第12話 .Lily
階段を下りてすぐ、その先で出会ったのは、今朝、猫の死体を発見して走り報告に飛んできたミアだった。快復したからほっつき歩いているというわけではないだろう、彼女はリリーを見つけると、依然青白い不穏な顔色を浮かべて、無理に微笑んで会釈をした。憔悴した様子に胸が痛む。あの光景を見てそれでも気丈に振る舞えるほど、天使たちは図太くない。
「今朝はその、すみませんでした」
申し訳なさそうに言う彼女に、リリーは首を横に振る。ミアは一つ歳下だが、ずいぶん不安げに歪む目元はいつもよりずっと幼く見えた。
「ううん、しょうがないよ。見ちゃったんだもんね」
そう言うと、彼女はもともと青かった顔を一層暗くした。リリーはしまったと口を閉じる。思い出させてしまったのでは可哀想だ。かけてあげるべき言葉を見失ったリリーに、ミアはなにか決心したような表情で、顔を上げた。
「あの、それもあって――」
しかし、ミアは結局言いにくそうに口をもごもごとさせる。リリーの顔色を伺うようでもあった。
「しばらく、休暇をいただくことは可能かと思いまして」
「休暇?」
「はい。近衛兵のお仕事を、しばらくお休みさせていただきたくて」
そう言われて、リリーは少し躊躇った。休暇くらい大した問題じゃない。むごい死体を目にすることがどれほどの衝撃なのか、分からないわけではなかった。仕事がしばらく難しくなったって不思議ではない。ただ、城下で七年前の事件の再来が目撃された以上、城や城下の周辺の警備はいくらいたって足りない。
「数日だけ、ですので……」
黙り込んだリリーに追い打ちをかけるみたいに、ミアは言う。
「あの、アリスに言ってもらうことはできない? そういうの、わたしが勝手に決めていいことじゃなくって」
「その、隊長に言うのは、少し怖くて……」
声量がみるみる小さくなっていくミアに、まったく同情しないわけではなかった。アリスが怖いというのは、なにもミアだけの特別な感情じゃない。馴染みがなければ、アリスの表情は湖に張った氷のように冷たく、滅多に楽しげな感情を表に出さないこともあって、不機嫌に見えることさえあるだろう。実際にはただ表情で感情を表すのが苦手なだけで、不機嫌なときのほうが少ないわけだが、それをミアが知る手段はない。
ミアは言ったきり黙り込んでしまう。リリーはどうしようもなく、その場に立ち尽くすしかなかった。ミアの言うことも分かるが、これが自分の一存ではどうしようもないことも同時に分かっている。アリスに言ってもらわねばどうしようもないのだ。リリーは意を決してそれを伝えようと口を開いたが、出てきた言葉は意図したものと違った。
「――分かった。アリスにはわたしから言っておくから、ゆっくり休んでよ」
ミアの表情が少しだけ和らぐのを見てリリーはほっと胸を撫で下ろしたくなった。だが、同時に自分のことが憎らしくなる。優しさで言ったのではない。ただ、ミアの重苦しい感情に耐え切れなかっただけだ。アリスが自分のことを怒ったりしないことを分かっていて、アリスのその自分に対する優しさを利用して、ミアとの衝突を避けるという小狡い方法をとったにすぎないのだ。早く空気を弛緩させたかっただけだった。
・・・・・
不意にわたしも逃げたくなった。
リリーの中に生まれた衝動は、城内を歩いている最中に二階の高さから裏庭の青々と茂る草原を見た瞬間に浮き上がってきた。
リリーは左右を伺って、廊下に誰もいないことを確認する。そして、開けられた窓の枠に足を掛け、勢いづけて両足で窓枠に飛び乗った。片腕で上部を持って身体を支えたまま、眼下を見る。下手をすれば骨くらい折るだろうが、リリーは誰にも見られず出掛けたくなることがこれまでもままあり、そういう時は必ずここから飛び降りて、裏庭の細い階段から城下へ降りるのだった。だからそういう失敗はそれほど現実的ではない。リリーは片足をぶらりと城の外に投げ出すと、勢い付けて飛んだ。
一瞬の轟音が耳を襲う。飛んでしまえばそれほど高くなかった。いつものようにうまいこと着地すると、リリーはそのままふらふらと芝生に寝転がった。
「あったか」
空は雲ひとつなく、青が遠くで澄んでいる。本当なら今ごろ、アリスと剣で打ち合って、勝敗が付いて、それで泣くか笑うかをしていたのだろうけれど、そうではなくなってしまった。数日間緊張で包まれていた身体が、不意に空白を覚えてほぐれる。朝は暑かったけれど、いまは涼しい風が吹いていてそうでもない。
強制されるようにして目を閉じると、黄色い温度がまぶたの裏を照らした。血の赤、暗さを無理やりこじ開けようとする陽射しが鬱陶しくなり始める。
「――太陽さんさん、……寝させて」
「いいわよ」
雲ひとつなかったはずの空が急に陰ったと思った瞬間、耳元で声がした。リリーは慌てて身をよじる。誰かいた! こんなところでサボっているのが見られたらとんでもない――。
「だ、だれ」
呂律がうまく回らない。ふつう誰も訪れない裏庭に人がいたのだから、もう夢の中なのだろうかと思ったが、意識はやけにはっきりしている。ぼんやりした視線を前に向けると、その人の顔は逆光でうまく見えなかった。けれど光に目が慣れてくるにつれて、その身の細さが目に付く。すらっと立つ姿勢を纏うように、細い髪が、ミルクティーで染めたみたいな色の髪が揺れている。……女の子。
