第7話 .Lily


 肺が小さくなるのを感じた。


「なに? なんて言ったの?」


 リリーが表情をこわばらせたのを見て、アリスが目を薄めて問う。爺やは白い顎髭を忙しなく揺らして、下がった頬の皺をより一層深めた。恰幅のいい身体が、焦燥で震えている。


「リリーが容疑者だと言っとる。会議室で女王が応対中だ――いや、しかし、行った方がよいのか、黙っていた方が身のためなのか、私には分からんぞ……」

「リリー」


 窺う視線がアリスから飛ぶ。何も判断しようがなかった。何がなんなのか、何故そうなったのか、分からない。誰かを犯人だと言うことは今までに何度もあったが、自らがそこに登ることはなかった。崖上で、強風に吹かれる不安定さを覚える。おそらく状況は一刻を争う。しかし逡巡を浮かべるリリーを、アリスは責めようとしなかった。


「嫌なら私が一人で行くよ。部屋で休む?」


 アリスの両手がくしゃくしゃとリリーの髪を撫でた。包む冷たい手のひらが、逃げてもいいということを伝えてくれる。


「わたしが犯人じゃないことは、わたしが一番知ってる」

「うん」

「だから行く」


・・・・・


 城の四階にある大会議室には、急ぎ足で数分掛かった。重く荘厳な両開き扉をアリスが押すと、走る視線がリリーを駆け抜けた。女王ターラは強い光を目に宿し、準国事隊の総統であるヘイデンを睨み付けていた。


 ヘイデンは齢六十を超えながら、国家の頭脳と呼ばれ畏敬を集める準国事隊を、たった数年で纏めあげた実力者だ。職務の内容は広範で難解であるのに、準国事隊はそれぞれ個人の才能に頼りきり、そ個々の働きだけで成り立っていた。そんな機関が縦の関係を導入し、初めてひとつの組織として行動できるようになったのは、まさしくこの人物が骨を折ったからだった。彫りの深い目元は小さくも濁った青さを携えており、充血した視線は印象深く恐れさえもたらす。高い鷲鼻と気難しそうな表情の皺が、冷徹な準国事隊員を凌駕する冷酷さのようなものを示していた。リリーを見付けた目が、関心で歪んだように見えた。


「とにかく、リリーの身柄拘束は許さない。あの子が城にいたことは私が保証する」

「保証などという話ではない、殿下」


 しゃがれた声が、だだ広い会議室で反響する。空間を囲う長机と椅子は大人数分用意されているのに、座っているのはヘイデンだけだった。彼の横には杖が二本、机に立てかけられている。ターラも最初は座っていただろうが、勢いよく立ち上がり声を荒らげたことを、その後ろで倒れる椅子が示していた。


「犯人と決めた訳では無い。だから、身柄の拘留が必要なのです。犯行が可能だった者の中では、最もその蓋然性が高い。だから同行を求めている。聴取を拒否することは、殿下、貴方にも不可能なことだ」


 ターラは波打った金色の髪を揺らした。信じ難いと小さな声で言いながら、首を横に振る。


「国衛軍の管轄ではないの? なぜ貴方たちの機関でリリーを預かるわけ? リリーの取調べは許さない。どうしてもと言うのなら私の前でやりなさい。少しでも偏屈な事を言ったら準国事隊なんか解散してもいいけれどね」

「我々の決定と方針を否定すること自体、そもそもあなたに権限がないと言うのです。容疑者はちょうどよくいらしたみたいだし、ご同行を願おうか。殿下の御前で聴取をしろというのなら、殿下にも本部へ参じて頂きたい」


 あまりに怖いもの知らずな物言いだった。いくらターラが物腰の柔らかい君主だとはいえ、時代が時代なら牢獄から出しては貰えない。だが、ヘイデンの度胸は、けして女王であるターラに怯えを持たないということだけではなかった。それ以上に、目的を果たしさえすれば牢獄に行くことなど何でもないというような、そういう覚悟が滲み出ている、だが、ターラも怯む人ではなかった。


「権限? 法は私よ、ヘイデン」

「…………」

「仮に事件の捜査や国の立法を貴方がたに任せていると言ったってね、それは厚意よ、分かる? 今すぐ全て取り下げて、貴方たちの権限すべて消してしまうことだってできる」


 明確な脅しがヘイデンを突く。準国事隊は国家の脳として、あらゆる権限を与えられている。が、事実最高の権限を持つのは女王であるターラだった。ターラが法を捨てれば、法は今すぐ塵と化す。ヘイデンはターラと相対するのを止め、その視線をリリーに向けた。リリーはその目に射られ、すぐに冷や汗を感じる。


「リリー・エウル、自白すれば罪は軽いぞ」

「ヘイデン、それ以上私の娘を侮辱するのはやめなさい」


 ターラの言葉は無視される。リリーはこわごわ口を開いた。


「……あの、分かりません。どうして私が犯人に挙げられているのですか」

「君であるという情況証拠がいくつも上がった」

「けれど、犯人は大人の男性です」


 リリーの言葉にヘイデンの動きが止まる。


「何を根拠に?」

「足跡が」

「足跡だと。それが証拠にならんとは言わんが、この期に及んでは役に立たん。何故なら、それ以上の証拠が出ているからだ」

「いや、リリーの言う通り、余った足跡は大人の男のはずでしたよ」


 アリスが口を挟む。ヘイデンが何と言おうと、現場に出てそれを検証したのはリリーだ。死体が発見されてまだ三時間も経っていないのに、容疑者を確定する証拠など、しかもそれがリリーであるということなど、あるはずがない。


