだろうか。頭のなかには、言うべき言葉は見つかっていたけれど、そのまま口にするのには、自分にとっても、シャーリィにとっても、残酷だった。不意に、視界の焦点がぶれたような気がした。出てきた言葉は結局無情だった。


「――わたしに好きなひとなんて、いないもの」


 シャーリィは首を傾げて、目を細くした。地面を見るように伏せた目元が苦しそうに見えたのは一瞬のことで、次にこちらを見るときにはまるでいつものシャーリィに戻っていた。


「そうね。そうだった。てっきり、私のことが好きなんだと思って……っ」声が揺れたのを隠すように、シャーリィは咳払いをする。「ごめん、なんでもない」


 しかしそのいつものシャーリィも、また崩れてしまう。小さく震えるか弱い彼女の肩を抱けたらよかったのだろう。しかしリリーは呆然と立ち尽くし、彼女に何もしてやらなかった。彼女は必死で誤魔化しているつもりなのかもしれない。けれど。切なさに揺れる瞼も、噛みしめる唇も、隠すことはできていない。そのすべてが、自分を責めてくるように感じられる。夏なのに、とても暑いはずなのに、全部が消えてしまったかのように寒い。


「シャーリィ」

「リリー、もう分かったからだまって」

「シャーリィ、わたしは」

「リリー!」

「だって、わたしは兵士だから」


 手を伸ばして今すぐ抱きしめたいのに、口から出てくる弱々しい声はそれを否定するどころか彼女を引き離そうとしている。わたしなど、波が持っていってしまえばいいのに。彼女を泣かせて、あろうことか自分の目から流れる涙も止められないわたしなど。勝手な理由で彼女を拒絶しているわたしなど! 確固に見える意志さえほんとうは脆弱で、彼女を守るためには近衛兵であるべきだとそう思いながら、ほんとうはいまそんなものをやめてしまって、抱きしめにいきたいとそう思っている!


 握りつぶしてぐちゃぐちゃにしたくなるようなもどかしい気持ちが指を震わせて、その欲望を遮ってくる。どうしたら――どうしたら彼女は涙を流さずにいられるようになるだろう。自分には止めてやれないのだろうか。彼女に慕情を抱いてしまったことこそが間違いだったのだろうか。一介の近衛兵である自分が、一国の姫である彼女に近づきすぎてしまったことが間違いだったのだろうか。近衛兵と姫が繋がれるだなんてことを、誰が許すだろうか。こんな自分を誰が許してくれるだろうか。でも、けれど。


「許して、シャーリィ」


 けれど、彼女にだけは許してもらいたい。わがままを、死ぬまで続く欲張りを。

 寒い、シャーリィの体温が恋しい、胸が切ない、抱きしめたい。目の前で涙を流す小さな彼女を抱きしめてしまいたい。骨が折れてしまうんじゃないかというくらいに強く、激しい抱擁ができたら――できたらいいのに。


「リリー」


 シャーリィが鼻をすすって、充血してしまった目をリリーに向ける。


「私の……片思いなの。リリーはそれを知っていてもいいし、知らないことにしてもいい。リリーが泣くことはないんだわ。泣いてほしくないんだもの。私のただの片思い、リリーは気にしなくていいから。ね、もう帰って、休もう」


 シャーリィが涙を拭う。その涙にキスをすることは叶わない。


 リリーがようやく泣き止むまで、シャーリィは黙って待っていてくれた。


 今日会って、遊ぶことがなければ、恋心はもっとふわふわとした状態で、彼女との現実に直面することはなかったかもしれない。お互いの仕事がもっと忙しくて、いつの間にかお互いに、別の想い人ができていて、自然に、ごく自然に関係がなくなっていたなら。


 運命がいつもいたずらをする。運命など信じないリリーも、このときばかりはそれを恨んだ。自分を責め続けるのがつらくなって、別の対象を探しただけなのかもしれないけれど、それで気持ちが楽になることはなかった。


リリーは深い溜息をついたあと、項垂れるように頷いた。

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