第2話 .Lily


 リリーには想い人がいる。


 ずっと昔から。――きっと、世界を女神が作る前の、地面が荒廃していた時代から大好きだったのだと思っても腑に落ちていくような、そんな人が。


 シャーリィ・シーワイト。リリーの幼馴染で、それでいて、マクナイル王国の姫君。思い起こすだけで、彼女の温度が鼻先をくすぐる気がした。繊細なミルクティー色の髪の毛を長く伸ばして、切れ長で大きい瞳を光らせている。檸檬の色にさえ見えることのあるブラウンの虹彩がリリーの目には眩しい、華奢で賢い女の子だった。


 リリーとシャーリィは、今でさえ姫君と近衛兵という異なる身分ではあるけれど、その関係は物心付く前からのものだった。そして、慕情もずっと。いつから、それにどちらから始まったかは分からないけれど、周りの大人たちにバレないように、二人は色んな感情の冒険をした。触れ合いすぎることだけを禁じて、様々な空色の言葉を交わしあった。


 ――チェリが調子を尋ねてきたのは、そして、リリーが気合いを入れるのは、彼女の横で働くための試験が、まさに今日、この日にあるからだった。


 近衛兵は、その隊長が姫君の身辺の護衛を担当する。城の中にいる時はその限りではないけれど、一歩でも城外へ赴く時は、近衛兵隊長が一緒でないことはない。挨拶、会食、女王の付添、儀式、その他国事行為に参加する姫の横には、いつも近衛兵隊長がいることが習わしだ。


 そして、その隊長を決める試験が、今日、行われる。試験の内容は、至って特殊なものだった。少なくとも、リリーは特殊だと感じていた。実技試験――というか、近衛兵同士で剣術の試合をして、それに勝利した人が、隊長となるのである。リリーが副隊長という肩書きであるのは、昨年の準優勝者だからだった。


 試験には15歳から参加する。近衛兵には14から志願できるので、一年経験を積んでからということである。しかし、近衛兵はなにも、腕に自信がある人の集まりというわけでもない。そういう人は他に行く組織があるし、近衛兵隊それ自体が、それほど権威のある職業ではないからである。公僕ではあるけれど、実際に城内で暴動が起きた時に活躍するのは、近衛兵が中心ではなかった。


 それでも隊長選抜試験が腕っぷしを要求するのは、試験への備えで近衛兵全体の能力を底上げする目的もあるだろうし、即急の場面で姫や女王を守れないのでは、お話にならないからだろう。隊長になることの意欲如何を問わず、試験には全員の参加が要求されるが、それはそのためだった。


 隊長になりたい。それはリリーの、幼い時期からの夢だった。近衛兵という組織をどうこうしたいわけではない。理由は、ただシャーリィの隣にいたいから。


 シャーリィ自身もそれを待ってくれていた。近衛兵になったリリー、そして同い年で公務の増えてきたシャーリィは、この数年で、見るからに二人で会える時間が減っている。とりわけこの一年は、もうずっと会っていない。手のひらの柔らかささえ、忘れてしまいそうになるほどの期間。手触りのいい腕のきめ細かな肌がどんなだったか、リリーは感覚では思い出せない。触ればきっと思い出すだろうけれど、ずっと食べていないお菓子の味が思い出せないように、頭の中では思い起こせない。リリーは自分のくちびるを指で撫でる。寂しさを募らせたリリーにとって、隊長になってシャーリィの横で働くことは、何よりも重要なことだった。隊長になれば、毎日でも会うことができる。隊長にならなければ、今後もっと会えないかもしれない。


 だから、仕事をこなし、近衛兵に求められる活躍を超えて働く一方で、この一年、剣術の練習を欠かさなかった。やりすぎで体調を崩しそうになった時は、そのことを察して養生に努めた。どんな意味でも抜かりはなかった。


 今年こそは隊長になる。その意気込みは周囲の人々にも伝わって、リリーを応援してくれない人は、城にはいなかった。


 けれど――リリーは城の周囲を歩きながら思う。けれど、現実はいつだって非情に人を出迎える。去年、リリーが副隊長になれたのは、文字通りそういった努力のおかげだったという自負がある。しかし同時に副隊長にしかなれなかったのは、その努力が足りなかったことを意味していた。場合によっては最年少の隊長となることは可能だったかもしれない。ただ、折が悪かった。


 城の周囲を一周するうちに、中庭に戻ってきた。そこにちらほらと他の近衛兵の姿が見え始め、リリーは彼女たちと手を振ることで挨拶を交わした。おはようと声をかけてくれる子もいれば、軽い会釈で済ませる人もいる。リリーは輪から少し離れたところで、数段拵えられた階段に腰掛けた。その頭が軽く叩かれ、リリーは頭を上げた。覗いた顔に、リリーは笑みを返す。


「おはよう、アリス」


 言いながら立ち上がると、アリスの方は座る動作をして、ついで立ち上がりかけたリリーの手を引っ張ってまた座らせた。背の高い彼女のことは、座っても見上げなければならない。


「おはよ」


 アリスは気だるげに、抱えた膝に頬を乗せる。顎下までしかない短い髪が、重力に引っ張られていた。いたずらっぽい表情に碧い瞳を浮かべて、リリーの瞳を見つめている。切れ長な目は冷たい印象さえ与えるけれど、その鋭さはリリーにとって心地よかった。引き締まった小顔も、薄い唇も、整った顔立ちが、彼女の潔癖さや、強気な印象を強くしている。眩しいほどに綺麗な、朝の白んだ光さえ跳ね返すほど彩度の高い金髪が目を引く。前髪が目に薄く掛かり、こめかみのところは耳に掛けていた。骨格がきっちりと肌に現れているのが、どことなく彫刻のようにさえ思える。


 リリーには無邪気な表情を見せるけれど、今しがた近衛兵の様子を伺うために上げた顔は凍るように冷たい。綺麗な顔立ちはそれさえ絵的に見せるけれど、その視線を受けた近衛兵たちは気が気でなかった。浮ついていた空気は、まだ朝礼まで少しの時間があるのに緊張を帯びる。アリスにはそのつもりがないことをリリーには分かっていたけれど、みんながみんなアリスの胸中を理解しているわけではない。交友関係は、リリーに似てあまり広い人ではなかった。リリーはそれでも他人との関わりをそつなくこなすけれど、アリスは人付き合いに不器用だった。知らない人と話すことになると、大抵はリリーに任せて黙りこくっている。別に、人が嫌いなわけじゃないんだろうけど、……なんといっても、不器用な人だった。


 どんなに強くたって、大人びた雰囲気のその下で、拗ねた子供みたいな印象を抱いている。アリスは、近衛兵になって一年。年数で言えば、彼女はリリーよりも一年後輩だった。他の近衛兵も同様だ。アリスより新しい人は限りなく少ない。


 年齢はリリーよりも二つ年上で、それで、近衛兵の隊長だった。


 つまり、リリーの優勝を阻止したのは、それまで近衛兵でもなかった彼女だ。けして調子も成績も悪くなかったリリーを、文字通り完封した。まさに彗星のように現れて、圧倒的な力の差を見せつけていった。生まれて初めて、屈辱というのを、リリーの胸の奥に植え付けた人だった。


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