◇7 後編
「い、泉さん、ですか」
先ほどまで警戒と緊張を高めていたせいか、反応したわたしの声は、自分でもわかるくらい上ずったものになっていた。跳ねた心臓を落ち着かせるために、大きく深呼吸をする。
「そうだけど……」泉は怪訝な顔をしていたが、すぐに自分が原因だと気づいたのか「ごめん、驚かせちゃったね」と謝った。
「あ、いや、大丈夫です、全然、してませんから、全然」
「そのリアクションでびっくりしてないは無理があるんじゃない?」
泉が笑う。わたしも、良く知る人間に会えたことで、肩の力が抜けていくのを感じた。
泉が再び不思議そうな表情をする。
「織草さんはまだ帰らないの? もうこんな時間なのに」
「時間?」
「うん。そろそろ完全下校だから」
「え?」
壁にかけられた時計を見る。18時、この学校の完全下校時刻が迫っていた。
「あれ……?」
授業が終わったの、ついさっきだったような……?
体感時間と実際の状況との乖離で混乱する。担任から書類を受け取った時から今までの出来事が、頭の中でうまく繋がらなかった。
「ほら、もう出ないと。校門が閉まって閉じ込められちゃう」
なんてね、と、冗談めかしたような口調で泉が言い、先行する。
「……ええ、帰りましょうか」
わたしも、書類を胸に抱えたまま、彼女の後を追った。
「織草さん、さっきはごめんね」
「さっき?」
「急に声かけちゃったこと。織草さん、部活とかやってないから、こんな時間にいるの珍しくて、つい」
「いえ、わたしこそ、過剰に反応しちゃったみたいで、すみません」
「ううん。私、小さいころから足音が聞こえにくいらしくてさ、家族にも『無言で背後に立つな』って言われてたんだった」
「暗殺者か何か……?」
「あはは、それ面白い。今度同じことがあったら言おうかな、つばさとかに」
渡り廊下が見えた。日の入りまでまだ時間があるからか、窓から見える外は明るい。時計が無ければ夕方とは思えないほどだ。
そこを歩きながらも、互いの会話は続いていた。
「そういえば、織草さんはバイトしてるんだっけ」
「あ、はい。仲町さんから聞いたんですか?」
「うん、心配してたよ。『体力使う仕事らしくて、いつも眠そうだ』って」
「仲町さんが……」
「あと『何のバイトか教えてくれないから、すっごい怪しい』とも言ってた」
「怪しいって」
「私も気になるな。……まさか、いかがわしい仕事をしてるんじゃ」
「なんで二人ともそっち方面に行くんですか!」
ハードワークだけれども。
ため息をついてから、ふと思い出す。
ちょっと前にも、いつの間にか時間が経っていたことがあった。
いつかの昼休み、仲町との食事中に眠ってしまったとき。
さっきの感覚はそのときとよく似ていた。
もし今回の時間経過が、昼休みのものと同じだとするならば……わたしは何時間もの間、廊下の真ん中で立ったまま寝ていた、ということになるわけで。
「…………」
声が出かけたが、泉の前なので、すんでのところで堪えた。
……なんだか最近、ぼうっとしていることが多くなったような気がする。仲町の言う通り、寝不足なのだろうか。学校生活とハートキャッチの仕事の両立がうまくできていないのかもしれない。
葵さんも言っていたように、わたしにとって〝普通の高校生〟というのは一朝一夕でなれるものではないようだ。これに関しては。慣れの問題と割り切るしかないのだが。
一応、今度フォルテさんに会ったときに相談するのも良いかもしれない。魔女なら……なんかこう、よく眠れるハーブとかに詳しそうだし。
「……合法かはともかく」
「ん? 何か言った?」
「いえなんでも」
危ない、無意識に口に出ていたようだ。咳払いをして、泉の後をついていく。
渡り廊下を過ぎ、階段を降りようとしたとき、泉が立ち止まり、振り返った。
「文化祭の機材申請書だよね」
「え?」
「織草さんが持ってる書類」
「えっと、そうですね。実行委員が生徒会に出すものらしいです」
「ってことは、つばさの?」
「はい。先生から、仲町さんに渡しておいてくれって頼まれて。今日は渡せなかったんですけど」
「ああ、だから職員室にいたんだ」
「……そんなところです」
本当は職員室前にいたのは別の理由だが、色々都合が良いのでそういうことにしておこうと思った(人がいなくて不安になった、なんて恥ずかしくて言えないし)。
「でも先生もひどいね、転校してきてすぐの子に頼み事なんて」
「ひどい?」
「だって織草さん、まだ学校の施設も生徒の顔も覚えきれてないでしょ。まぁ、つばさは一緒にいるからともかく」
「……そうですね。先生からも『友達だろ?』って言われて、押し付けられちゃいました」
「友達?」
「はい。その……そういう風に見えたんでしょうね、わたしと仲町さん」
「……そうなんだ」
「体育で二人組作るときとか、お昼とか、結構一緒にいたので」
「…………」
「転校生で……わたし、こんな見た目だから、珍しいっていうのもあるんでしょうけど」
「…………」
