◇11

◇11


 それには目があった。

 それには鼻があった。

 それには口があった。

 それには耳があった。

 それには髪があった。


 つまるところ、

 わたしたちの目の前に現れたのは————〝人間の顔〟だった。






 突然の轟音は、わたしたちのいる二階廊下の天井部分(あるいは三階廊下の床部分)が破壊され、巨大な質量が目の前に落下したために発生したものだった。

 粉塵を纏った衝撃が身体を撫でる。体勢を僅かに崩したが、すぐに立て直した。

「何だ⁉」七凪が叫ぶ。廃墟故に起こった自然的崩壊か、害あるものの強襲か。正体についてわたしも判断ができない。

 否。

 その二択について語るなら〝後者〟であるという結論が、まもなく導かれることになる。

 視界を覆っていた埃が晴れ、割れた窓から差し込む月明かりとライトの光が、落ちてきたものを照射し、その姿を浮かび上がらせ始めた。

「——ぁ」

 顔だ。

 人間の顔——知らない男の顔が、わたしを見つめていた。

 目・鼻・口・耳があり、短めの髪はワックスで撫でつけられ、艶やかに保たれている。見たところ中年男性のようだが、顔の輪郭はやせ型で、肌についても脂ぎっている感じもなく、むしろ実際よりも若々しく見える、というのが抱いた印象だった。

 そういう顔が、にこやかな笑みを浮かべながら、わたしを見つめていた。

 ——首から〝異形の肉体〟をぶら下げながら。

「ひっ————」

 戦いにおいて〝動揺〟や〝狼狽〟が、即敗北に繋がる大きな隙になることを、わたしは今までの戦いで嫌というほど理解しているつもりだ。

 ……理解しているつもり、だったのに。

 敵と相対した一瞬。

 わたしは〝怯えて〟しまった。

 反応が遅れてしまった。

 イルカと蝶が混じった化心、黒いコートを着た首無しの化心。

 不気味で、不愉快な見た目の化心と少なからず向き合ってきた。

 しかしこれは——今回のは、今まで見た中でも群を抜いて、化物じみていたのだ。

「…………っ」

 それの首から下には、本来ついているはずの〝胴体〟がついていなかった。

 ——正確に言うなら〝胴体〟にあたる部分は存在している。だが、その〝胴体の形〟が、わたしたちが想像するものとは——人間のそれとは、明らかにかけ離れていたのだ。

 顔に付属していたのは——〝大量の腕〟だった。

 肩から手の先、上腕・前腕・掌から伸びる五本の指。誰が見てもそれは——人間の腕と表現するしかないものだった。それが、男の首から伸び、樹状に連なり、繋がり、絡み合いながら、長く肥大化し、床に這っていた。それはムカデやゲジに、人間の顔が乗っているような、おぞましき歪さだった。

【——イ】

 笑みを浮かべたままの男の口元が、揺れ、その隙間から声のようなものが漏れた。

 発声する機能を持って————いや、違う。

 これは単なる鳴き声だ。

 たとえ意思が込められていたとしても、今は、気にするべきものじゃない。

 ——イルカ蝶の過ちは、もう繰り返さない!

