◇12 後編

「…………」

「…………」

 体育館内。

 女子高生と魔術師は、無言で向き合っていた。

 魔術師——空骸黑は苦々しい顔つきをしながら、袖で顔を拭った。砂塵を被ったせいか、彼女の格好は灰色に薄汚れ、全体的にくすんだ姿に変わっており、当初に感じた印象からは程遠い雰囲気になっていた。だが、手傷を負ったようには見えない。あの爆破では、目くらまし以上の効力はなかったようだ。

 とはいえ、ビジュアルのひどさ、という点で言うなら、わたしの方に軍配が上がるだろう。素肌につけられた〝噛み傷〟は既に塞がっているものの、着ていたジャージは血で赤黒く染まり、背の部分には小さな穴がいくつも空いている。

 転校して一週間。

 こんな短期間の内に制服とジャージを駄目にするとは思わなかった。

 ……いつかまとめて弁償させてやる。

 そう心の内で決意を固めながらも——わたしの視線と注意は、空骸本人ではなく、彼女の足元にいる〝それ〟に向けられていた。

『んぃにぅんむん んぐぁぅぃぐん んぅぅんごぁぃみゅん』

 不気味な鳴き声を発しながら、空骸の膝に——まるで甘えるかのように身体を擦りつけている、謎の動物。

「…………」

 動物、でいいのかな……?

 丸みを帯びた頭、しっぽのついた少し長めの胴体、それを四つ足で支えている。

 その姿と様子は一見すると〝猫〟——厳密な言い方をするなら〝イエネコ〟と称されるもの、に見える。

 だがそれはあくまで〝そう見える〟というだけの話だ。

 間違いなく、これはただの猫ではない。

 記憶喪失であるわたしでさえ、そう断言できるレベルだ。


 なぜなら——その猫の姿が〝シルエット〟になっていたからだ。


 別の言い方で喩えるなら、光に照らされた〝影絵〟だろうか。

 暗く、半透明な、猫の形をした影。見た目からは目・鼻・口に該当する器官は視認できない。にもかかわらず、猫は鳴き声を発しながら、空骸の足元を歩き回っていた。

 あれが、暗闇で噛みついてきたものの正体……?

 空骸が杖を見せた。攻撃か、と警戒する。だが杖の先はわたしではなく、下の方向——猫に向いていた。猫は依然としてせわしなく歩き回っていたが、空骸の杖を見た途端におとなしくなり、前足を揃えて姿勢よくその場で静止した。

 杖の先が光る。そこから魔力の光が水滴のように垂れ、猫の身体にぽちゃん、と落ちた。身体に光が吸収された猫は『んぁん』と満足そうに鳴いて伸びをした。

「食事……?」疑問が口をつく。理解の及ばないことが連続したせいで、何か問わないと、という気持ちになっていた。「生きている……ということですか」

 空骸なら、戸惑ったままのわたしに対して、これ見よがしに人を馬鹿にした態度をとってくると思ったが、意外にも眉間に皺を寄せたまま何も言ってはこなかった。

 やがて小さく息を吐くと「……〝デザイア〟だ」と、短く口にした。

「〈見当違いの恋スクリーム〉……それがあたしのデザイアの名前」

「何を……」

「魔術師はいろんな魔術を使うけど、その中でも特に〝肌に合った〟ものには、特別な名前をつけるんだって。それがデザイア」

 杖から魔力の光を垂らしながら、空骸が言葉を続ける。一見隙だらけ……なのだが、彼女の立ち振る舞いを見ていると、わたしを油断させようという魂胆があるようにも思えて、攻めるのは躊躇われた。

「要は、一番得意な術、ってことじゃないの? ……ちゃんとは知らないけど」

「…………」

 本来なら、魔術について語るのは、なんの意味もない……どころか、悪戯に情報を開示するだけであり、本人とってデメリットが多すぎる。それをわざわざするからには、彼女にとってそれなりの理由がある、ということだ。

 おそらくは……時間稼ぎ。

 魔力は魔術師にとっての体力に相当する。であるなら、先ほどの乱射は空骸にとって、かなりの消費だったはずだ。平気そうな顔をしているが、実は彼女もわたしと同じくらい疲弊しており、少しでも会話を長引かせて、力の回復を図ろうとしているのかもしれない。

 ならば攻めるべきか、それとも……。

 逡巡する間にも、ぽたり、ぽたり、と魔力が供給されていく。落ちた光は相変わらず、〝餌〟として足元の猫に吸収されているようだ。

 何度見ても、目を凝らしても、その真っ黒な猫の姿はやはり〝ありえない〟以外の言葉では形容できそうにない。

 ありえないのだが……ありえないからこそ、その存在には心当たりはある。

 自分の身を犠牲にすることで、ようやく殺すことのできた怪物。

 化心とは異なる由来をもった、異形の存在。

「……ストレンジャー」数日前に聞いた単語を、わたしは呟いた。

 魔術師が干渉することのできる、別の世界。裏世界や第二世界とも呼ばれるそこには、こちら側の常識では考えられない生物が生息している。フォルテさんはそう言っていた。

 そして、その生物の総称が、ストレンジャー。

「へぇ、ストレンジャーのことは知ってるんだ。……あ、イルカとヤったんだっけ? 魚臭くなかった? アレ」

「イルカ? それって——」

「ってかさー! あれのビジュアル超ヤバくなかった? 顔はイルカなのに——いや、途中からは蝶々だったっけ? とにかくテッカテカのゴリマッチョでさ! 初めて見たときキモすぎて笑い死ぬかと思ったんだけど!」