「すごく……親切な人なんだと思います、仲町さん。ああ、そういえばこの前も——」
ぽつり、ぽつりと、言葉が口をついて出る。
友達という関係性に浮かれていたのか……聞き役に回ることが多い自分が、そのときは珍しく饒舌だった。
校舎の案内中に見た用途不明の教室の話や、食堂の限定パン争奪戦に巻き込まれた話。
いつの間にか、そういった仲町との出来事を泉にひたすら話していた。
そして……泉がどんな気持ちでわたしの話を聞いていたのか、そのときのわたしにはまったくわかっていなかった。
「——つばさは優しいよ」泉がわたしの話を遮る。「優しいんだよ。私にも、クラスのみんなにも……たぶん、その辺の知らない人にも」
「……?」
「つばさは、どんな人にも〝同じくらい〟に接することができる人なんだと思う」
「同じくらい?」
「きっと誰であっても同じくらい仲良くできるし、同じくらい大事に扱える、そういう子。だからつばさの周りには人が集まるんだと思うし、みんなから好かれるんだと思う。私には真似できないな。……織草さんはどっちだと思う?」
「どっち、とは」
「つばさのああいう振舞いが、天然なのか狙ってるのか。……もし計算でやってるとしたらさ、すごいよね? みんな〝同じくらい大事〟にしてるように見えて、実はみんな〝同じくらいどうでもいい〟ってことなんだから」
「……そういう言い方、あまり好きじゃないです」
泉らしくない、と思った。
仲町と泉は〝気の置けない〟という言葉で表す関係性だと、ここに来て日の浅い私でさえそう感じていた。だからこそ、泉がまるで陰口みたく仲町を評することに、正直かなり戸惑っていた。
泉がわたしの返答に何を思ったのかはわからない。彼女はただ一言「そっか」と呟くと、急に何か思いついたかのような口ぶりで「ああ、書類渡すの、私がやろうか?」と言い出した。
「書類って、これですか?」
「うん。織草さんがやる仕事じゃないよ」
「でも、頼まれたのはわたしで」
「友達って理由で? 先生からはそう見えたかもだけど、織草さんがつばさのことを、特別に考える必要はないよ。だってつばさにとって織草さんは、たくさんいる誰かの中の一人でしかないんだから……同じくらい大事な誰かさんたち、同様に」
「……わたし、泉さんの気に障るようなことをしましたか」
問いかけに、何故か泉は答えなかった。外の暗さのせいか、泉の表情は影に覆われていて、窺い知ることはできなかった。なんとなく、わたしを見つめているのではないような気がした。日常的に感じる〝視線〟のようなものを、目の前からは感じなかったからだ。
時間にして十秒ほど、両者の間に沈黙が訪れる。
息が詰まりそうなほどの静寂を破ったのは、ピコン、という大きな電子音だった。同時に、泉のスカートの辺りから光が漏れ出る。彼女のスマホに通知が来た音だった。
泉は無言のままスマホを取り出し、画面をちらと見た。その時、それまで見えなかった顔が照らしだされた。
「——何、言ってる、の」
画面を見た直後、泉が震えた声で小さく呟いた。目は大きく開き、半開きの口が浅い呼吸を繰り返している。まるで何かに怯えているようだった。
「違う、私、そんなつもりじゃ」
ピコン、ピコン、と断続的に泉のスマホが鳴り、その度に泉が「ひっ」と短い悲鳴を上げる。
「嫌だ、私、なんで……なんで、言って、そんなこと、思ってない、のに」
「泉さん?」
「なんで、言いたくないことばっか、違う、思ってない、思ってないの、そんなこと」
うわ言のように、言葉を繰り出す泉。正気でないのは明らかだった。
その間も彼女のスマホが通知音を響かせている。
「——スマホを離してください!」
理由はわからないが、泉が半狂乱に陥ったのには、スマホが関係している。直感がそう告げていた。
だが、奪い取るために近づくと、彼女は腕を大きく振り回してわたしを拒絶した。
「来ないで!」
「……!」
「ごめん、なさい……! 私、本当に、違うの! なのに、言うのが、止まらなくて……」
「さっきから何を言って——」
「『つばさが取られちゃう』とか『ほかの子と仲良くして欲しくない』とか、思ってても、ほんの……ほんのちょっとだけ、だもん……! だから、私……軽い気持ちで〝相談〟しただけなのに……」
「相談って、誰にですか!」
「でも、織草さんを殺————」
何かを言いかけた泉だったが、直後、糸が切れたように脱力した。
彼女の身体が階段を数段転がり、地面と衝突して鈍い音を立てる。
「……泉さん」
早く駆け寄って、安否を確かめなければ。
そう思っても、わたしは泉に近づくことができなかった。
彼女の側に立つ〝影〟の存在が、わたしの足を止めていたからだ。
影が輪郭を表し、見覚えのあるその姿がはっきりと浮かび上がる。
黒いロングコートのようなものを纏った、首のない人型。
例の化心が、まるで死神のように、そこに佇んでいた。
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