第11話 .Lily

 リリーは階段を、爪先から静かに踏み込んで、一段一段下っていた。下れば下るほど、自分の中に目覚めていく何らかの決心が、自分自身を焦らせるような気がする。足取りは重いが、無表情の奥の青い瞳には、白い雪が舞うみたいに窓からの陽光を反射していた。


 三階から二階への踊り場に辿り着いた時、リリーは下から背の低いメイドが小走りで駆け上がってくるのを見つけて、ぴたりと立ち止まった。両手いっぱいにシーツやらなんやらを抱えているから、たぶん周りを見る余裕はないだろう。リリーは端に避けると、汗を流しながら余裕なさげにとことこと駆けていく少女の横顔を見つめていたが、不意にその目がリリーを捉えた。三階に上がりかけていた足が急に後ろに引き寄せられ、メイド服の長いスカートが翻る。フリルを見せびらかしながらそれがゆったりと足元に収まると、少女は恭しく、リリーのお辞儀をした。


「あっと、リリーさま、おはようございます」


 深く頭を下げて、シーツに顔を突っ込んでしまった小さなメイドの姿にリリーは笑いをこぼすと、おはよう、と自分も返す。腕いっぱいに仕事を抱えたまま喋り続けることになるのも可哀想だったので、リリーが少し布類を持つのを手伝ってやると、メイドの少女はひどく慌ててそれを取り返そうとした。


 この娘はアナ・キャロラインという。今年で十歳になったと記憶しているが、まだまだ小柄なために、しゃがんでやらねば背の低いリリーでも目線が合わない。


「すみません、お手を! 煩わせてしまって!」

「煩わせるなんて言葉、よく知ってる」


 煩いついでに汗をかいたアナの額をハンカチで拭うと、アナはむしろ焦りで汗ばんでしまうのではないかというほどに、リリーに恐縮した。


「ほ、ほんとに、大丈夫ですからね。私、お礼できることなにもありません」

「いいんだよ、お礼欲しくてやってるわけじゃないから」

「それは、そうかもしれませんが……。ああ、リリーさま、どうかなさったのですか、王室でなにか?」

「あれ、どうして?」

「嬉しいのか、悲しいのか、よく分からないお顔をなさってますね。上から下ってきましたから、王室に行ったのだろうと。それで久しぶりに女王さまに会えたのはよかったけれど、どうもすっきりしないことがあった、みたいな」


 リリーは思わず苦笑いをして、アナの頭をくしゃくしゃと撫でた。アナの察しの良さは折り紙付きだ。お城のメイドさんたちの中では彼女が最年少で、小さなメイド服を振り回して城内を駆け巡る姿の愛らしさは、みんなの目を惹きつけて離さない。そういう意味ではいつも小動物的な癒やしを放出しているけれど、サラの英才教育を受けていることもあってか、会話も気遣いもばっちりな女の子だった。メイドとしての仕事に助けられている人も少なくないが、城の人々はこの小さなアナのことを信頼して、愚痴やら相談事を打ち明けることも多い。愚痴や不満ごとの中には、大人に聞いてもらうより、子供に聞いてもらったほうが都合のいいことも少なくない。そうしているうちに、この子はさらに人の顔色を伺う技術を身に付けて、相談の受け答えも完璧になってしまった。リリーの表情をこうして推理するのも、彼女にとってはけして並外れたことではないのだろう。


「アナは今日も忙しそう」

「いえ、私なんか、走り回るしかしておりません」

「あ、謙遜してる。一人でこんなにシーツを持たなきゃなの?」

「はい、持たなきゃです。ぶつからないように気を付けています。あとは、知っている方を見逃さないようにもしています。リリーさまをあと少しで見逃して走り去ってしまうところでした」

「じゃ、見つけて止まってくれたんだ」

「ええ、リリーさまはこうしてたくさんお話してくれますから。リリーさまも毎日お忙しいでしょう。おやすみなどお取りにはならないのですか」


 リリーはハンカチをしまい込みながら、肩をすくめて首を傾げた。自分の目前に、黒い髪がはらりと落ちてくる。指で払って、アナの薄い茶色の瞳を見る。


「なかなかね、わたしが休むと、他の子に示しが付かないかなとか思ったり。休んでもすることがないし、メイドさんほど走り回るわけじゃないから」


 アナがそうであるように、リリーもまた、人の顔色を伺うことを、いつも自然と行ってきた。そういうことがある程度、仕事に役立つくらいには、自分の類まれな特技として認識している。


「いえいえ、私の前でご謙遜なさる必要はありません。リリーさまの活躍は常々聞いておりますから。この前なんて確か現場に残された足跡と髪の毛と被害者の証言から実は犯人が近所に住むヤギ飼いだったと推理し、極悪連続女性下着盗難事件を解決したそうではないですか。そしてそれが準国事隊を出し抜いて事件を解決したことの十五回記念だとか! リリーさまのことを慕っている方、お城の中には結構いらっしゃいますよ!」