 急に大きな声を出して爆笑する空骸。広い体育館の中でも、よく響く声だった。

 わたしはといえば、そんな彼女の発言の意味を理解しかけて、当惑していた。

 イルカ、彼女はたしかにそう言った。

 自分の記憶と一連の流れからして、心当たりは一つしかない。

「……小渕さんが召喚した、二足歩行のイルカですか」

「小渕……ああ、そんな名前だったっけ、アイツ。化心すら出せねえザコメンタルだから、わざわざ召喚術を教えてやったんだよなー。あんときはガチでめんどかった」

「……! あなたが……」

 葵さんの推理の中にあった、不明要素。

 小渕琉太にイルカを召喚する手順を教示し、長田美月にハートキャッチを勧めた人間。

 それが……空骸黑だったのか。

 葵さんが突き止められなかったということは、長田と空骸に直接の接点はないのだろう。推察するに、仲町になりすましたときと同様、長田の友人として振る舞うことで、二人を誘導した……そんなところか。

「でもまぁ、こいつがストレンジャーっていうのは正解。裏世界のやつを連れてきたって意味じゃ、イルカと同じだな」

 あんなキモイのと一緒なんてムカつくけどさ、と空骸は最後につけ足す。

「ストレンジャーは、誰にでも呼び出せる。そう聞きました」

 小渕のように魔術に縁のなかった人間であっても、少しの魔力と、魔法陣の書き方の知識さえあれば、裏世界からストレンジャーを引っ張ってくることができていた。

 ただし……。

「呼び出したところで、彼らは人間の言うことを聞かないって」

「フツーはね、でもあたしは違う。あたしの〈見当違いの恋スクリーム〉は、ストレンジャーを調教する魔術デザイア。あたしが命令すれば、どんなストレンジャーでも従う、そういう力なの。たとえば……『長田美月の近くに物を落とせ』とか『中沢櫂の家を荒らせ』とかって風に、ね」

「……長田さんの不安を煽ったのも、あなたの仕業だったんですね」

 空白の部分がかっちりとはまるような感覚だった。

 イルカ蝶の依頼と学校での化心の発生は、どちらも空骸が裏で手引きしていた。

 今回の黒幕、どころの話ではなかったわけだ。

 喉の奥がぎゅっと縮む。生徒の化心に襲われた時のやるせない気持ちとは異なった思いが、ふつふつと湧くような気がした。

「……じゃ、そろそろやろっか」空骸が傾けた杖を元に——わたしを狙うように戻す。

「うすうすわかってたんでしょ、魔力が回復するまで時間稼ぎしてたって。ま、そっちも休憩できたんだし、文句なし、な?」

「…………」

 彼女の言う通りだ。

 わたしを苛んでいた目が回りそうなほどの倦怠感と疲労感は、すっかり消え失せていた。与えられた情報のせいで、疲れを感じる余裕すらなかった、という方が正確かもしれないが……とにかく、わたしは戦闘可能な状態に戻りつつあった。

 そして……ここより先に逃げ場がない以上、もう下手な引き延ばしはできない。

 だったら、やるべきことは決まっている。

 空骸黑を、ここで止めることだ。

 彼女が何故こんなことをしたのか、それはわからない。だが、どんな理由があったとしても、人の心を弄び、脅威をバラまいた一連の行いを、肯定するわけにはいかない。

 たとえ記憶を失っていたとしても……そう思うのは、きっと〝正しい〟はずだ。

 杖の先端と剣鉈の切っ先が向かい合う。

 状況は振りだしに戻った形だ。

 先に駆けたのはわたしだった。お互いの距離は3m程度、近接武器で戦う自分にとっては不利な間だ、まずはその差を縮めなければならない。

「ハッ——!」空骸の嘲笑、わたしがまっすぐ向かってくるのは読んでいたようだ。杖を構えたまま、余裕の表情で迎え撃とうとしている。

 だとしても構わない。下手なフェイントは、もはや意味をなさないだろう。どの方向から攻めたところで、彼女の射程範囲内なのだから。

 であれば、最短・最速で接近し、彼女を斬る——その手しかない。

 杖が光った。

 魔術の攻撃——構えを崩していない彼女の方が対応は速い、何もしなければただ迎撃されるのみだ。

 ならば——と、左手を開いた。

 手のひらにはべったりと血がついていた。先ほど猫を刺し損ねた際、背中の傷が塞がる前に掬い上げていたもの。それを空骸の顔面に向けた。

 空骸が目を見開く。剣鉈の攻撃と思っていたのだろう、予想外の動きをしたことで多少面食らったはずだ。その一瞬の隙を頼りに、わたしはより詰め寄った。

 間隔が急速に縮まる。

 息を吸う音さえ——〝言葉〟を発するための予備動作の音さえ、耳に届きそうなほどの至近距離。

 お互いがお互いを、目と鼻の先に捉えていた。


「〈切り裂け〉!」「〈見当違いの恋スクリーム〉!」


 戦いが、始まった。

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