◇4 前編

◇4


 今日は、担任が突然の体調不良で来れなくなったという事件(生徒間では、この程度でも事件になるらしい、平和だ)はあったものの、それ以外は何も異常はなく、一日の授業を終えることができた。

 仲町に駅前で遊ばないかと誘われたが「これからアルバイトなので」と言って断った。どこで働いているのかとか、仕事内容について質問攻めされたが、なんとか誤魔化した。断ったそのときは不満そうだったが、別れた直後に他の人間を誘っていたのが見えたので、たぶん誰でも良かったのだろう。

 帰り道、制服のまま、郊外の雑居ビルへと向かう。

 鈍色の三階建ての小さなビル。汚れか老朽化か、詳しいことはわからないが、ところどころが黒ずんでおり、手入れの行き届いていない薄暗い入口も相まって、一見すれば何も入っていないように見えるだろう。実際、一回は常に無人の管理人室で、三階は完全に空いたフロアになっている。

 不気味な佇まい——女子高生の姿は場違いともいえるこの建物に、わたしは構わず入る。

 そして、二階のドアに〝便利屋 ハートキャッチ〟というネームプレートが貼り付けられているのを横目で見てから、わたしはそれをゆっくりと開いた。

「お疲れ様で——」

「こっちの身にもなってよ!」

 …………?

 わたしの挨拶が、遮られてしまった。

 誰だろう? 聞きなれない声だ。

 事務所の中央に置かれている応接用のソファーには、向かい合うようにして二人の女性が座っていた。

 一人はハートキャッチの所長にして、わたしの後見人である織草葵おりくさあおいさん。無造作に伸ばした長い黒髪と、謎めいた笑みを常に浮かべている人だ。

 もう一人は……誰だろう、初めて見る人だ。髪は明るいボブヘア、表情は険しい。だが、持ち合わせている雰囲気は葵さんとどこか似ているようにも思える。化心絡みの依頼人だろうか、依頼はそのほとんどが電話かメールでの対応なので、事務所まで客が訪れることは珍しい。

「おかえり」帰ってきたわたしに気づいた葵さんが、声をかけてきた。

「お疲れ様です、葵さん」先ほど途切れてしまった挨拶を再びしてから、手のひらで客人を指した。「すみません、この方は?」

「紹介するよ、彼女は——」

「——あんたが件の〝姫〟ってわけ?」

 葵さんの紹介を遮るようにして、女性が立ち上がった。

 彼女はそのままこちらに近づいてきて、至近距離でわたしの顔を見つめてきた。依然として苛立っているような顔で見てくるので、目を背けたくて仕方がなかった。

「ふーん……意外と……いや、でも……」何やらぶつぶつと呟く女性。

「……なんなんですか、あなた」耐えきれず、口を開いた。申し訳ないが、彼女に対する第一印象は決していいとは言えない。

母様かあさまの形見って言うから、どんなものかと気になっていたけども」

「かあさま? かたみ?」

「え、嘘でしょ? 姉さんから何も聞いてないの? あんた」

「ね、ねえさん?」

 彼女は、戸惑っているわたしを見ると、より一層険しい顔つきで後ろを振り向いた。視線の先には、肩をすくめ、とぼけたポーズをとる葵さん。

「これはどういうこと?」女性が非難するような口調で葵さんに問う。

「いやいや、もっと段階を踏んでから説明しようと思っていただけだよ。決して忘れていたとかじゃない」そして問われた側の葵さんはというと、いかにも白々しく答えた。

「……呆れた」

 目の前の彼女は、思いきりため息をつくと「悪かったわね」とわたしの頭を一撫でして、ソファーに戻っていった。

 ……状況が読み込めない。

「えっと、つまり、どういうこと、なんでしょうか……?」

「君には、まだ説明していなかったことがあったのさ、いろいろね」葵さんは特に悪びれもしないでそう言った。

「説明していないこと……?」

「まずは紹介しよう。そこにいる彼女は織草椛おりくさもみじ、織草家の現当主にして——私の妹だ」




 葵さんが、空いているソファーをぽんぽんと叩いて、わたしを手招きした。

 誘われるまま座ると、椛……さんが、二人分の緑茶と葵さん用のコーヒーを運んできた。

 全員でそれを一口すすって、しばらく沈黙する。

「——化心の歴史は古い」

 おもむろに口を開いたのは葵さんだった。目線はやや下を向き、その口調は、普段の会話のときのそれよりも、若干だが厳かなものに感じた。思わず緊張が走る。横目で椛さんを見ると、手を膝におき、姿勢を正して、葵さんを見つめていた。

「我々が知る化心と同一であると思われる存在は、平安時代中期頃のいくつかの文献に記されている。彼らは生霊の一種とされ、非業の死を遂げて変異した怨霊などとは、明確に区別されていたようだ。もっとも、資料として残っていないだけで、化心自体は昔からいただろうね。どんな時代の人間にも感情はあるわけだし。化心の歴史は、人間の歴史と表裏一体の関係と言えるだろう」

