第2話 ふぁいっ!
「今日の話はそれだけ?」
退屈そうにジト目をくれる彼女とは大学で出会って、付き合い始めて10年になる。お互いに歳を重ねてもう三十路に突入した。俺たちはよく言えば、あうんの呼吸のような関係。悪く言えばマンネリ。本当は彼女も俺からのプロポーズを待っている。だが俺はそこから逃げていた。三流会社の俺の稼ぎで本当に彼女を幸せにできるのか。そんなもっともらしい理屈を付けて、彼女の人生を背負うという覚悟から逃げている、ただのヘタレだった。
「もう帰るね」
「えっ! もう帰っちゃうの?」
「なんかあるの?」
「今さっき落ち合ったばかりなのに、早くない? 30分もいないよ」
「私、忙しいの。それに……。私たちの関係って何?」
思わぬ、いや予想通りの詰問に喉が詰まる。
「この際だから、はっきり言っちゃうけど、あなたが何も考えてないなら、こっちだってもういいからね」
彼女が冷たい態度に出るのも無理はなかった。つい先週、彼女の誕生日を祝ったのだが、結論からいえば祝っただけで終わった。雰囲気の良いフレンチを御馳走したが、翌日のメッセージは既読無視された。
「別に私だって全然もてないわけじゃないからね」がたんと立ち上がる。
「ちょ、待って」と、咄嗟にその腕を掴んでしまった。「誤解なんだよ」
猫のように黒目を小さくさせて威嚇してくる。「何がよ」
俺だって何も考えていないわけじゃない。実は、誕生日に合わせてプロポーズをする予定だった。だが、困ったことに感情が昂るとラップでディスってしまうのだ。二万円のコースを出す高級店で、彼女の笑顔を韻で踏みつけるわけにはいかなかった。プロポーズをしたいが、できないだけなんだ。
「私はずっと今の関係がいいって思ってないから。こんなことなら、初めから付き合うんじゃなかった」
下を向いて、ぽつりと言われた。
怒るでもない、冷めた一言が逆に胸に突き刺さった。憂いを帯びたその横顔。決して美人ではないが、愛嬌を感じさせる丸い鼻。
彼女と出会ったセピア色の光景が脳裏をよぎる。
「これ一緒に読まない?」彼女はにこりと俺に一冊の本を手渡した。
「万葉集?」
「そ、一応サークル活動ね」
彼女は『武蔵野サークル』の先輩だった。名前の通り何をやっているのかわからないただの飲みサークル。それでは体面が悪いので、もっともらしい活動を何にするかと悩んだ挙句に、中央線沿いに大学があるということもあり、武蔵野の歴史を学ぼうという活動に落ち着いたらしい。
「武蔵野ってね、結構、和歌が盛んだったのよ。昔は雑木林とか萱とかの原野が広がって風情があったみたいよ」
今は、風情ないけどねと彼女は悪戯っぽく笑う。「月の歌とか男女の恋の歌とか色々あるから一緒に詠もうか。恥ずかしがっちゃだめだよ。サークル活動だからね」
どうやら、俺は一目惚れをしてしまったらしい。はっきり言って、歌の内容なんかどうでもよかった。ぷるんとした唇の動きだけに目がいってしまい、気が付くと身を乗り出していた。
「先輩って、彼氏とかいるんですか?」
彼女はきょとんとして、すぐに噴き出す。「ねえ、知ってる?――」
再び、時は現在に戻り――彼女は俺の手を払う。
「私たち、暫く会わない方がいいよ」
鼓動が早くなる。
「お互いに時間をかけて考えた方がいいと思うし」
席を立ったまま、二人の時が止まっていく。
「はっきりしようよ」
武蔵野では多くの歌が詠まれた。貴族でも名も知れぬ民でも、一人の人間が、この地で誰かを思い浮かべて、溢れる想いを風に乗せた。萩やススキに彩られた原野の光景が、マンション、スーパー、商店街へと姿を変えても、普遍的な人の想いは時を超える。
聴こえる。大音量のビートと謎のおっさんの声が、頭の中を駆け巡る。
ready――
俺はお前が好きだ。だからこそ――
愛を込めて、ビートに乗って、ディスを詠む!
ふぁいっ!
武蔵野の地に――
ドゥクドゥク ドゥクドゥク――
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