第10話 .Lily

 唐突な影はターラの手だった。彼女はリリーの口元を塞ぐかのように手を伸ばして、それでいて自分の瞳は伏せ、口元をきつく結んでいる。不意な彼女の態度の変化を察してリリーは困惑したが、やっとのことで笑みをこぼし、返した。


「どうしたんですか、ターラさん。なに――」

「リリー、あなたは、この事件から外れて」


 予想もしていなかった言葉が届いて、リリーは眉をひそめた。口元の笑みが段々と失われていく。優しく差し込んでいた陽光が急に陰って、部屋を暗くしたように思えたが、実際のところ、光景は美しいままだった。ただ自分の目元に影が差しただけだとリリーは気が付く。


「なにを――どうしてです」

「とにかく、だめなの」


 一方的なターラの宣告に、リリーはまるで納得をしなかった。不機嫌に目元を細めて、ターラの手を目前からどかす。それを見ていたヘレナが、横からおろおろとターラに声を掛けた。


「どうしたの、そんな藪から棒に。それじゃあリリーも納得できないでしょう? この子は国の、私たちのことを考えて働いてくれているのに」


 しかしその言葉へのターラの返事は、憂いを帯びた瞳だけだった。ヘレナはなにも言えなくなる。ただ頭ごなしに、ターラはリリーを排除したいわけではない。ヘレナはそれを察した。しかしそんなことはリリーももちろん分かっていた。不安が途端に舞い込んでくる。こう感情的なターラは珍しい。


 リリーはふと察した。きっと、危ないことをすると憂慮しているのだ。事が事だし、七年前は考えうる限り最悪の形で方が付いた。二の舞はご遠慮だと、そう言いたいのだろう。リリーはそう考えると、慌てたみたいに手を振った。


「ターラさん、わたし、危険なことはなにもしないです――」


 だが、それに返ってきたのは冷えた怒りだった。


「やめなさいって、言っているの!」


 棘を帯びたターラの声に、リリーはたじろぐ。長年連れ添ってきたけれど、彼女はこうやって、声を黒で塗りつぶして、脅しをかけようとするような人ではない。いや、なかった。リリーの前ではいつも笑顔で、なにかいたずらを仕掛けても、腹をくすぐるくらいの仕返しで許してくれた、それが――。


 表情にもはやなにも浮かべることはできない。リリーは苦い舌なぞるみたいに、唾を飲み込んだ。その様子を見て、ターラはうろたえる。途端に我に帰ったように、リリーの幼子のような瞳と、その黒いものが混じる前髪を見て、哀しそうな表情を浮かべる。女王のする顔ではない。これは人の弱さの顔だ。


「あ、ごめんなさい……急に大声を出して――リリー、えっと、違うの。その――」


 ターラの苦労は分かる気がする。けれど、今日に限っては、リリーも同情しきれなかった。


「なにが違うのですか」

「…………」


 ターラはリリーの問いかけに答えない。この期に及んで、それでも発言の真意を説明してくれないのなら、リリーもターラの気持ちに沿ってやれない。ターラから怒鳴られたことなど一度もなかった。それはシャーリィですらそうだろう。公務のある中で、いつもリリーやシャーリィに、陽だまりの声で接してくれていた。悲嘆の感情は、リリーに反発心さえ引き起こす。