「そんなに昔からいたんですね、でも、その割には……」

「マイナーだよね、普通の人は化心なんて単語は知らないだろう。化心が浸透しなかった理由としては……日本人って昔は、御霊信仰の考え方がメジャーだったからさ、どちらかというと、生きている人間より、死んだ人間の祟りのほうを恐れていたからじゃないかな。実際、教科書に載るような怨霊なんかに比べれば、ちんけな存在だしね」

 転入前、暇つぶしに読んでいた古典の資料を思い返す。

 なるほど、やろうと思えば一人で殺せる化心よりも、鎮めるために何人もの祈祷師や寺社等の造営が必要な怨霊のほうが、優先度が高いのは当たり前だろう。

 ……たしかに、あれらを菅原道真クラスと同列にする気にはならない。

「——と、世間からは大した扱いを受けなかった化心なわけだけども、誰かがどうにかしなければ、まずいものではあるわけで。……そこで登場したのが、化心を滅ぼすことに長けた一人の女性だった。この人が初代織草——我々のご先祖様だね。ただ、織草という名字を賜ったのは、それから随分後の時代だったみたいだ。千年前は〝花の巫女〟あるいは〝筺花きょうか〟なんて呼ばれていたらしい」

「花の巫女……」

「織草は、化心退治を専門にする神職として、それなりに重宝されたようだよ。おかげで現代まで、この血統は脈々と受け継がれ——そして、そこにいる椛が当主となり、今に至る、というわけ。……以上、駆け足だったけど、化心と織草の歴史については理解してくれたかな?」

 葵さんは「喋ったなー」と言いながら、カップに口をつけた。

 自分の中で話を整理する。

 化心の始まりと、それを退治する織草家の存在、どれも初めて聞く話だった。

 ……なんならもっと早く聞きたかった情報だ。

 こんな大事なことを今まで隠していた葵さんも葵さんだが、特に疑問を抱かずに仕事を手伝っていたわたしもわたしだなと、反省の気持ちが募る。

「……でも、葵さんが当主じゃないんですね、長女なのに」

「あの家はどうにも窮屈でね。それに当主なんていうのは、柄じゃなかったから。あと、私なんかより椛の方が優秀で、周囲から好かれていた、というのもある」

「お役目から逃げただけでしょ、姉さんは」

 それまで静かに話を聞いていた椛さんが、ぴしゃりと言い放った。

「自分の我儘で家を出ておいて、私を言い訳に使うの、とても不愉快」

 怒り交じりに指摘する椛さん。葵さんはというと「手厳しいね」と頬を掻いた。

 剣呑な空気が流れる。

 どうやらこの二人、すごく仲の良い姉妹、という感じではなさそうだ。椛さんの発言から察するに、葵さんは家出したようなものだろうし、当然といえば当然だろうが。

「姉さんはこんなんだし、母様は何考えてるかわかんなかったし……ホント、つくづく私はまともなんだって思うわ……」

 椛さんは額を指で押さえながら、呻くように文句を零した。

 この人も、それこそ私以上に葵さんに振り回されていたのだろう。なんだか同情の気持ちが湧いてくる。

 やがて彼女は姿勢を元に戻すと、葵さんに対してきっぱりと言い放った。

「とにかく、私がここに来た目的は二つ。姉さんを本家に連れ戻すことと、母様の形見について話し合うこと」

「どちらも承服しかねると言ったら?」

「これは要請でも命令でもなく、当主としての決定事項よ」

「それって本家——家の老人共も同意しているのかい?」

「いいえ。それに、形見について知っているのは、私と姉さんだけ」

「椛の独断ならば、私も独断で動いたって文句はないだろう?」

「姉さん、あまり勝手なことばかり言わないで」

「彼女は私が預かったんだ。それを勝手と言われては困るよ」

「姉妹なんだから、問題はできるだけ共有したいの、わかるでしょ?」

「その必要はないと言ってるんだ」

「姉さん!」

「落ち着いてください……!」

 珍しく語気が強い葵さんと、今にも掴みかかりそうな椛さん。ヒートアップし始めた二人を見て、わたしは止めに入った。

 わたしの声で多少冷静になったのか、姉妹は揃ってソファーにもたれかかる。

「大声を出したのは謝るわ……そこの馬鹿姉が聞き分けのないもんだから」

「高圧的な態度で人を動かそうとするとは、椛も案外、器が小さいようだね」

「へぇ……?」

「ふむ……?」

「すぐ喧嘩腰にならないでください!」

 仲裁した途端に煽り合わないで欲しい。

 それに、わたしが聞きたいのは、不毛な喧嘩ではなく、もっと建設的な情報だ。

「……母様の形見とか、姫というのはなんですか? なんとなく、わたしのことらしいというのはわかりますけど」

 先ほどから出ている単語について尋ねる。織草家自体の歴史はわかったが、これはまだ明かされていない部分だ。

 葵さんはわたしの言葉を聞くと、少し考えこんでから「たしかに、君には知る権利がある。これは私の落ち度だ」と言った。

「半年前、ハートキャッチの前に倒れている君を私は拾ったわけだけど……それは偶然ではない……と、私と椛は考えている」

「……どういうことですか?」

「君が、先代の織草当主にして、私たちの母親でもあった、織草鏡花おりくさきょうかの〝形見〟——あるいは〝置き土産〟かもしれないということだ」

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