天上の黒百合

小佐内 美星

第一部 翼と赤子

第一章

第1話 .Lily


 わたしたちは、青空の積乱雲の、その上に佇んでいる。蒼の上に白亜の霜雪を積み重ね、照り返る影さえまた蒼いその上に。際限なく続いていくと思われた天上の、その上に。



・・・・・



 リリー・エウルが目を覚ましたのは、まだ日の登りきらない午前5時半だった。自室の窓の向こうから差し込んできた朝一番の陽射しがリリーの表情を照らすと、リリーはそれで顔をしかめて、背中をベッドから引き剥がすみたいに起き上がる。純白の部屋の中で、叫ぶ夢を見ていた。その不快感と焦りが残っている気がして、胸の中がぼんやりと物を探すみたいに落ち着かない。


 寝癖で跳ねた髪の毛を抑えながら、リリーは外に目をやった。高台にある城の三階からは、城下町の赤い煉瓦の屋根が、陽光を呼んで躍るみたいに輝いていた。


「起きよう」


 リリーは独りで呟く。寝ているより、起きている方が好きな質だった。立ち上がると、窓枠に手を置いて、その外の色彩を見つめながら伸びをする。頭から眠気と、鈍化した思考が飛んでいった。


 初夏、晴れ。溶けた雪が海へ帰り、湿気を伴って帰ってくる季節。蝉もじわじわ鳴き始め、日中の日照りは肌を灼く。汗に不快感を覚えて、ほとんど下着のまま、リリーは洗面所に顔を洗いに行った。


 ――近衛兵。それがリリーの仕事だった。14歳で形式的な試験に受かってから2年、リリーはこの城の守衛として働いている。


 薄暗い洗面所の鏡に映る自分の表情は、寝室から仄かに差し込んでくる日射しでほんのりと照らされている。光る銀色の髪の毛は、リリーの動きに合わせて微かに揺れていた。伸びてきた前髪を指で摘む。また、メイドに頼むか街に降りるかして切ってもらわなきゃいけない。前髪の他を、胸の上まで伸ばすか、また肩口に触らないように切ってもらうかが、当面の、リリーの女子らしい悩みのひとつだった。ひと房だけ生えている黒い前髪を隠すなら、どちらの方が目立たないだろうと考える。


 顔を拭いて、髪をある程度まで直すと、リリーは扉横に掛けられている鍵を二本取って、肌着のまま廊下へ出た。この時間は、そうそう人に出くわすものでもない。自室の鍵を閉めると、小さく口の中で歌いながら歩き出した。


 大理石で縁取られた廊下の空間は心地いいほどに白んでいる。窓から差し込む光芒に輝かされて、床に引かれた長い赤い絨毯の生地が、リリーの素足を吸い込んで温度を伝える。本当は土足で歩かなければならないことも忘れてしまうくらいだった。開かれた窓から時折吹き付ける風が銀髪を靡かせる。それに運ばれてきた新緑のにおいが鼻を掠めて、リリーは早く外に出たい衝動に駆られた。


 窓から眼下を覗き込むと、三階分高さの離れた芝生の地面が見える。結構な高さではあるけれど、リリーは一人で出掛ける時、よくここから飛び降りて城下に行く。裏庭は、商店街への近道なのだ。

 けど、今はその必要もない。まずは役割を果たす必要があった。


 マクナイル城近衛兵、そしてその副隊長。リリーは16歳でありながら、そういう立場だった。隊長や、近衛兵を置く女王の信頼を得ていることも理由の一つではあるけれど、毎朝近衛兵用の更衣室の鍵を開けることが、リリーの朝一の仕事内容だ。


 鍵を開け、重めの扉を引く。いつものように埃っぽさが出迎えるかと思えば、案外そうでもなかった。湿度が高くなってきて、多少はましになったのだろう。


 リリーは誰よりも早くここに来る。それは、実際に来なければならない時間よりも30分ほど早かった。近衛兵の隊服は、白を基調としたワンピース型のもの。ベルトでウエストを締めると、上半身は引き締まったように思えるのに、スカートは依然ひらひらと泳ぐ。どれだけ下げても膝上になる裾を極力下に引っ張ると、ボタンを下から締めていき、鏡で胸元の勲章の位置を直す。本来、近衛兵は国家から勲章を与えられるような職業ではないが、隊長以外ではリリーだけが特別だった。


 ベルト横に短剣とナイフを差し込み、改めて髪を直す。袖のボタンを閉じ、ブーツを履けば、準備は万端だった。


 自分のロッカーを閉め、更衣室の外に出る。鍵は開けっ放しだ。このあと、自分以外の近衛兵たちが起きてきて着替えをするし、交代する夜勤の近衛兵もここを使う。リリーは鍵を開けるだけ。閉じるのは夜勤が夜に着替え終わったあとで、更衣室は夜の間だけ締め切られている。


 城の東側にあたる寮の棟を抜け、中央棟に入る。横に何人並んでも使えるような広い階段を何度か方向を変えながら降りると、城の大広間がリリーを出迎える。いつ見ても趣味のいい城だった。ただでさえ質のいい大理石の質に更にこだわり、純白が一面を覆っている。重労働に違いないのに周期的に張り替えられる柔らかい生地の赤い絨毯も艶やかに光っていた。優美な彫刻の施された柱、所々にあしらわれる金箔の装飾。今でも真新しく見えるが、城が建てられたのは数百年前だった。


 決して閉じられることのない大きな鉄門を抜けると、そこはマクナイル城の中庭にあたる。門の前には、夜勤の近衛兵が立っていた。眠そうにしていたが、リリーを見て佇まいを直す。なにも畏怖されているわけではなく、「もうリリーちゃんが起きてくる時間かあ」と言って勤務時間の残り少なさにやる気を取り戻しただけだ。


 腰まで伸びた長い銀髪を揺らし、彼女はリリーに話しかけてくる。


「おはよう、リリーちゃん」

「おはようございます、チェリさん」

「どう?」


 藪から棒な問いかけだったが、リリーは意図を掴んでいた。


「万全です。なんだかすっきり目覚めました」


 言いながら、リリーは腕を上げ力こぶを作る素振りをしてみせる。チェリはその腕を制服の上から触って「ふにゃふにゃ」と笑いながら言った。


 リリーも照れくさくなって笑う。チェリがふと遠くの方を見つめたので、リリーもそうした。その先に、城下の時計台が見える。城は何百段もの階段の上の高い位置にあるのに、その時計台の高さは、遠目にはここと変わらないように見える。その最上部に置かれた鐘が、その瞬間に鳴り響いた。


 まだ微睡みの中にいるマクナイル王国を、荘厳な鐘の響きが包む。鳩が空を飛ぶのが遠くで見えた。その奥にある真っ青な海も。


 六回目が鳴り止むまで、リリーたちは一言も発しなかった。


 鐘は午前六時を知らせるものだったけれど、毎日毎日鳴り響くわけではない。なにか特別な行事がある日に鳴る。


 今日は、リリーにとって、一年の中でも特に大事な日だった。

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