第4話 あつれき

 俺は自席に戻って事業概要が書かれた冊子を手にして課長席に戻る。こういう相手の説得には俺の言葉よりも書類を見せた方が早い。当該ページを開いて示しながら、開発課は実際に土地の売り払いとその前段階の準備を行うだけで、売り上げ目標を立てるのは隣の計画課だということを示した。


「そうじゃなくて、こんな低い目標を公僕として何も思わないのか、君は?」

 でたよ。公僕。住民に口にされるのでもいい気分はしないのに内部の人間がそれを言うか? しかも、発言内容は志が高いように聞こえるが、要はこのままだと手柄が立てられないじゃないかと言っているに過ぎない。今はまだ四月半ば。常識人の仮面をかなぐり捨てるには早いんだが。


「特に何も思いませんね」

「なんだと?」

「さっきも説明したようにその計画値を定めたのは私じゃないです。越権行為はしたくないですしね。疑義があるなら、権限のある計画課長に言うのが筋ってもんでしょう?」


 岡本課長が目を見開く。

「いや、だから我々税金で働く公務員としてそのような意識でいいのか、ということを……」

「俺の意識はこの際どうでもいいでしょう。部長まで上げて組織として決まったことです」


「私が着任する前に決まっていたんだ。もし、私がいれば、こんな数字で決めさせていない。だから、これを大幅に上回るように努力すべきじゃないか」

「無理ですね」

「やってもみないで、君にはやる気がないのか?」


「そうじゃないんですよ」

 俺は声を低く回答する。

「この仕事、それなりに長くやってんです。少なくとも課長よりは長くね。その経験上、この計画値は妥当だと判断している。これ以上の実績出せると思うなら具体案を示してください。じゃあ、話は終わりってことでいいですね」


 酸欠になった金魚のように口をポカンと開けたままの岡本課長を席に残して自席に引き上げた。隣の席の大林君は動揺を隠しきれていない。なんだよ、そんなにビクつくことはねえじゃねえか。机も叩かなきゃ、怒鳴り声も上げてないだろう? 他の職員みたいに慣れないと、これからもっとエスカレートしそうな課長なんだからさ。


 パソコンに向かおうとしたところで、人が横に立つ気配がする。

「あの。係長。忙しいところ……」

 振り仰げば後藤さんが手に紙を持って立っていた。

「別に忙しくねえし、俺に声をかけるときに前置きは不要だ。何か質問か?」

「はい。公募要項の作成をしておくように言われたのですが、よく分からなくて」

 

 俺は立ち上がると後藤さんに自席に戻るように身振りをする。

「それなら、実際にファイルを開きながら説明した方が早い。ちょっと待っててくれ」

 少し離れた共用スペースから少し脚が曲がった丸椅子を取って来て後藤さんの横に座った。


「まだ日にちはあるから別に急がなくても大丈夫だぞ」

「早めにやっておけば、後で困らないと思って」

 いいねえ。この前向きな姿勢。夏休みの宿題を貯めておくタイプじゃねえな。まあ、後藤さんの進捗管理をする俺が楽になるので助かるというもんだ。


「このファイルのここ、変な文字が入っていてどうしたらいいのか分からないんです」

「中島さんから聞いてない? この場所はこのファイルじゃなくて、こっちの別ファイルから読み込んでる。この管理簿開いてみて」

 開いたファイルとの関係を具体的に説明した。


 同じ内容をコピペすると転記ミスも起こりえるし、コピペし忘れることもありえる。なので、表計算ソフトで作った一覧表から必要事項を差し込んで文章が作成できるようにしてあった。

「だから、ワープロソフトの方は触らなくてもいい」


「なるほど。これは便利ですね」

 後藤さんは声を潜める。

「課長となんか険悪な雰囲気でしたけど大丈夫ですか?」

「すまんな。職場の雰囲気が悪くなっただろう」


「いえ、余計なことを言ってすいません」

「まあ、何でも聞いてくれ。遠慮はいらん。分からないために時間を無駄にするよりはよっぽどいい」

「分かりました」


 横から大林君が割り込んできた。

「コピー機のこととか、簡単なことなら僕にも聞いてよ。一応一年間は先に働いているからさ」

 後輩ができて張り切っているのか、それとも下心があるのか。目を光らせておく必要はあるが、大林君ならセクハラ紛いのことはしないだろう。


「ちょうどいい。明後日の現場視察の行程と諸注意をしてあげてくれ」

「はい。それじゃあ、後藤さんこれ見てくれる」

 大林君が後藤さんと俺にあらかじめ準備しておいた紙を手渡してきた。

「うちの課で管理している土地の図面だよ。今年動きがありそうなところをピックアップして、この時期に見に行くんだ。現場を知っているのは大事だからね」


 大林君は地図に書きこんである赤線をなぞる。

「結構距離を歩くことになるから履きなれてる靴で。それからスーツじゃなくていいから」

「仕事なのにいいんですか?」


「お客さんに会うわけじゃないから。それに段差もあるし、汚れるし。去年僕も係長にきつく言われてジーパンで行ったけど、本当にそうして良かったよ。スーツだったら後で泣いてた」

「係長も私服なんですか?」


「……ああ。だから、変な気を遣わなくていいからな。靴もできるだけ厚底の方がいい。以前のことだが、釘を踏み抜いて病院で破傷風の注射を打つ羽目になったのもいるそうだ」

「破傷風……ですか?」


「建材のガラを不法投棄したやつがいたようでな。コンクリートブロックからはみ出していた錆びついた釘の上に気づかずに乗っちまったらしい。まあ、気を付けてれば大丈夫だ」

 フォローしたが表情は冴えない。まあ、小ぎれいな庁舎で働くつもりが、現場仕事、しかも怪我するかもと言われれば驚くだろう。


 大林君は言葉を続ける。

「天気予報だと良く晴れるみたいだから、日焼け止めと帽子も忘れないほうがいいよ。日差しを遮るものが何も無いんだ。僕は去年家に帰ったら、服から出ていた部分が真っ赤になってた。それと飲み水も途中で買っていかないとコンビニなんて無いからね」


 後藤さんが力なく頷いたので、出張の申請の仕方を大林君から聞いて入力しておくようにと指示をして自席に戻った。さてと、課長にも声をかけてもいいのだが、あいにくとその日は管理職を集めての会議がある。それにもう少しすれば計画課主催の視察が別途あるので、今回声をかけるまでもあるまい。


 昨年度まで居た課長も現場にはあまり出なかったから不自然じゃないだろう。どうしてもついてきたければ、俺たちの出張の申請を見て声をかけてくるかもしれないが、まず無いな。あれはそういう汗のかき方をするタイプじゃない。机の上で文章をこねくり回すことを仕事と思っている人種だろう。現場で課長のお守りまでしたくないので俺にとっても好都合だった。

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