「なんか、すっごい恥ずかしいね」

「しかしそういった優秀な方々こそ、いざというときのためにしっかりと休息なさるべきなのです。さっきも暗い顔をなさった近衛兵の方とすれ違いましたが――」


 アナの睫毛が伏せられる。それは、疲労を隠せずにいた近衛兵に対する同情の瞳にも見えたが、同時に、リリーにはずっと深刻なものにも見えた。少なくとも、生まれて十年の子供がする目ではない。アナもずいぶん疲れているに違いない、人の話を聞くというのは、想像以上に体力を使うことだ。人の悩みを聞いているうちに、それが自分の悩みか人の悩みか分からなくなってしまうこともある。


 思わずアナの頭に手を伸ばして、その髪を梳く。


「うあ、すみません、……どうやら、羽休めにミカフィエル観光が流行しているそうですよ」


 前髪を整えるみたいに手のひらで撫でていたリリーは、アナのその言葉を聞いて動きを止めた。


「羽休めって、どういうこと?」

「ああ、えっと、休暇で」

「休暇で行くの? ミカフィエルに?」


 アナはこくりと頷いたが、リリーは眉を寄せ、目を伏せた。


 国外旅行は、七年前に国が分かたれて以来、禁止されていたわけではない。しかし旅行の目的といったら大抵は事件で離れ離れになってしまった友人や親類に会いに行く程度のもので、仕事の疲れを癒やすためにわざわざマクナイルを出ていく、というのは考えにくいことだった。なにしろ、国の分割自体、宗教的な感覚への不信感が原因で起きた事件だ。民意の総意が信仰に対する脅威を感じた。そのくせに、わざわざ観光目的、休暇目的で他国へ出るだろうか。山脈で隔てられた国境の向こう側の状況を知る手段は皆無に等しい。不可侵、不関与を条約で結んだ三国は、七年前以来情報を遮断しあって存在している。ミカフィエル共和国やエール教国どのような状態であるかも判然としないわけである。


 怪訝な表情を浮かべたリリーにアナは伺うような目線を下から投げかける。


「ミカフィエルはなんでも環境的に優れていて、観光に行くのが巷では少しずつ流行っているとか、なんとか……」


 アナは声を萎ませていく。リリーははっとして、アナに微笑みかけた。こんな小さい子を心配させたって仕方がない。リリーが疲れていることを察して、それでどこかで聞いた話をしてくれただけなのだ。いろんな人から話を聞いているのだから、どんな噂を聞いていたっておかしくない。


「あー、初めて聞いたかも」


 そう、とはいえ実際、不可解な噂だった。休暇に越境など考えたこともないし、考えている人を見たこともない。だがアナを煩わせても仕方ない。リリーは話題を変えようかと思ったが、アナは一層目を伏せた。


「そ、そうですよね、私もそう思ったのです。あの、リリーさま――リリーさまはとても頭が良くて、それで色々な方々を助けてくださってますね」


 不意にアナは顔を上げ、じっとリリーの瞳をじっと見つめた。その大きな瞳に反射して、リリーは自身の黒髪を見た。


「たいそうなことをしているつもりは、ないよ。どうして急に、そんなふうに言うの?」

「タグラス副総統、ご存知ですか?」


 リリーは頷く。ご存知もなにも、国衛軍という重要な国家機関の、二番目の椅子に座る重役だ。権限だけで考えれば、準国事隊のヘイデンとも渡り合える。


「タグラスさんが、どうかしたの?」

「いえ、どうということもありません、今日お城にお見えだったので、お話をする機会があったのです」


 少なからずリリーは驚いた。アナがいくら様々な人と挨拶を交わすといったって、タグラスと正面切って話し合う仲なら、リリーはこうして砕けた口調で話していられない。タグラスが城のメイドに声を掛けるというのも、リリーには少し不思議なことのように思えた。タグラスといえば自尊心と実力主義の塊のような女性だ。会議のときにだって、目下の者の意見をまともに聞いているのを見たことがない。自らの唯一の上司である国衛軍総統のアーロンの進言を補助するように、いつも立ち振る舞っている。


「……アナ、タグラスさんとも話すの?」


 こわごわ聞くと、アナは慌てて首をぶんぶんと振った。カチューシャの下で束ねられた栗毛の髪が揺れる。


「い、いえ! 違うんです。私から無理に声を掛けたんですよ」

「そりゃまたすごい勇気――」


「……噂の真偽を確かめたくて。本当に旅行に出る人がいるのか。国衛軍の方ならご存知かと思いましたから」

「なんて言ってたの?」

「リリーさまにお伝えすることにしたのは、つまりはそういうことです」

「間違いないって、そう言ってたんだね?」

「はい、それで――」

「それで?」

「それで、全部です、いま私が、リリーさまにお話したいことは」


 アナはそれを言い切ると、リリーの手元からシーツの束を引ったくって、逃げるように階段を下りていった。


 それではなぜ、アナは最初、階段を上がってきたのか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る