 リリーは席を立って、ターラを見下ろした。


「わたし、ちゃんと説明してくれるまでなにからも外れません」

「リリー……」


 ヘレナが声を掛けてくるのを、リリーは無視した。ヘレナだって、最終的に味方をするのはきっとターラの方だ。


「疑われているのは、わたしなんですよ。わたしが、なんでか知らないけど、容疑者なんです。猫の首を切り落としたのが、わたしなんですって」


 そう言うと、部屋は凍りついたみたいに静かになる。呼吸の音もしない。リリーも、自らの胸腔に水が落ちたかと思うほど、息苦しかった。


「……自分の疑いは自分で晴らします。犯人も放っておけません」

「リリー、お願い。ただのお願いだと思って聞き入れて」

「理由を教えてくれるまでやめません。……失礼します」


 リリーは身を返す。残してしまったコーヒーと茶菓子を頭に思い浮かべると、その横できっと不安げにしているターラの姿も想像された。サラの横も、アリスの横も通り過ぎて、リリーは王室を出る。扉を見もせず後ろ手で閉めて、立ち止まりもせずに歩き続ける。足音がきつく鳴っていた。踵の落ちる音は、自らの苛立ちを、硬質な城という空間に響かせ、伝える。やった、やってしまった。目元はじっとなんでもないふうを装うけれど、リリーは内心、動悸と手先の震えが止まらなかった。


 あんな態度取りたかったわけじゃない。ターラだってきっとそうだ。足先を向かい合わせて、落ち着いて話せば、こんなふうに部屋を出てこなくたってよかったはずだ。それに、猫事件にだって、特別な感情があるわけではない。当然、気にかかる事件であるし、自らが犯人にされて、放っておけないのも事実ではあるけれど、こういうのは、やっぱり準国事隊とか、国衛軍とかの仕事で、お城の兵隊が首を突っ込むような事件ではないのだ。ターラがやめろと言うならば、命に従ってそれはやめねばならない立場にリリーはいる。それでも我を通せたのは、自分がターラやヘレナに愛されていて、アリスと仲がいいからに他ならない。そういうわがままの中で、親切や愛情を逆手に取って、すべきことだと思うからとすべきことをやり尽くしてやろうとする自らの傲慢さ――、リリーはじわりと、その青い瞳を覆う睫毛を濡らしたが、すぐに拭って、下り階段を一段踏みしめた。


 感情と生き方に逆らえない自分がいる。思考はどんな時もで動き続けている。今度の事件は我々に何を示すのか。なぜわたしが疑われなければならないのか。ターラはなぜ、リリーの介入を嫌がったのか。


・・・・・


 苛立たしげな音を立てて、重い扉が閉じた。部屋に残された面々には、青い色が浮かぶ。飄々とした表情をしているのはアリスだけだった。


「どうしたんですか、リリーにあんな態度取って。態度さえまともなら、あの子は話を聞いてくれたでしょうに」


 不躾に声を掛けてくるアリスにちらと目をやって、ターラはまた下を向いた。その視線の先には、祭りのあとがごとく、可愛らしい茶菓子が残されている。


「変な指摘はやめて、これは家族の問題よ」


 ターラの声は、リリーに相対していた時よりもずっと冷たい。本来はこういう人だった。シャーリィがいれば、リリーがいれば、彼女はいつだって花を育てるような表情をしているけれど、そうでない時は、とことん幸の薄い、冷え切った色を浮かべている。女王という立場の二面性。気を許せる人は、ほんの数人しかいないのだ。日常の一瞬一瞬ですら公務なのだ。だが、アリスはそういうことで動じる人物でもなかった。肩をすくめる。


「家族の問題だけなら、別にこんなこと言いませんよ。どうしたらいいんですか。リリーのことは、首輪付けて手綱握って、縛り付けて止めなきゃいけませんか」


 ターラはあからさまなため息をついて、アリスの冗談がましい問いかけに首を振った。


「止めようとして止められる子じゃない。でも、よく見ていて。なにか気がかりなことをするようなら、許さないで。私にも報告を上げなさい。いいわね」


 アリスもまた、ため息をついた。許さないとはなんなのだ。キスでもすればよいのか。口が寂しい。煙が欲しい。窓からは相変わらず鬱陶しい陽光が刺しており、それが向こうのメイド服をドレスみたいに輝かせているのが、一番腹立たしかった。家族の問題――家族の問題――、アリスの頭には、ターラのその言葉がずっと回っている。それなら私にとってさえ、リリーは妹のようなものだ。


 天秤が脳内で働きつつあった。

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