第7話 高い寿司

 金曜日がやってくる。定時になると後藤さんは、お疲れさまでしたと帰っていった。ただ、にこやかに挨拶する目がきらりと光る。俺も指定の時間の三十分前になると職場を出た。四月当初に比べれば多少は仕事が落ち着いてきた時期なので、それほど目立つわけではない。


 十九時半の三分前に指定の場所に着く。暖簾には年季が入っている。昔ながらの町中にあるお寿司屋さんという風情だが、小ぎれいな佇まいで、何より不安なのは表にお品書きが無いところ。ネットで検索しようとスマートフォンを取り出したところで横から声をかけられる。


「お待たせしました」

 振り向いて驚きの声をあげそうになった。花柄のワンピースにスプリングコートを羽織り、アクセサリーもばっちりの後藤さんが笑っている。日中の個性の無いリクルートスーツから着替えただけで雰囲気が全然違って見えた。


「こんばんは~」

 ためらうことなく引き戸を開けて後藤さんが店の中に入るので、慌てて中に続いた。出迎えの渋い声を受ける。カウンターが十席ほどとテーブルが二脚あるだけのあまり大きくない店構えだった。


 カウンター席に案内される。

「係長、日本酒もいけるんですよね? 今日は気温低いからビールじゃなくていいですか?」

 そんなリサーチをいつやったんだ?

「ああ……」


 後藤さんは燗酒を頼んだ。すぐに二合とっくりとお猪口が運ばれてくる。二つの猪口に注ぐと一つを勧めてきた。

「あまりお酒は強くないんじゃないのか?」

「時と場合によりけりですね。それじゃあ、やっと約束を果たしてくれたことを祝して乾杯」


 後藤さんはお猪口をくいと傾けると一気に飲み干す。俺も口をつけるとほんのりと暖かい酒が喉を滑り落ちていった。変なアルコール臭がせず、まるで水のように飲みやすい。先付なのかアサリの酒蒸しが出てきた。俺がそれを凝視していると後藤さんが事も無げに言った。

「あ、お任せで頼んであります。美味しいですよ。春の味って感じ」


 横を向けばニコリと笑う。俺は顔を寄せて小さな声で聞いた。

「こういう下世話な話はしたくないんだが、お任せって一人いくらだ?」

 後藤さんは唇をすぼめる。焦らしてから片手を挙げて指を二本立てた。念のため、万札を数枚入れてきたが足りるかな?


 俺はやけになって酒蒸しのアサリを口に運ぶ。噛みしめるとふんわりとアサリの旨味が染みだしてきて確かに良い味だった。しかし、さすがに高くねえかという目をすると後藤さんはふふっと笑う。俺の月給額をささやいた。

「これだけ貰ってれば払えなくはないでしょう?」


 くそっ。公務員の給料は年齢と職位が分かればある程度は計算できてしまう。俺と自分のお猪口に注ぎ足すと、後藤さんはまたすっと飲んだ。

「下村さんの年で県庁の係長ってのは結構エリートですよね。奥さんと子供もいないし、これぐらい平気でしょ?」


 係長呼びは辞めなのか。それよりも気になることがある。

「俺が未婚で子供が居ないとどうしてわかる?」

「届出がないって、庶務の人に聞きました」

「簡単に個人情報漏らすなよ……」


 後藤さんは手酌で注ぎ足していて俺のぼやきを聞いていなかったようだ。俺も猪口を空ける。後藤さんは独り言をいうかのように言葉を続けた。

「本当はもっとリーズナブルなお店でも良かったんですけどね。一年経ったんで遅延利息込みです」

 確かに俺が逃げたような部分もある。俺は黙って猪口を持ち上げた。


 後藤さんが注いでくれる。

「何も文句は言わないんですね。恩知らずって言われるかと思いましたけど」

「まあ、約束は約束だ」

「それでは改めて乾杯」

 後藤さんはにっこりと笑う。


 酔いが回る前に気になる点を二つ聞いておかなくては。

「ところで二つほど質問をしてもいいかな?」

「えーと、彼氏はいないですよ。スリーサイズは秘密です」

 ひ・み・つとしっかり音節を区切っていた。


「聞きたいのは別のことなんだが」

「結構大事なことを話したつもりなのにスルーですか? まあ、いいです。なんでしょうか?」

「あの刃物振り回していたのはどうなった?」


「それなんですけど、おクスリをやっていたようで釈放されたようです。心神喪失とかで罪には問えないらしいんですよね。ということで、あの時は本当にありがとうございました」

 後藤さんは深々と頭を下げる。


 話がここまで噛み合うってことはやはり本人なのか。

「あ、いや。顔を上げてくれ。ほら、お店の人も怪訝そうにしてるし」

 顔を上げた後藤さんは俺の顔をじっと見ると笑みを漏らす。

「あの時助けた相手かどうか自信が無いんですね?」


「確かに見た目はかなりイメージが違うが、耳の形は似ている気はするので間違いないとは思う」

「推理小説に出てくる人物のようなことを言いますね。あの時は不眠不休で勉強していたときでかなりひどい外見でしたから分からないかと思いましたけど」


 後藤さんはバッグから何かを取り出した。

「これ、あの時のボールペンです。お返ししますね。ネクタイはぐちゃぐちゃになって血も染みこんじゃったんで代わりのものを買いますから」

 俺は差し出されたボールペンを受け取る。確かにあの時持っていたものだ。


「別にネクタイまで買ってもらわなくても……」

「そうはいきません。まあ、その話は今度別の機会にしましょう。もう一つの質問というのはなんでしょうか?」

「どうして俺だと分かった?」


「そりゃあ恩人の顔ですもの。すぐ分かりましたよ。事件後に警察の方を通じてご連絡して、お礼をしたいと伝えてもらって断られてしまいましたけどね」

「仕事が立て込んだんだ。それに、なんか功を誇るのも変な気がしてね。別にお寿司を奢りたくなくなったというわけじゃないぞ」


「とっさに口に出したもののイケてない女だからすっぽかしたのかと思いました」

 俺が憮然とした顔をすると、後藤さんは首をすくめて謝る。

「すいません。下村さんはそんな人じゃないですね。見ず知らずの私を助けに入ってくださったんですもの」


「まあ、正直に言えば、年の離れた女性と食事に行っても話題が合わなくていたたまれないだろうなとは思っていた」

「普通に話せているじゃないですか。そうだ。ついでなんで私からも聞いちゃいますね。なんでお寿司を奢るって言ったんですか?」


「何かの本で死にかけている相手の意識をはっきりさせるには、旨い食べ物の話をするっていうのを読んだのを思い出したんだ。確か元の話は雪山での遭難か何かだったのが違うけどな。あの時、後藤さんはショック状態だっただろ。俺もとっさのことで余裕がなかった」


「なるほど。確かにお寿司食べたいって元気が出ましたね。あ、このシラウオの天ぷら美味しいですよ」

 寿司だけでなく、揚げ物も出るのか。淡白なシラウオをカラッと揚げてある。微笑みかけてくる後藤さんはやはりあの時とは別人かのように魅力的だった。

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