やっぱりあなたを踏んじゃうのっ!(角川武蔵野文学賞最終選考)
小林勤務
第1話 ready――
秋の夜風が頬を撫でる。
夜十時過ぎ。野川の近くにある神社を通り抜けて帰宅する時のことだ。
見上げると境内の雑木林の間から、いつもより巨大な月が光り輝いていた。
月を見ると、彼女と出会った日を思い出す。どきどきしながら武蔵野の月を詠んだ和歌を、二人で声にだした。そんな想いに駆られて、暫し雲一つない夜空を眺めていると、一瞬だがきらりと小さく赤い光が瞬いた。
赤い光は長い尾を引き、夜空を横断するように大きな弧を描いていく。
隕石か。
そう思った次の瞬間。
赤い光は一気に膨張し、目も眩むような強い光となり視界いっぱいに広がった。
思わず両手で顔を覆うが、すぐその後に激しい爆発音がやってきた。
その光と轟音、振動は、
俺のもとにも、
彼女のもとにも、
時間場所人種問わず、あらゆる世界の人たちにもやってきた。
その夜を境に世界は一変した。
ready――ふぁいっ!
昼下がりの日曜日。馴染みの喫茶店で彼女と落ち合った。店内は賑わっているのだが、俺たちの空気はしんと静まり返っている。
「あの、おっさんって誰だろう。いきなり頭の中で声がするんだよ」
「ふーん」
「聞こえたことない?」
「ない」
「ドゥクドゥクドゥクって、謎のビートも?」
「全く聞こえない」
彼女はその話題はもう飽きたと言わんばかりにカフェラテを口に含んだ。
彼女が飽きるのも無理はない。ここ最近、話す内容はこんな話ばっかだ。だが、こんなやりとりをしているのは俺たちだけじゃないはずだ。隣のカップルも。いや、世界中のカップルだって、きっと何がなんだか分からず、男の側が頭を抱えているに違いない。
突如として地球に飛来した隕石の爆発は、はるか上空であったために被害こそなかったものの、世界中の人々にある影響を与えた。
最初の兆候は、朝のニュース番組に現れた。天気予報コーナーで、気象予報士のお兄さんが何を思ったのかいきなり、
「yo,今日の天気は晴れのち曇り、
お前の人生、雨のち下り」
としょーもないラップをかましてきたのだ。最初は俺もスタジオにいるキャスターもぽかんと呆気に取られていたが、男性キャスターが応戦するように、
「予報を外しても給与は支給、
予想通りのクソには天誅」
と韻を踏んでディスり返したのだ。
アナウンサーのコントほど寒いものはない。テレビを消して会社に出社するが、似たような光景が社内でも繰り広げられていた。
「数字もいかねーお荷物
きらりと光るぜ俺の
「責任転嫁はお前の
ごますり出世はうざいんですけど」
なんと、あちこちでよくわからないラップバトルが繰り広げられていた。彼らに話を訊くと、口々にこう訴えてきた。
頭の中で変なおっさんの声が聞こえて、「ready、ふぁいっ!」って心臓をノックされた後、耳鳴りのように謎のビートが流れて、気が付いたら……。
んなアホな。
と思っていたが、その考えはすぐに強制的に改められてしまった。
社内で滅多に会わない社長に遭遇して、興奮気味に襟を正すと、いきなり謎のおっさんの声と謎のビートが頭の中で鳴り響き、毒舌の限りを尽くしてラップをかましてしまったのだ。
当然、社長は怒り心頭で、
「さっさと失せろお前はくびだ!
強制的に流行りのFIRE!」
と、一本取られたアンサーを返された。
この現象は世界中のいたるところで起こっていた。どうやら、あの夜を境に、何かの拍子で感情が昂ってしまうと、自分の意志とは無関係に「韻」を踏んで罵ってしまうのだ。つまり、フリースタイルでディスってしまうのだ。しかも、それは男にだけ現れた。そのため必然的に発生したのは、離婚率の上昇だ。
なにせ、妻に愛を語らいかける時に、夫は愛の代わりにディスをお見舞いするのだ。当然、女性はこの奇病に冒されてもないから、韻を踏んでアンサーを返すことはない。突き付けられるのは離婚届の紙ぺら一枚というわけだ。
大多数の女性にディスは通じない。
治療薬もないし、この苦悩を分かちあえもしない。
嗚呼! マザーファッカー!!
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