第3話 引継ぎ

 は? 声が漏れそうになるのを喉の奥に押し込んだ。時間稼ぎをするために、後藤さんの手にした書類を受け取る。氏名、職員番号、電話番号にメールアドレスが書いてあった。なるほど。緊急連絡網を作成するための情報か。

「確かに預かった。後で係の分をまとめて庶務に出しておく」


 機械的に応答しながら、頭の中で記憶している昨年の事件のときの容貌と目の前の後藤さんの目鼻立ちを照合した。とても同一人物とは思えない。目の前にいるのは、かなり可愛らしい女性だ。あのダサいカーディガンを着ていた人物の面影はほぼない。いや、耳の形は似ているか。そして、あのセリフ。やはり本人なのか?


「あのう」

 後藤さんのためらいがちな声がする。

「何だ?」

「念のため係長の連絡先をお聞きしてもいいですか? 明日から研修なので、緊急連絡網貰えるの来週になりますよね?」


 後藤さんの目元がキラリと光った。ああクソ。警察官経由でお礼がしたいので連絡先を教えて欲しいというのを固辞してきたが、こうなったら遅かれ早かれ俺の情報はバレる。諦めが肝心だ。俺は付箋紙を取り出すと電話番号とメールアドレスを走り書きする。


「ありがとうございます」

 大事そうに付箋紙を受け取ると後藤さんはスマートフォンを取り出し入力を始める。俺のスマートフォンが鳴動し、先ほど見た電話番号とアドレスから着信があった。その様子を確認し、後藤さんは付箋紙を折りたたみリクルートスーツのポケットに大事そうにしまう。

 

 自席に戻った後藤さんが大林くんからの説明を聞いているうちに終業時間になった。

「後藤さん。お疲れ様。今日は初日だし明日からは研修なので帰りなさい。実務に携わって貰うのは研修が終わってからになる。それに悪いが引継ぎをする前任者は今日来れないんだ」


「係長からお聞きすることはできませんか?」

「出来なくはないが、前任者から先に聞くのが筋だろう」

 そこへ爽やかな笑みを浮かべた初々しい男性が寄ってくる。

「後藤さん。部内の新人で飲みに行こうって話になっているんだけどどうかな?」


「まだ係長とお話中なので……」

 言いかける後藤さんの発言に被せる。

「ああ。部内の同期で親睦を深めるのも今後仕事をするうえで役に立つだろう。明日からの研修に障りが無い程度に行ってこい」


「係長がそう言うのであれば……」

 あまり気乗りし無さそうな様子で後藤さんは承諾した旨を伝える。帰り支度をすると丁寧に頭を下げた。

「これからよろしくお願いします。それではお先に失礼します」


 適当に返事をしてパソコンに向き直った。少々冷たくあしらった気もしなくもないが、これ以上面倒をみる余力がない。猛然とキーボードに指を走らせ、山のような書類の作成を始める。中島主任が異動しなければ、俺はチェックするだけで済んだ。だが、ない物ねだりをしても仕方ない。


 久しぶりに直接、文書の作成や会計システムへの登録を行ったので、すべてが終わったのは終電近くだった。電車に乗り空いている座席に座る。普段は立っているが、今日は疲れが酷かった。それに他にも空き席はある。自宅に帰ってシャワーを浴びるとベッドに倒れこんだ。


 まさか、あの時助けた女性が同じ係で働くことになるとは何という神様の悪戯だろう。その後仕事が立て込んだのと、警察などへの呼び出しで面倒くさくなったために、半ば八つ当たり的に連絡を拒絶したのだが、こんなことになるのなら……。しかし、あの感じだと気を悪くしたような様子ではなかった。


 まあ、上司と部下として一線を画して接するとしても、約束は約束として、一度寿司は奢ってやらねばなるまい。幸いにしてそれぐらいの小金はある。そう。変に意識しなければいいのだ。男として口に出したことは有言実行する。それだけのこと。助けた時点より魅力的な外見になっているというのは些細なことだ。


 忙しく年度当初の仕事を片付けているうちに一週間が経過して、また後藤さんが職場に出勤してきた。元気な挨拶の声がする。

「お早うございます」

 あれからスマートフォンへの連絡は無かった。少し構えながら返事をする。

「お早う」


 しばらくすると中島主任がやってきた。スチール製の丸椅子を持ってくると後藤さんの横で説明を始めた。途中で席を立ちキャビネットを案内したり、共用テーブルに置いてある街区図の説明をしている。二時間ほど説明をすると中島主任が俺のところにやってきた。


「係長。一通り説明はしました」

「そうか。忙しいのに悪かったな」

 自分の新職場の仕事があるので、普通は引継ぎは前年度中に行うのが通例になっている。だが、新人はその時に居ないのだから仕方ない。

 

「後藤さんは覚えがいいですね。まあ、勉強することが多いし、ちょっと専門的なので戸惑っているようですけど、係長の下なら大丈夫でしょう」

「良く言うよ」

「俺も残りたかったんですけどね。やっぱり通勤時間がかかりすぎて」


「そうか。保育園の送り迎えがあるんじゃ仕方ないな。どうだ。そっちの仕事は?」

「内容的には楽そうです。残業もあまりしなくて済みそうかな」

「良かったじゃないか」

「ええ。でも、係長がクセが強くて」


「俺よりはマシだろ?」

「そうでもないです。係長は下に付く分には大変じゃないんで。今後なんかで関わる時はお手柔らかにお願いしますよ」

 半分冗談、半分本気な感じで中島主任は頼んできた。


 そこで岡本課長に呼ばれたので手を振って別れを告げる。

「なんでしょうか?」

 課長席の横の椅子に座って持参しメモ取り用のノートを広げた。ぶっちゃけ、呼びつけられてする程度の話なら、記憶できるので本当はノートは必要ない。


 ただ、若い頃にそれを理由にやる気と常識がないという烙印を押されていたことを知ってからは自衛のためにメモを取るフリをするようになった。小細工を弄する自分が嫌にはなるが、これも給料のうちと諦めている。内ポケットからボールペンを取り出して拝聴する姿勢を取った。


「下村くん。今期の販売目標だけど、低すぎないかな」

 この時期にそれをいうのかよ。お前、役人何年やってんだ? もう前年度に決まってる内容が覆るわけねえだろが。俺が黙っているのを同意と思ったのか言葉を続ける。

「去年は十億売れたんだよね。それなのに今年の目標は……」


「過去実績と収支計画から目標を立てるのは計画課です。うちの仕事じゃありません」

 とりあえず、事務分掌を盾にして説明を試みた。

「そんなことは分かってる」

 岡本の課長の声の調子にうんざりする。こいつ、そこも分かってなかったな。


 

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