◇4 後編

「名前からも察せるかもしれないけど、織草鏡花は千年に一度——それこそ、花の巫女以来の天才と呼ばれていた女性だった。織草は化心を葬る手段として〝言霊の心術〟を用いるわけだけど、彼女の言霊は歴代当主の中でも群を抜いて優れていた。人格に難ありだったので、親戚一同からは良く思われていなかったけどね」

「人格?」

「好奇心が旺盛すぎるというか、自分以外の事情は特に考えないというか……椛、ああいうの、なんて言えばいいんだろう?」

「要するに、性格は姉さんの一億倍ヤバイってことよ」

「……それは厄介ですね」

 葵さんも、かなり人を振り回すタイプだが、母親はそれ以上だという。

 想像するだけで頭が重くなるような気がした。

 葵さんはやれやれと苦笑してから、話を続けた。

「とにかく世間で言うまともな母親、という感じじゃなかったかな。私たちを育ててくれたのも、養育係の人だったし」

 そう語る葵さんと、聞いている椛さんの様子を窺う。懐かしむような、わずかに悲しんでいるような……形容しがたい表情がそこにはあった。

「——だが、ある日突然、鏡花は姿を消した。いわゆる失踪ってやつだ」

「失踪、ですか」

「さっき言ったように、何をしてもおかしくない人ではあったからね、別にそれ自体はショックでもなんでもない。娘に対する情なんてものを持ち合わせている人じゃないし、私たちだってそうさ。ただ、いなくなる直前に彼女は、ある言葉を私たちに残していた。『いつか器となる姫を預ける』という言葉をね」

「器…………」

「当時は……なんなら今でも、その言葉の真の意味はわからない。だが半年前、君が倒れているのを見たとき、自分でも驚くくらい確信したんだ——『この子が姫に違いない』ってね。だからハートキャッチに迎えた。あとは君が見て聞いた通りだよ」

「…………」

「どうかな? 何か思い出せた?」

「…………いいえ」

 首を横に振る。

 半年前から今までのことは、もちろん覚えている。

 最初の記憶は、ソファーの上で目覚めた私を見つめる葵さんの、期待と警戒の顔だった。

 それからはいろいろなことがあった。

 素性を質問されて、自分が何も覚えていないことに、パニックを起こしたこと。

 ここにいていい、と言われて、すごく安心したということ。

 化心を最初に見たときに、少しも怖いと思わなかったこと。

 葵さんやフォルテさんに、仕事のやり方や戦い方を教わったこと。

 そうやって、今の今まで、生きてきたということ。

 でも、それだけだった。

 それより以前のことは、何か大きなものに遮られているかのような感覚がして、どうやっても思い出せなかった。

 わたしを見た葵さんは「そうか」と一言呟くと、給湯室の方へ行ってしまった。二杯目のコーヒーでも淹れるつもりなのだろう。

「——姉さんは、口には出さないけど、母様のことを慕っていた」

 葵さんが離席したタイミングで、椛さんは、わたしにだけ聞こえるような声で話し始めた。

「だからあの人の真似をして、織草の家から離れたし、あんたに拘っているのも、母様の手掛かりを掴みたいから。姉さんにとって、あんたは所有物……姉さんがそこまで思っているかは知らないけど」

「…………」

「もしあんたが望むのなら、姉さんから遠ざけて、織草とか化心とか、そういうのとは縁のない生活を保障してあげることもできる。たとえば、織草とは関係が薄い分家に預けるとか」

「……それは」

「酷なようだけど、身の振り方くらいは自分で考えなさい。言いたかったのはそれだけ」

 緑茶を飲み干してから、椛さんは立ち上がった。

「しばらくはこの街にいるから、なにかあったら連絡して」

 椛さんは、事務所の机に備え付けられているメモ帳に電話場番号を書いて、わたしの手に握らせると、そのまま帰り支度を始めた。

「おや? 椛、帰るのかい?」

 給湯室から葵さんが顔を出す、手に持っているマグカップには、コーヒーがなみなみに入っていた。

「今日は帰るわ、また来るけど」

「いや、もう来なくていいんじゃないかな?」

「絶対来るから」

「強情だね、誰に似たんだか」

「それはこっちの台詞なんだけど?」

 またしても無言で見つめ合う二人、こちらとしては気が気でない。

「——帷です」

 声が出た。

「……何?」戸惑う椛さん。そりゃそうだろう、彼女から見れば、急に何を言い出すのかという感じだ。

「名前、言ってなかったなって。その、織草帷です、わたしの名前……」

 自分でも、どうして急に名乗ろうと思ったのかはわからない。

 いつまでも、あんた呼びなのもなんだかな、と思ったのかもしれない。

 あるいはただ単純に、自分の名前を知ってもらいたかったのかもしれない。

 ——名前を貰ったという、自分の記憶の中で一番大切な出来事を、知ってもらいたかったのかもしれない。

 椛さんは、何かに気が付いたような顔をすると、

「そう、帷。覚えとく」

 そう言って、事務所を出て行った。

 静寂が訪れる。

「今日は何を食べようか? 帷ちゃん」

 葵さんは、いかにも愉快だという風な表情でタブレットを操作し、出前のページを見せてきた。

 緊張がほどけて、少しの恥ずかしさのようなものがこみ上げる。

 頬が緩む。

「——そうですね。今日も、知らないものが食べたいです」

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