第9話 .Lily

リリーたちが遅れて会議室を出たのは、あくまで儀礼的な意味に過ぎなかった。女王は椅子に座って、権威を身にまとい客人を迎えなければならない。閉じられた両開きの扉はリリーの背丈の何倍もあり、焦げた茶色の扉は重々しい彫刻が施されている。そこに描かれた翼を生やす天使の色の無い瞳が、リリーたちを見下ろしていた。


 ……儀礼と言ったって、リリーとターラは、関係が長すぎた。わざわざ遅れて追いかけてきたにも関わらず、リリーはぞんざいに扉をノックした。王室の扉の前には近衛兵もいるが、これには何も言わない。しばらくすると絨毯を踏むおだやかな足音が近付いてきて、扉の向こうから声がかかってきた。


「どちらさまでいらっしゃいますか」


 返ってきた声は女王の声ではなかったが、誰のものであるかはすぐに分かった。メイド長のサラ・スカーレットだ。サラはほとんど住み込みで、女王たちの三食の提供や、ちょっとした世話を担当している。執事長と違うのは、役割が家事を中心とする点である。落ち着きに満ちた声色が、彼女の姿を思い起こさせた。周囲に気を配り立ち回る姿は、使用人の制服でしかないメイド服をまるでドレスのように見せるほど優雅で、命を待ち凛と立つ姿は、しとやかな梟が佇むようでさえある。


「リリーです、リリー・エウルです」

「リリー! リリーが来たの!?」


 今度聞こえてきた昂奮した声もまた、女王のものではなかった。楽しげに弾む女性の声が聞こえると、ぱたぱたと駆け寄ってくる足音も近付いてきた。


「わたくしが出ますから」


 サラの諭す声が聞こえる。しかし足音の主は「私が出る!」と聞かなかった。これは、いつものことだ。リリーは数歩、扉から遠のく。その瞬間、重苦しく見えた扉は軽々しく、こちら側に勢いよく開いた。台風のような風が起き、横に控えていた近衛兵の髪と、リリーたちの前髪を一瞬にして乱す。いつものことだから避けられたけれど、知らなければ扉はリリーの額に直撃して、今頃卒倒していただろう。


 扉を開いて出てきたのは、美しい穂の生った小麦畑のような波打つブロンドの髪を靡かせる女性だった。耽美なドレスは権威のためではない。ただ優美を優美に見せるための手段だ。裾に小花の柄があしらわれたスカートがリリーの目に映るや否や、羽毛の抱擁がリリーを包んだ。女の人は、跳ねるような声でリリーを歓迎する。


「リリー、なんて久しぶりなの! 今までどこで何をしてたって言うの?」

「お仕事ですよ!」


 言いながら、乱れた前髪も気にせず、リリーは彼女を抱き返した。風で乱れた髪は優しい愛撫で直してもらえる。身体の重ささえ忘れる居心地の胸元に顔を埋めて、リリーは数ヶ月ぶりに人に甘えた。一方、あちらの方はリリーの制服の生地が固いことが気に入らないみたいだった。


「同じお城にいるっていうのに、どうしてこう、会えないわけ?」

「王妃さまが忙しいからですね」


 抱擁をしばらく堪能すると、顔を離す。リリーを見下ろすヘレナを見上げた。桃色に染まった頬は十四の女の子みたいにいたずら気味だ。


「リリーが来てくれれば会えるでしょ? 私、ターラより暇よ」


 拗ねた表情を浮かべたのは、ヘレナ・シーワイト。女王ターラと婚姻し、その公務を支える気丈で優美な女性だった。全体的に小ぶりな印象を受けるのはなぜだか分からないけれど、実際にはリリーよりも幾らか背が高いし、年齢も精神的な状態もずっと大人びている。きっと顔のパーツひとつひとつが無邪気なせいだ。姫君であり最愛のシャーリィは、ヘレナの印象をよく引き継いでいると思う。


「努力はしてます」

「それは会いに来る努力? それともお仕事? まあ大活躍だものね。この前なんて確か現場に残された足跡と髪の毛と被害者の証言から実は犯人が近所に住むヤギ飼いの――」


 彼女はリリーの最近の手柄をいくつか並べながら、リリーの手を引いて王室の中へアリスも一緒に招き入れる。爺やは特に用がないらしく、というか、他に用があるらしく、礼をして去っていった。


「――しかもそれが準国事隊の捜査を出し抜いた事件の二十回記念で……」


 恥ずかしいのでやめて欲しかったが、ヘレナはどこからか聞いたらしいリリーの話を延々自慢のように語っていた。招き入れられる王室は広く、部屋の正面にはターラとヘレナが座るための玉座が置かれていたが、彼女たちは謁見する時以外にはそこに座らず、いつも窓際の小さなティーテーブルを囲む。部屋はそれ以外には簡素で、無駄な装飾は排除されていた。絢爛さは謁見しに来る国民に不信感しか与えない。しかし、ボロ臭ければいいかというとそうでもないので、政治は難しい。リリーは政治をするくらいなら現場に出るほうがよっぽど楽だと思った。