 ヘイデンの目がリリー以外に向けられることはなかった。


「早朝四時、物音で目覚めた近隣の市民が遠巻きではあったが大袋を担いだ者を見た。そこから何か取り出して、地面に置き去るところもだ。さて、問題はここからだ。犯人は近衛兵の制服を着ていた。近衛兵に大人の男はいたかね?」


 急に、身体がむず痒くなる。ヘイデンがじろりとリリーの制服を見回したからだった。唐突に与えられた言葉に、脳も混乱している。近衛兵は、全員女だ。


「聞くところによれば、制服を管理しているのは更衣室の鍵を持つリリー・エウルとチェリ・クラメリー、いずれも昼間勤務と夜間勤務の責任者だ。そうだな」


 誰も頷かなかった。それ自体は正しい。鍵を持っているのはリリーとチェリだけだった。


 ヘイデンは続ける。


「見廻りで現場を通る時間も決まっている。四時にはあの通りに巡回は無いな。また、チェリ・クラメリーは門前に立つのがいつもの仕事で、この姿も常に確認されている。当該地点を巡回する順路に就くミア・サトリエも、本来の時間に本来の巡回を行っていること確認が取れている。更衣室は何かしらの理由で、とある時機から厳重にされ、支給される制服は一着、洗濯が必要なら勤務時間外の間に済まされ、二着以上の予備を持つ近衛兵隊員は一人もいない。更衣室は朝に開けられ、夜勤が着替えたあと閉められる。リリー・エウルが解錠するまで開ける手段はない。昨晩の夜間勤務は欠席無し、制服の紛失も報告されていない。つまり昼間のうちに制服が盗まれたわけでもない。制服は夜間のうちに取り出され、夜間のうちに返却された。繰り返し問うが、可能なのは誰か?」


 更衣室の鍵を持っている、リリーだけ。そう言いたいのだろう。彼の言うことはほとんど事実だ。チェリの持ち場はいつも誰かしらの目に入る門前だし、そこを離れて行動することは難しい。チェリが更衣室の鍵を弄れない以上、確かに、リリーを疑う理由はあるようだった。しかし、リリーがヘイデンの疑いを聞いて納得することはなかった。自分がやっていないことは自分が一番良く知っている。それに、ヘイデンの説明は不足している。


 リリーは言い返そうとして、息を吸った。けれど、ヘイデンの深い眼光に気が付いて、動きが止まる。薄く濁った碧い瞳が光ってリリーを睨みつけているのが、泡を吐きながら溺れている感覚を想起させる。ターラがリリーの様子に気が付いて、前に躍り出た。ヘイデンと相対する。


「ヘイデン、今後もマクナイルで仕事がしたいなら、引き返しなさい。聖域が地に落ちても、この子は渡さない」


 沈黙が部屋を支配した。それで、どんな心境の変化があったのかは分からない。ヘイデンは突然立ち上がり、杖を手に取った。書類をまとめて立ち上がる。扉を開くと、先程は姿が見えなかった秘書らしき女がおり、開いた扉の隙間から内部を一瞥した。


 ヘイデンが我々を、とりわけ、リリーのことを振り返る。


「三つ程か。反論は、あと五つほど用意しておきなさい」


 ヘイデンは踵を返し、秘書の女は書類を受け取って、彼の後ろを付いていく。


「え、なにあれ、ああいう感じなのあの人って。最後の最後で好かれようとするの、すごいおじさんっぽくない?」


 アリスの浮ついた独り言には誰も返事をせずに、ターラがリリーに近づいてくる。ゆらゆらとした湿った瞳でリリーを見つめると、その両手で頬を包んだ。シャーリィがリリーを甘やかす時にする動作と同じだった。


「怖い思いをさせたわね、リリー。気に病まないで欲しいの。あなたが犯人じゃないことは、誰よりも私が知っているわ」


 リリーが頷くと、ターラは柔らかくリリーの頭を撫でた。


「久しぶりに会えたのに、こんな形でだなんてね」

「いえ、わたしは大丈夫です、ターラさん」


 ターラは海辺に似た緩やかな髪を揺らして、さみしげに微笑んだ。


 ターラさん。リリーがそう呼ぶのは、マクナイル王国女王、ターラ・シーワイト。リリーが生まれるつい四年前。つまり今より二十年前から、この国の女王として君臨している。当時の齢は弱冠21歳。前国王の急な崩御にも関わらず、文字通りの敏腕さで自分の政治を造り上げた。年若な女王陛下の登場を誰も不安に思わなかったのは、彼女が姫君だった時からその才を世に知らしめていたからである。


「じゃあ、女王様はお聞きですかね、城下でのこと」


 ぶっきらぼうなアリスの問いに、ターラは目を伏せて肯いた。アリスはヘイデンとは別の感じで、礼儀をよく知らなかったが、ターラは気にも留めていないようだった。


「ええ。ここで立ち話もなんだわ。二人とも、王室にいらっしゃい」


 言い残し、ターラが去る。扉がしまったのを見て、リリーたちも扉を開けた。

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