 過去の事象を思い出したからか、硬直した足の自由が戻り始めた。

「!」

 ほぼ同じ時、それの身体を構成していた大量の腕の一部が、わたしに向かってきた。

 数にして5,6本、まるで触手だ、それがわたしを捉えようと素早く伸びてくる。

 隙を作ってしまったせいで、後方に下がっての回避はもはや困難だ。

 ……ならば、迎撃するしかない。

「くっ——!」

 わたしは全て叩き落そうと——


「〈遠く遠くへランペイジ〉!」


 懐から剣鉈を出した瞬間。

 右の耳元で叫ぶ声がした。

 そして、

 トン、と、身体に伝わる僅かな振動。

 視線を下に向けると、〝七凪勇兎〟の人差し指と中指が、裏拳の形で、わたしの胸を軽く小突いていた。

 そう。

 軽く小突いていただけ。

 ——なのに。


「わ————‼」

 わたしの身体が——〝吹き飛んだ〟。


 デコピンで弾かれた消しゴム、それともラケットでスマッシュされたボールか、とにかくわたしの身体はそういった類に匹敵する勢いで、対象から距離を離していった。

「なぁんですかああああこれえええ‼」

「——悪い! 着地は——がんばれ!」

 そして、遠くから聞こえる七凪の声。

 ……がんばれって言われても⁉

 身体は後ろ向きのまま、高速で廊下を飛行していた。手をこまねけば、突き当りに背中から激突し、重症は免れないだろうことは、容易に想像できる。

 だが、くの字に曲がった身体は動かすこともままならず、宙を舞った状態のために、両足を地面につけて着陸することもできなかった。

「だ……ったら!」

 コートをまさぐって、アンプルを取り出す。

 数は二本……三本にしよう。全ての先端を指で砕き、開いた口を進行方向へと向ける。

「〈受け止めろ〉!」

 わたしの言葉に呼応して、アンプルの中の血は勢いよく飛び出した。その速度はわたしの移動を上回り、一足先に廊下の隅まで移動する。そして、自らを網目状に変化させると、わたしを待ち伏せするようにその場に留まった。

 やがて、その網にわたしの身体が捕らえられ、どちゃん、と柔く固い衝撃を伴いながら、停止した。

 ……なんとか、なったみたいだ。

 と、安堵したのもつかの間。

「ぅぅぅぉぉぉおおお俺もそれで止めてくれえええええ‼」

「いやなんであなたも自力で着地できないんですかーーーっ⁉」

 何故か向こう側から、先ほどのわたしと同様に七凪が吹っ飛んできた。

 わたしとは違い、彼はこちらを見たまま飛行していた。すぐさま、自分の身体を支えていた血に命じ、七凪用の網を作成する。数秒も経たないうちに、彼もそれに突っ込んできた。

「——ぶはっ! 助かった、サンキュー!」網から飛び降りる七凪。こっちは危うく助からないところだったのだが。

 とはいえ、あのまま触手を全て斬ることができたかと問われれば、それはちょっと自信が無かったので、一旦距離を置けたのは良かった……ということにしておこう。

「んで、どうする? たぶんすぐに追ってくるぜ、アレは。俺たちの前に落ちてきたのも、たまたまって感じじゃなさそーだ」

「戦うしかないでしょう。下までおびき寄せるのが良いかと」

 剣鉈を七凪に見せつけて、戦闘の意思を示す。落ちてきた地点や、触手の動きからして、敵がわたしたちを障害として認識しているのは間違いなさそうだ。多少逃げたところで、ここまでやってくるのは時間の問題だろう。

 だが、排除しなければならないと思っているのは、こっちも同じ。

 そして戦うならば、狭い廊下よりも、広い一階か外まで誘導するのが良さそうだ。

「廊下の端に、非常階段があります」スマホのフロアマップを七凪に見せる。

「わかった、それで行こう。後は、どうやってヤツを——【オオオオオ……!】——考えてるヒマは無さそうだな……」

 少しずつ大きくなる咆哮と、少しずつ激しくなる廊下の振動。既に敵はここまで近づいている。

「走るぞ!」

 視界に腕の一部分を捉えたのが先か、それとも七凪の声が先か。

 わたしたちは、全速力で走り出した。

 距離にしてたったの数メートル、かつては緑色に光っていたのだろう『非常口』の看板が掲げられた扉を開く。

 幸いにも、そこの階段はほとんど形を保っており、一部崩壊している段はあるものの、飛ばして降りることのできるレベルだった。

 わたしたちが扉を開き、下り始めたのとほぼ同時。

【オ  オ‼】

 敵もまた、扉を破壊しながら、非常階段に足を(手を?)踏み入れてきた。やはり最初に見た印象の通り、奴は多足類の生物のように無数の腕を地に這わせながら進んでいるようだった。付け加えるなら、移動速度もかなり速い。

 とはいえ、ここまでは想定内。

 二階と一階の中間、踊り場で折り返すように周る。

 そして、


 わたしたちは——〝敵の目の前に、降りた〟。

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