◇2

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 思い出したのは〝最初〟の出来事。


『初めてにしては上手く〝こじ開けた〟かと思うのですけど、どうでしょう?』

 暗い路地裏の中、わたしに向かって〝女〟はそう言った。

 昼か夜かはわからなかった。だが彼女が着ている朱色の着物や、切り揃えられた髪、穏やかな笑みはギリギリ視認できたので、たぶん日は出ていたのだろうと思う。

 背中に当たった時、とても冷たいと思った壁の温度も、だんだんと馴染みつつあった。おそらくは、自分の体温で温まったから……ではなく、むしろその逆。……わたしの〝身体〟が死に近づいて、その冷たさと同化し始めていたからだ。

「…………」

 そう。

 わたしは〝死にかけて〟いた。

 上半身の中央部分。

 胸と腹の間を中心に、肩と太ももまで。

 そこに刻まれた真新しい〝傷〟を——目の前の女によってつけられた傷を、わたしはぼんやりと、見下ろしていた。

 一瞬だった。

 いきなり目の前に現れたこの女が、わたしを壁に押し付け、胸を開いてきたのだ。

 素手で、痛みを感じる暇もないほどの速度で。

 ぱっくりと肋骨をどかし、わたしの中身が露にされた。

 抗議も、抵抗もできなかった。

 取り返しのつかない状態に陥っていると理解した時にはもう遅く、両足は身体を支えることを放棄し、わたしは落書きだらけの壁に背中を這わせながら座り込んだ。

 先ほどまで彼女の方を向いていた視界がぐるりと半回転し、三脚に固定し損ねたカメラみたいにあらぬ方向を向く。そしてもはや、自分の意思ではどうにも首を上げられる状態ではなかったので、わたしの瞳にはそれ以降、薄汚れた床以外の何物も映らなかった。

『何かされそうな時のために、一応〈枷轡かひ〉も用意していましたけど……ええ、使わないに越したことはないわよね、言いすぎると肩がこってしまうから。……ああでも今使った〈纏瞬てんしゅん〉も、筋肉痛になってしまうし、一長一短かしら』

 ところで。

 人間は死の間際においても、五感の中で聴覚だけは比較的まともに機能する。という話を聞いたことがある。そういう理由なのかは知らないが、わたしは瀕死でありながら、この仕打ちをしでかした彼女の声だけを、はっきりと聞くことができていた。

『ええと、それで、ここからどうすればいいのでしょう。私、外科のお医者様ではないから、上手くできるかわからなくて……二つのものを物理的に〝入れ替える〟言霊は持ってないのよね。〈悋乞りんき〉は〝状態や性能〟にしか作用しないから』

 聞こえてはいる……が。

 何を言っているのか……意味がわからない。

 もっとわかる言葉で説明して欲しい。

 そう訴えたかったが、ようやく開いた口からは、僅かな空気が抜けていくだけであり、か細く、何の意味も持たない音が発せられるのみだった。

『でも……そうね、まずはやってみないと。駄目だった時は、別の子を探してくれば良いのですから』

 着物の女がしゃがみこみ、首を傾げて、わたしと目線を合わせてきた。

 綺麗な人、というのが第一印象だった。聴覚と違って視覚については、もうほとんどぼんやりとしつつあったのだけども、逆に言えばそんな状態のわたしでも思えてしまうくらい、間近に迫ったその顔は、人形みたいに整っていた。

『初めまして、名前を知らないあなた。私、織草鏡花おりくさきょうかって言います。でも、覚えなくても別にいいですからね』

 女が——織草鏡花がにこやかに挨拶する。「それより先に言うことがあるでしょう」とか「この状況で挨拶とか狂ってるんですか?」といった文句が思い浮かんだものの、先の通り満足に口が利けなかったので、歯痒い気持ちを抱えるしかなかった。

『色々考えたけど、やっぱり、器の中に入れるのが良いと思いました。乙女の肌を傷つけるのは、本意ではないですが』

 織草鏡花は何かを——握りこぶし程度の黒っぽい〝何か〟を右手に持っていた。ぼんやりとした視界では、それが何なのかはっきりとわからなかったが、あえて表すなら、肉の塊、に見えた。

『普通のヒトに移植しても、器としての意味は成さないでしょうから……ちょっと面倒な手間をとることになってしまって……本当にごめんなさいね。その代わり、なるべく痛くないようにしますから』

 織草鏡花の左手が伸びた。

 何も持っていない方の手。

 ゆっくりと、わたしの傷口に——傷口の中まで入り込んでくる。

 彼女の言葉通り、痛みは感じなかった。それでもどういうわけか、無駄に感覚だけが鋭敏にされているせいで、這いまわる指使いだけがわたしの中をズズッ……と犯していくのが伝わってくる。それがあまりにも不快で、無抵抗なわたしはただ〝早く終わってほしい〟と思うことでしか、気を紛らわせることができなかった。

 やがて。

 その手が〝辿り着いた〟。

 わたしの〝致命的な部位〟——わたしの心臓に。

 ……ぎゅっと、脳が強張る。

 今までで一番、命の行く先を握られている……という確信と緊張で、既に死に体の身体が——動かない身体がより締め付けられるような錯覚を覚えた。

『では、はじめますね』

 織草鏡花が、わたしの心臓を掴み、その指先に力を込めた——気がした。

 嫌だ。

 待って。

 手を離して。

 死にたくない。

 必死に願っても。声が出ない。

 繋ぎとめていた固い紐が千切れる音が——守っていた固い殻が砕ける音が——耳を塞ぐこともできない中、そういった命の塊が引き剝がされる音だけが響いてくる。

 もうほとんど、目は見えなくなっていた。

 それでも暗く閉じようとした視界の中で唯一、真っ赤に濡れた鏡花の左手と、その中に握られているものが見える。

 わたしの中から抜き取られた、心臓。

 ……いや、

 だとしたら……おかしい。

 あれがわたしの生命を司っていたもので、

 それがわたしの中に無い状態で……なんでわたしはまだ……その光景を〝見て〟いるんだろう?

 今この瞬間、わたしの中には……代わりに〝何が〟入っているんだろう。

 その疑問が浮かんだ直後。

『さて、これからどう生きていくかだけども……ええ、後のことは娘に任せます。あまり出来のいい子たちではないけど、まぁ、いないよりはマシでしょう』

『開いたお腹は……そうね、焼いて塞いでおこうかしら。まだ〝馴染む前〟につく傷だから、もしかしたら綺麗に治らないかもしれませんけど』

『その〝中身〟……どのような効果をもたらすのかはわかりませんが……もし役に立つ時が来るなら、存分に使ってくれて構いません、もう貴女の所有物なのですから。せいぜいその時が来るまで、生き残ってくださいね』

筺花きょうか

 矢継ぎ早にそんなことを言った後……織草鏡花が立ち上がる。

 左手に、わたしから抜き取られた命の塊を持ちながら。

 その場を、去ろうとしていた。

 行動も、真意も、ついに理解することが叶わないまま、彼女は遠ざかろうとしていた。

 何もわからないわたしは、何もわからなかったまま、ただ〝一連の出来事〟が済んだらしい、ということを……受け入れるしかなかった。

 そして、

『〝こっち〟はもう……いらないわね』

 ぢっ————と、

 一際大きく、断末魔のような、嫌な音がした。

 織草鏡花の左手の中身からとめどなく流れる、血。

 彼女は一切の躊躇なく、手の中にあったものを……〝握り潰して〟いた。

 つまり——それは、

 そこにあった心臓わたしは、

 もう————、


 そこまで思考して——ついに意識は、完全に落ちた。

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