「シャーリィ?」
大好きな女の子だった。
リリーは勢いよく立ち上がって、その頬を両手で挟んで顔を覗き込む。
「シャーリィ!」
声を高くして名前を呼ぶと、シャーリィはぱちんと両目を閉じて口角を上げて、猫みたいな返事をする。それがリリーにはまた愛おしかった。鼻先が触れんばかりの距離で見つめ合う。目の前にいる彼女が本物で、本当にここに存在しているのか、夢の延長ではないかと確認するために、リリーはその体温を感じる必要があった。
「こんなところでさぼっているの? 近衛兵さん」
不敵な笑みを整った無邪気な顔に乗せて、リリーの瞳を亜麻色の瞳が覗き込んでくる。重力がすべて彼女の身体に乗っている気さえする、リリーの中に目覚めた愛情はすべてこのシャーリィ・シーワイトに向かっていた。
「シャーリィだって、どうしてこんなとこにいるの。公務は?」
いまだ驚きから醒めないリリーがおかしいのか、シャーリィは髪を揺らしてくすくすと笑っている。真昼間の陽光を浴びて喜ぶ向日葵の花を思い出す姿だった。
シャーリィは女王と王妃の間に、神聖な手段で授かられた子どもだった。
聖域の起こりは、我々がもはや記録も当たることができないずっと昔のことだ。知る手段は、神話をそのまま信じるほかない。女神は、殺意という感情の蔓延る下界から女子を救うために、純粋な心を持った数百人の女性を選び、聖域と呼ばれる空の島を作った。
しかし、女性だけでは子は授かれない。だからやがて聖域は衰退していく。数百人の最初の天使たちを不老不死にして、平和な空間を作ろうかと女神は考えた。だが、生き続けるということは、必ずしも美しいのみではない。死、それに誘われる変化、天使といえどそれを必要とする。だから女神は、愛し合う二人の間に子を授ける手段を残した。愛の証明と祈りさえあれば、翌日には二人の横に赤子が眠っている。誕生した子どもは祈り子と呼ばれる。男女の交渉があるわけでもないのに、どうしてか、両親二人の特徴を引き継いでくる。
シャーリィもまた祈り子だった。だが薄い茶色の瞳はヘレナに、伸びやかな睫毛はターラに似ている。丸く柔らかそうなたまごのような顔はヘレナに、彫刻のように彫られた表情はターラに。大きな瞳を縁取る二重と、それなのに妖艶に光る目元は、やはりあの王女と王妃を足して割ったような姿だった。
はじめは女子だけの世界を作るつもりだった女神もいつしか折れ、祈り子では男子も生まれるようになった。だが割合としては依然女子のほうが多い。一生かけて異性に出会わない女の人もいるくらいだ。子どもを授かる手段としては、妊娠出産よりも祈りのほうが多いと聞く。
「断ってきたの、会食。どこぞの領主と会わなければならなかったけれど、やめた」
シャーリィの背はそれほど高くないリリーよりもさらに少し低い。身体も脚も許せないくらい華奢だが、胸は許せるくらいの控えめさである。今日は空色の簡素なドレスを身に纏っていて、控えめなポシェットを肩に掛けている。明らかに会食に行く格好ではなかった。それほど値段の張らない服に違いなく、姫君の面影はもはや高貴な表情にしかない。最愛の幼馴染が、知った姿のまま立っているのが私には嬉しかった。
「お姫様がそんなことしていいの?」
リリーが問うと、彼女はふてくされたようにそっぽを向く。
「私は好きでお姫様になったわけじゃないのよ。知らない人と食事なんて疲れるだけ。今日は――どうやら午後からの試験もなくなったのでしょう? 楽しみもなくなってなんだか爆発しそうだったから、裏庭に逃げてきたら、あら不思議、おあつらえ向きにリリーが用意されてた」
リリーにはただシャーリィが約束を破って怒られてしまわないかが心配なだけだったけれど、シャーリィの幼さの残る笑顔を見たらどうでもよくなった。
「ところで」ほっと息を吐くと、シャーリィの顔が鼻先まで近づく。「今日ひまなんでしょ? どこか行きましょうよ」
「え、わたしなんの準備もしてないけど」
「あらそう、十分かわいいと思うけど。制服デートもありでしょ? ほら行きましょ、誰かに見つかる前に!」
裏庭には、細い階段が敷かれている。城下街への近道でもあった。シャーリィがリリーの手を引く。久しぶりの肌の感覚は、花の香りを嗅いだときのような穏やかなものだった。階段では、リリーが彼女の腕を支えて、転んでしまわないようにする。階段を下りきって城下に着いたら、また手が繋がれた。
空にはやはり雲がなく、強くなり始めた陽光を遮るものは何一つない。それなのに、身体に当たる日差しよりも、繋いでいる右手のほうが熱かった。手に汗をかいていないだろうか。シャーリィは暑くないのだろうか。涼しい顔をしてほんの少し前を歩くシャーリィの横顔を何度も見て、その度にまた体温が上がるような気がした。心は高ぶる。ほとんど一年ぶりの再会に。今日は誰にも邪魔をされず遊ぶことができる。会話はなかったけれど、繋がれた手だけで十分だった。
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