第4話 .Lily

 リリーはアリスと顔を見合せた。が、そうしている暇さえないことは分かっていた。チェリがアリスに声を掛ける。「ミアは頼まれたから、早く行って」


 アリスは頷かなかった。リリーの目には、彼女が燦々と輝く夏の日射しに当てられて、呆然としているように見える。柔らかい髪に汗が伝った。


「アリス? 行かなきゃ」


 リリーは手を引いた。いつもはそうでないのに、アリスの手は汗ばんで熱を持っている。リリーはもう一度手を引く。


 早朝の快晴下、アリスの表情は曇天より重かった。死体と聞いたのだから無理もないのかもしれない。むしろ、間髪入れず動き出したチェリやリリーの方が普通ではないのかもしれなかった。


 アリスは錦糸のように細い金髪を、指でくるくると弄ぶみたいにしていた。彼女は思案する時、よくそうする。やがて、リリーと歩き始めた。


・・・・・


 近衛兵の仕事は、マクナイル城と城下町の守衛として警備をすること。事件の捜査権限は与えられているがその範囲は限りなく狭く、司法に関わる権利は一切といっていいほどない。元々、ずっと前の国王が趣味で作った兵隊が、慣習で続いて、そこそこの権限を認められるようになっていったに過ぎないような小さな組織だった。捜査機関は別にあり、国軍も別にある。


 ――城下に死体が。それが本当だしても、リリーたちは野次馬の排除に協力するくらいで、実際に何があったかを知る必要はないと思われている。隊長と副隊長が出張っていく必要も本来はないが、リリーは真っ先に現場に行くことに決めたし、階段を下る途中、アリスも「こういうのはリリーがいないと始まらないか」とぼやいた。


 数百段ある階段を下ると、すぐに人集りが見える。人通りの多い通りなのもあって、結構な人が捜査機関である準国事隊の現場検証を遠巻きに、煉瓦で舗装された道路の一角を囲うようにして見ていた。


 現場は、マクナイル城の階段を下ったその先にある、城下で最も広い通りだった。脇には所狭しと売店が並び、昼の間、人が耐えることはない。一番通りと誰もが呼ぶこの通りは、街のどこの道を通ってきても辿り着く、木の幹のような道路だ。こんな活気溢れる場所に、死体が。錯乱していたミアが誤って変なことを口走ってしまったのではないかと願わざるを得なかった。が、錯乱する原因それ自体、半端なものの筈がない。


 アリスが群衆を掻き分けて行くと、リリーは心の中で胸を撫で下ろす。臨場している準国事隊の隊員は、知り合いだった。


「おはようございます」


 リリーが声を掛けると、麻布の所に屈んでいた男性は難しそうな顔を上げた。


「ああ、リリーちゃんか」


 鼻下の髭が呼吸で揺れる。彼の管轄はここの周辺で、リリーと一緒になることは少なくなかった。準国事隊の中でもリリーに好感を抱いてくれている人で、気兼ねも少ない。


 リリーと男性が話し始めると、アリスはもう一人降りてきた近衛兵と野次馬の対応をし始めた。


「ありゃ助かるな。市民に見られてるんじゃ、現場検証もろくに進まない」

「……死体と聞きましたが、」


 リリーが声を落として問うのを、男性は顎で指し示した。その先にある布を、しかめた顔で見つめる。暑さに揺らぐ表情に似た苛立ちの表情だ。


「厄介な事になったよ」

「見てもいいですか」

「……見ちゃだめとは言わんが、見ない方がいいとは言っとくぞ。それにわざわざ見たって、近衛にできることは少ないだろう」


 布の膨らみは、大した大きさでは無かった。少なくとも、大人の死体ではない。幼い子供が事故に巻き込まれたのだろうと最初は思ったが、「厄介な事になる」と言われてそう簡単な話でもなさそうに思えた。


「できる範囲で、できることをやります。見てもいいですか」

「好きにしなよ、知らねえぞ」


 近衛兵に現場を荒らす権限はない。準国事隊や国衛軍の許可があって初めて参加できる。リリーは男性の許可を得て、膨らむ布の端に指を掛けた。


 落ち着こうと浅く呼吸をするが、かえってそれで腐臭を嗅ぎつけた。


 捲り、その内部を見て、リリーはすぐに手を下ろした。気付けば手が震えていた。リリーは両手を重ねてなんでもないように振る舞うしかなかったが、準国事隊の人はリリーのその様子に目敏く気付き、重いため息を吐いた。


