第6話 ちょっと一杯

「ああ。四月だというのに季節外れの暑さでしたねえ」

 車を返し終わって、事務所から出るときに後藤さんが言う。シャツの胸元を引っ張ってパタパタとしていた。大林君に背を向け俺だけに見える絶妙な位置取りだ。

「ちょっと喉が渇きました」


 すかさず大林君が反応する。

「それじゃ、一杯飲んでいこうよ」

「だったら、係長も一緒にどうです?」

 二人きりは困るけど三人なら、という後藤さんの副音声が響いた。


「それじゃあどこかお店を予約するよ」

 有無を言わさず大林君がスマートフォンを取り出し検索を始める。後藤さんが三つほど離れた駅にあるお店の名を出した。

「じゃあ、そこにしよう」


 この間、俺が口を挟む間がない。普段の時とはうって変わって仕事の早い大林君とそれにすかさず乗った後藤さんの連係プレーの前になす術がなかった。帰ると言いたいところだが、俺自身も先輩や上司に仕事帰りにタダで飲ませてもらってきた経験があるので、強く断るのも難しい。


『下村ぁ。おめえが年取ったら後輩や部下に今日の分おごってやりゃいいんだよ。つまんねえこと言うな』

 世話になってきた先輩方のセリフが蘇った。去年も中島主任や大林君を出張帰りに飲みにつれて行っている。お子さんができたばかりの中島主任は、奥さんと子供が実家に帰っているタイミングに限られたとはいえ。


 こうなると今日だけ断るというのも難しい。部下の取扱いに差を設けることは厳に慎むべきことだった。

「明日も仕事だ。長居はしないぞ」

「分かってますって」

 浮き浮きと大林君は電話をかけ、無事に席が確保できたらしい。


 押されるように電車を降りて少し歩けばもう店の前。

「らっしゃー」

 元気のいい掛け声と共にテーブルに案内された。勧められるままに俺が先に座ると向かいの席に二人が位置を占める。

「係長はビールでいいんですよね? 後藤さんはどうします?」


 大林君はラミネート加工されたメニューを差し出していた。

「どうしようかな? 先輩は何にします?」

「僕はハチミツレモンサワーかな」

「じゃあ、同じものにします」


 店は混んでいたが飲み物は早くでてくる。

「お疲れ様」

 容器を掲げて、泡と弾ける液体を喉に流し込んだ。てくてくと歩き回って日差しに照りつけられた後のビールはやっぱり美味かった。


 自分たちも飲み物で喉を潤してから、二人は額を寄せ合って食べ物を選んでいる。

「フライドポテトをたのむ」

「係長はいっつもそれっすね」

 あーでもない、こうでもないと品定めをしている大林君は楽しそうだ。


 まあ、気持ちは分かる。最近は公務員も楽な仕事ではない。仕事を始めて一年もすれば、どうしても顔つきが社会人のそれになってしまうものだ。その点、後藤さんは今日は私服ということもあって、女子大生という雰囲気だ。実際、ほんの数週間前までは女子大生だったわけだしな。男の悲しい性というか、華やかな空気に心が湧きたつのは仕方ない。


 注文が終わり、大林君はさっそく後藤さんにアプローチを始めた。

「後藤さんって、意外と体力あるよね。今日も結構歩いたのに平気だったし。学生時代に何か運動やっていたの?」

「特にやってないですよ。でも、城巡りで良く歩いていたからそのせいかもですね」


 確かに後藤さんは足元は結構ごついトレッキングシューズを履いている。

「へえ。渋い趣味だね。どういうところ行くの?」

 城の話がひと段落したところで、フライドポテトが来た。店員が取り皿を後藤さんの近くに置いていく。


「はい、どうぞ」

 後藤さんは俺と大林君に取り皿を手渡した。フライドポテトを三分の一ほど自分の取り皿に移動させて口に放り込む。少し汗もかいたのだろう。少々塩気がきついがこれはこれでビールに良く合った。


 そのタイミングで水をもらって飲んでいた後藤さんが大林君に言い訳する。

「あまりお酒強く無いんですよ。先輩は次も同じものでいいですか? あ、係長もビール頼みます?」

 追加注文をして話を戻した。


「それで、先輩は大学時代何かやってたんですか?」

「僕は陸上やってた」

「凄い。陸上って種目は何をやってんです?」

 後藤さんに持ち上げられて、大林君は自分語りを始める。


 一通り語って満足した頃を見計らって、後藤さんが俺に視線を向けた。

「係長は何を? あ、当ててみましょうか。そうだなあ。何か武道やってたんじゃないですか?」

 白々しい発言が俺に刺さる。

「後藤さん分かるんだ」


「旅行サークルの先輩に掛け持ちしている人がいて、なんとなく身のこなしが同じような気がしたんですよねえ」

「へえ。係長って確か黒帯でしたよね?」

「もう、昔の話だ。よし、これ飲んだら帰るぞ」


 店員を呼んで会計をしめてもらった。昼も出してもらったのに、と後藤さんは言ったが、俺は代金の受け取りを固辞する。大林君はご馳走様ですとすぐに財布をしまっていた。

「まあ、後藤さん。いいじゃない。係長の顔を立てておきなよ。それよりも、もう一軒どう?」


「明日も仕事だし、二日酔いになっても困るので帰ります」

 はっきりと言われてしまえば大林君も諦めざるをえないようだ。駅までの短い距離を歩く。路線と方面は三人ともバラバラだった。

「今日はご馳走様でした」

 その声に送られて改札を通る。


 電車に乗って吊革につかまるとどっと疲れが出てきた。大林君が後藤さんにアプローチしようとしているのは間違いない。後藤さんはそれを上手にあしらっていたように見える。そして、俺が自意識過剰なので無ければ、後藤さんは俺に対して意味ありげな行動をいくつかしていた。


 飲み屋の席ではそんなそぶりは見せなかったが、日中はさりげなくアピールしていたような気がする。その光景がちらつくような気がして目の前を手で払った。どういうつもりなのだろう? 家に帰って風呂から出るととりあえず寝るかという気分になる。しかし、スマートフォンが鳴動し、後藤さんの番号が表示された。


 仕方なく電話に出ると、遅くにすいませんと言いながら、後藤さんは爆弾を電話回線越しに放り込んでくる。

「今日は大林先輩が居たので流しましたけど、お寿司の件忘れてないですからね。このままじゃ埒が明かないので、お店は私が決めちゃいます。日時は金曜日の十九時半からでどうですか?」


「いや、別に忘れているわけじゃ無いんだが、そこまでこだわることなのか?」

「ええ。そうです。係長、約束は約束ですよ。あ、そうそう。逃げ続けるつもりなら、今日えっちな目で私のこと見ていたって言いふらしますからね。……沈黙は了承とみなします。それじゃあ、金曜日楽しみにしてます。お休みなさい」

 言うだけ言って電話が切れ、俺の酒の酔いと眠気が一気に消し飛んでしまった。

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