◇8 前編

◇8


 泉を脇に抱えながら、一階の廊下を走る。

 後方を確認してみたが、黒コート——泉の化心はまだ階段の近くに留まっているようだった。動きが活発でないのは、本体である泉が気絶しているからだろうか。

 保健室、と書かれたプレートが目に入り、足を止めた。扉に手をかけると、鍵がかかっている様子はなかった。養護教諭の不用心さに感謝しつつ、室内に入った。

 ベッドに泉を横たえる。特に目立った外傷もなく、彼女は穏やかに寝息をたてていた。その様子に安堵しながらも、わたしの胸中は穏やかではなかった。

「…………」

 〝そうかもしれない〟という予感はあった。

 通学路で遭ったときも、繁華街で遭ったときも、化心の狙いは常にわたしだった。

 化心には、本体となる人間の望みを叶えようとする性質がある。

 わたしを狙う化心がいるとすれば、その本体はわたしに強い恨みを持つ人間であり、それが普段わたしと学校で出会う人間である可能性を——それこそ、泉侑里である可能性を——まったく考えなかったといえば、嘘になる。

 だからこれは、その予感が当たっただけだ。

 そんな風に思考するが、胸の内側で蠢く嫌な気持ちを抑えることができない。

 泉の手元からスマホが床に滑り落ちて、ゴトッと音がした。どうやらずっと握りしめていたらしい。わたしはそれを拾い上げて、画面を確認する。

 泉が直前まで開いていたのは、チャットアプリ——ソルトだった。

 そして、チャット画面に表示されていた名前は、神様。

 仲町が前に話していた例のAIだった。

「もしかしてこれが〝相談〟の相手……?」

 画面をスクロールして、トーク履歴のログを辿る。

 登録したての頃は、夕飯の献立や友達へのプレゼントといった、本当に他愛もないことを相談しているようだった。神様も(ちょっと的外れなものはあれども)普通に答えていた。

 質問の内容が変わり始めたのは、今からおよそ一週間前。

 わたしが転校してきてからだった。

『転校生の女の子がいます、どう話しかければいいですか?』

『物静かで、自分からはあまり話さない子です。どうすればいいですか?』

『髪色が白くて、変に目立っていて嫌そうです。何か言ってあげた方がいいんでしょうか?』

『体育で着替える時、身体に酷い傷跡があるのを見ました。知らないふりをした方がいいですよね?』

 普段しているような相談の中に、わたしについての話題が混じり始めた。

 それらは間違いなく、わたしのことを慮ったものだったが、どういうわけか相談に対しての神様の回答はなかった。

 さらに読み進める。

『織草さんがつばさと話している』

『織草さんとつばさがご飯を食べている』

『織草さんとつばさはよく一緒にいる』

 チャットの内容は、それまでの相談の形から、まるで独白のようになっていた。

『つばさは私に よく織草さんの話をする』

『織草さんに笑顔が増えた』

『つばさもすごく楽しそうだった』

『それはとても 嬉しい はず』

『でも ときどきよくわかんない気持ちになる』

『私は つばさにとって どのくらいの人なんだろう』

『私がもやもやしないために どうすればいいんだろう』

 泉のメッセージは、そこで終わっていた。

 そして——

「……っ」

『オリクサトバリを嫌いましょう』

『オリクサトバリに嫌われましょう』

『無視しましょう』『離れましょう』『別れましょう』『消しましょう』『滅ぼしましょう』

『オリクサトバリを殺しましょう』

『殺しましょう』『殺しましょう』『殺しましょう』『殺しましょう』『殺しましょう』

 それまで沈黙を貫いていた神様からの突然の回答は、わたしへの悪意の言葉で埋め尽くされていた。

 制服の上から傷を抑える。

 気を紛らわせなければ、今すぐにでも叫んでしまいそうだった。

 息を吐いて、恐怖を抑え込む。

 先ほど思った通り、泉を惑わせ、化心を生み出したのにはスマホ——神様が関わっているのは確かなようだ。

 ……仕組みはわからないが。

「葵さんに報告……いや、先に化心の退治を————」

 不意に、後ろにいる〝何か〟の気配を感じた。

「!」

 床を蹴り、横に跳ぶ。

 先ほどまで自分がいた場所に、叩く鈍い音が響いた。

 体勢を戻しながら、衝撃を起こした者の正体を見る。

「……色々持ってるんですね、武器」

 襲い掛かってきた影——黒コートの化心。その手には鉄パイプが握られていた。

 後方を見るが、保健室の扉は開かれていなかった。

 壁をすり抜ける能力でもあるのか……? だとしたらかなり厄介だ。

 いずれにしても、泉がいるこの部屋で戦うわけにはいかない。

 化心から目を離さないようにしながら後ずさる。そのまま後ろ手で扉を開いて、廊下に戻った。

 直後。

「——ぐッ⁉」

 〝真横で待ち伏せていた〟黒コートの化心の攻撃——メリケンサックを装着した打撃が、わたしの脇腹にめり込んだ。

 虚を衝かれたわたしはそのまま吹き飛ばされる。

 そして、殴られた方向に目を向け——

「何、これ」

 呻くような声が漏れた。

 〝信じられない〟と脳が理解を拒む。

 目の前の状況を、うまく飲み込むことができない。

 メリケンサック、鋏、金属バット、薙刀、鉤爪、日本刀——。

 多種多様な〝武器〟を〝それぞれ〟が有している光景。


 ——黒コートの化心が、増えていた。

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