「いらっしゃい、リリー」


 ターラは先程の緊張した面持ちをいくらか和らげ、いつものように茶菓子を摘んでいた。アリスと一緒に現れたわけだが、ターラはリリーの椅子だけをサラに用意させる。なにも意地悪したいわけではなく、リリーと話したいのだ。アリスもそれを心得ていて、邪魔をしないよう扉の近くで壁に寄って待つ態度だった。


「どうぞ、リリーさま」


 サラのコーヒーが運ばれてきて、リリーは小さく嬉しい声を上げる。コーヒーが氷で冷やされていて、それが珍しかったからだ。お店ではコーヒーをこういう形で出されることが少ないけれど、サラは街にありふれた料理やデザートを、自分流に美味しく作り直すことができた。冷やされたコーヒーはグラスの中に透明と琥珀色の空間を作り出して、それが窓から差し込む青空の残滓を、こじんまりした丸テーブルの上に映し出している。ストローに口付けて吸い出すと、口の中には甘い苦さが流れ込んできた。熱いとこう、思い切って飲み込むこともできないから、リリーはアリスの出してくれるこのコーヒーが大好きだった。


「ありがとうございます、おいしいです、とても」


 リリーは目を輝かせて、サラを振り返る。サラは微笑んでかぶりを振り、結露を浮かべるグラスの横に、彩りの豊かな茶菓子を追加した。頭を下げると姿を引いて、離れたところで佇むと、お人形のように動かなくなってしまう。「使用人が目立っては仕方がないのです」というのが、サラの矜持だ。本人がそう言っていた。リリーはいつもなんだかサラに興味津々だったが、話せる機会が得られないのでじれったく思う。


「リリー、来てくれてありがとう」


 改めて声を掛けたのは、紅茶を置いたターラだった。


「ヘイデンのことは気にしなくていいからね。何があっても私が守るから」

「……ありがとうございます。……今朝、現場に出ました。報告がしたいです、ターラさん」


 リリーは早速本題に入ったが、ターラの表情はすぐに曇った。窓枠の向こうがじっと晴れているのと対照的に頷かないターラを、リリーは不思議に思いながら、しかし黙っていても埒が明かないので、口を開いた。


「事件は深夜から早朝にかけて起こったものです。聞き取りが済んでいないので詳しい時間は分かりませんが、ヘイデン総統の言うのが事実なら、午前四時でしょう。それほど懐疑の残る時間帯でもありません。死体の状態から見ても、納得できる報告です」

「死体? リリー、見てしまったの……?」


 ヘレナが眉を心配そうに歪めた。リリーは何でもないと振る舞うために、首を振った。何でもないということはもちろん無かったけれど、この二人の女性を心配させる方が、ことによっては大変だ。ターラもヘレナも、やたらリリーに過保護だった。


「わたしは大丈夫です。アリスの方が心配でした」


 二人がアリスを見る。「やめて」と口の動きだけで言って、アリスはそっぽを向いてしまう。


「ある程度、ヘイデン総統から聞いてると思うんですけど、死体にはその、頭部が欠けていて――七年前の事件と、同じ方法で」


 殺されていた。という直截な言葉は出てこなかった。言わなくても分かることを、言う必要はない。リリーはその場で感じたこと、今後の動向についてターラに報告し尽くした。女王は最終的に、頷いた。


「――すべて分かりました。報告ありがとう」


 ターラは一度言葉を切る。少し、ぎこちない間が空いた。窓を花びらが叩く。急かすような音だったので、リリーは足元をよじった。スカートの裾の素肌が触れる。ブーツの高いところが擦れて乾いた音を発した。


「リリー、本当に落ち着いているのね。事件となると、こう、ダイヤみたいに固くって、心が……」


 そして、女王ターラの表情がいつになく陰っているのを、リリーは見逃さなかった。陽光も跳ね返すような憂いた瞳が、ゆらゆら揺れている。気丈なこの人がここまで狼狽するのを、リリーは初めて見た心地がした。あるいは、大昔に一度見た気もする。いずれにしても、慣れた感覚を抱きはしなかった。やがてターラは「試験は中止にせざるを得ないし……」と呟いて、それを聞いたリリーは彼女に微笑みかけた。だが、言い訳じみた注釈を読んだ気になる。ターラは、そんなことを言おうとはしていなかった。


「……いえ、仕様のないことです。むしろ日が伸びれば伸びるほど、アリスをやっつける特訓もできます」


 ぐっと力こぶを作る振りをして、リリーはターラを安心させようとしたけれど、彼女の視線は、それで更に揺らいだ。波面よりずっと穏やかでなかった。――きっと事件のことが気になって仕方がないんだ。リリーはそう思う。七年前の事件は、ただの悲劇だったわけじゃない。誰よりも対策に追われたのは王政府だ。今後のことを考えれば、不安にもなるだろう。リリーと目が合っても、その目は一瞬でどこかへ逸らされる。


 王妃ヘレナが紅茶を一口飲み込んで、口を開いた。


「これ以上なにごとも無ければいいけれどね。リリーも捜査に協力するのでしょう?」

「はい、わたしにできることがあるなら、ぜんぶするつもりです」


 発した言葉に嘘偽りはない。リリー自身、この事件を早く解決したくてうずうずしていた。犯人が自分扱いされているのもよくない。そしてそうヘレナに言った瞬間、リリーは思わず顔を仰け反らせた。鼻先に向かって、大きな影が急に迫ってきたからだった。

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