「言わんこっちゃない。吐くなら向こうで頼むよ」

「……いえ」


 リリーは呼吸を整える。惨い光景が、頭の中で繰り返されていた。認めたくない。でも、認めたくないという己の感情を、見澄ます必要があった。目を瞑り、繰り返す光景を、そのまま見つめる。やがて、また布に手をかけた。


 ――わたしは大丈夫。


 布を捲って、呟く。

 一、二、三、四、五――。五匹。


 五匹の、猫の死体だった。


 その数が異常であることには間違いなかったが、それだけなら、リリーも嘔吐く程ではなかった。リリーが目を瞠ったのは、それらの死体の、首から上が切り落とされているからだった。


 つまり布の下には、五つの首のない猫の死体が置かれていたのである。


 リリーはつぶさに見ようと角度を変えながら布の中に目をやっていたが、群衆の視線が気になり自由に動けなかった。こんなものを彼女たちに見せたら、卒倒するに違いない。天使は、血と悪意に繊細で、死の概念とは程遠い。天使と下界の人間を隔てているのは、殺意やそういった類の加害の有無だと信じられていた。聖域は、平和で、真っ白でなければならない。城下での惨殺など、この人たちには見せられない。


 どかさなきゃ。


 リリーは立ち上がって、アリスたちの方へ近付いて行った。集まる人々に向けて声を上げる。


「ごめんなさい、どなたか、これくらいの――」リリーは胸元で自分の胴体くらいの四角を指で描いた。「袋をお持ちではありませんか。お返しはできませんが」


 言うと、数人が輪から抜けて行った。こういう、簡単に叶えられるお願いは、みんな競って叶えようとする。人の性だ。そのうち出ていった人々が袋を持ってくると、その中から調度の良さそうな袋を探した。


 見当を付けてお礼を言いながら手を伸ばすと、その袋がひょいと持ち上げられる。見たら、通りに住む若い男だった。


「おっとリリーちゃん」

「あの……」


 背伸びをして手を伸ばすが、男の身長には敵わなかった。不服の表情で見つめると、彼は不敵に笑う。


「なにがあったか教えてくれよ。それが条件だ。ありゃなんだ」


 天使には、事件そのものへの耐性すら無いに等しい。こんなに仰々しく捜査機関まで出てきているのに、集まっている人々はいまだ何らかの催しだと思っているに違いなかった。微笑ましい平和への依存も、時には良いが時には至極悪い。彼の好奇に満ち黄色に輝く目を、リリーは睨み付けた。


「大量の――」

「大量の?」


 群衆は静まって、リリーの次の言葉を待つ。リリーは努めて神妙な面持ちで、重々しく宣言した。


「排泄物です」

「なんだよ!」

「吐瀉物もあります」

「言うな!」


 大げさに退散していった男性を見て、他の人々も次第に興ざめして去っていく。リリーはため息を吐いて、現場の方へ戻ることにした。少々の野次馬が残っていないではなかったが、それはもう一人の近衛兵に任せることにして、アリスもリリーの後を付いてきた。


「なんだったわけ?」


 リリーは思わず顔を顰めた。リリーだって別に得意なわけではなかったけれど、あまりアリスに見せたい現場ではなかった。アリスが布に近付いていく。


「あの、アリス」

「ん?」


 アリスは屈み込みながら、リリーの声に生返事で返す。太陽の日射しは七時を回ってより強くなってきていた。隠す雲もなく、涼むような場所でもない。


「アリスは、見なくてもいいと思うけど」

「は? なんでよ」


 言いながら布を持ち上げたアリスが端正な顔を苦しませるまでに、それほど時間はかからなかった。いつもは冷静でよく切れるナイフのような表情をしているのに、いまばかりは少女のように折り曲げた指を噛み、吐き気を押し戻すようにしていた。彼女は小動物に同情的だ。アリスは胃液を我慢して浮かんだ涙を瞬きで消すと、リリーを振り返る。


「リリーは見たの?」

「うん」

「ちょっと来て」


 アリスの方に寄って目線を合わせると、彼女の手がリリーの額に伸びた。指には歯型が付いている。


「大丈夫だった?」


 聞く水色の瞳が、不安げに揺れている。冬の荒れた海が見せる表情に似ていた。


「大丈夫って――。アリスの方が心配だよ、わたしは」


 言いながら、無意識でアリスの手を額からどけた。ぱたりと地面にアリスの腕が落ちて、リリーは軽く微笑んでみせた。


「心配しないでよ。わたしは調べること調べる。アリスは戻る?」

「や、見てる……」


 リリーは頷いて、袋を手に持ち、布を捲り上げた。

 

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