◇8

◇8


 場所は港、既に使用されていない空き倉庫の中にわたしはいた。

 海が近いからだろうか、室内にいても遠くから船の汽笛やウミネコの鳴き声がかすかに聞こえてきた。

 倉庫は葵さんが前に話していた場所を勝手に使わせてもらった。曰く、この辺りでは最も目撃されるリスクが少ないらしい。暴力団の発言みたいだな、と思ったが、周りを気にせず戦えるのはこちらとしても好都合だったので、ありがたかった。

 背負っていた寝袋を倉庫の隅に置いた。寝袋の中には、就寝中の長田美月が入っている。今朝、中沢家に忍び込んで拉致してきたものだ。こちらからあのイルカ蝶に会うことはできないので、こういった手段でおびきだすしかなかった。彼女には悪いが、あれを捕らえるための餌になってもらおう。

 放置された資材に腰掛け、寝袋を見つめながら、それが来るのをひたすら待った。

 寝袋を置いてから、およそ一時間が経過した。

 状況に変化はない。

 退屈しのぎに、珍しく考え事なんてものをしてみた。

 主に、今回の化心(正確には違うのだが、面倒なのでこう呼ぶことにする)のことを。

 葵さんは、中沢の闘争心が化心を生み出したと言っていた。

 しかし、中沢の感情が含まれたはずの化心が、長田に襲い掛かったのは何故なのか。

 小渕の精神に引っ張られたのだろうか? いや、中沢の心の方が強いのだから、それはないだろう。だとすればやはり、あの行動は中沢の本心から来るものだ。

「中沢さんが、長田さんを殺したがる……?」

 呟いたあと、直後にまさか、と頭を振った。

 何を馬鹿なことを、昨日の二人を見て、どうしてそう思えるのだろうか、ありえない、そう強く自分に言い聞かせた。


 ……それでも、もし、万が一、そういうことがあるのだとすれば——。


 慌てて傷を撫でる。全身を電気が駆け巡るような衝撃が身体中に走った。驚いた身体を落ち着かせるために、大きく息を吐いた。

 これ以上は駄目だ。嫌な想像というものは、とめどなく先が思い描かれる。こうやって無理やりにでも止めないと、恐ろしく具体的なイメージとなって、自分を苛んでしまう。それに、人の関係性を邪推するなんて、下品な行いだ、きっと。


「——まったく、余計なことばかり考えるのも、全部あなたが遅いせいなんですからね」

 ようやく目の前に現れた獲物に悪態をついて、わたしは立ち上がった。




 化心はこちらに背を向けており、薄く透明な翅が、倉庫に差し込んだ風でわずかに揺れていた。

 化心の視線の先には、長田が入った寝袋。

【ダ、イ、イ——‼】

 耳障りな咆哮とともに、化心が駆けた。前回と同じ突進攻撃だ。

 わたしのことは眼中にない、といった様子だ。

 やはり、明確に彼女を狙っている。

 しかし、その動きは想定内だ。

「——〈穿て〉」化心が跳んだ瞬間、わたしは唱えた。直後、寝袋のポケットに収納していた数本のアンプルから、わたしの血が飛び出し、鏃の形となって、標的の身体に突き刺さった。

【ガッ‼】と声を出して化心がよろける。罠はうまく機能したようだ。

 隙を突くために、わたしも走り出した。

 目標は脳天、あるいは首だ。

 コートからアンプルを取り出し、持っていた剣鉈に振りかけた。魔術で強化すれば、容易く外皮を斬れるはずだ。

 化心との距離が縮まる。

 相手はまだ怯んだままだ。

 剣鉈を構えて、背後に詰め寄る。

 あと数歩。

 この一撃で、確実に、仕留める。


「〈灼っ斬れ〉——!」

 ——そのはずだった。


 今思い返しても、わたしらしくなかったな、と思う。

 柄にもなく、考え事をしたり、あまつさえそれで感情をざわつかせるなんて。

 結局のところ、誰がどんなことを内に秘めていようが、自分には関係ないのに。

 だって、人の心は読めないのだから。

 どうやったってわからないものを勝手に思案して、勝手に心配して、勝手に恐怖するなんて、馬鹿馬鹿しい。

 わたしにとって化心は、狩りの対象でしかない。

 無駄な思考に振り回されて、仕事に支障をきたせば本末転倒だ。

 どうせ考えるなら、化心の内面なんかじゃなくて、その力について対策を立てるべきだったのだ。

 そんな腑抜けた状態だから——


【イ、タ、イ、ヨ——オ、ヒメ、サマ】

「——っ⁉」


 化心が〝喋った〟程度のことで、足を止めてしまったのだ。




 わたしが逡巡したその刹那、化心は背中の翅を大きく羽ばたかせた。

 翅からは鱗粉のような粉が舞い、それをわたしは思いきり吸い込んでしまった。

 その直後、両足に力が入らなくなり、尻もちをついた。

 立ち上がろうとしたが、まるで脳からの指令を拒否するかのように、自分の腰から下は、一ミリも動く気配がなかった。

 その瞬間に悟った。

 これが小渕の腕を麻痺させた、蝶の化心の力だと。

 まずい、と思った時には遅かった。

 わたしは化心に頭部を掴まれ、持ち上げられた。

 腕だけで必死にもがくが、一切振りほどけない。

 そうして宙ぶらりんになったわたしを、化心は乱暴に投げ飛ばした。

 倉庫の壁に叩きつけられる。ベチャッ、という音が響いた。

「……うぇ」

 砕かれた頭蓋や背中から、とめどなく体液が流れる。

 ぱちっ、とスイッチを押したように視界が真っ暗になり、即座に戻る。

 徐々に全身の傷が塞がり、折れた骨が繋がり、失った血などが補充されるのを感じた。

 自分自身の体質が発動し、回復しているのだ。

 これはすぐに治る類の傷だ。だから、大丈夫。

 問題なのは、完治しているのにも関わらず、相変わらず動かない自分の両足だ。


 ——またドジを踏んだ。


 感じたのは、強烈な自己嫌悪。

 呆れと憤り、様々な感情が自らを苛む。

 本当に、嫌になるくらい、駄目な奴だ、わたし。

 前回は化心の出血に混乱して、今回は言葉を放ったことに戸惑った。

 喋る化心を目の当たりにしたことは、数は少ないものの、あった。

 正確に言えば、言葉のように聞こえるあれも、広義で言えば鳴き声の一種でしかない。

 つまり、珍しい現象ではあるが、驚くべきことではないのだ。

 だからこそ、その程度のことに虚を突かれて、化心の心術の発動を許したのが、余計に腹立たしかった。

 自分の体質では、あくまで物理的な損傷しか治せない。心術によって負った呪いは、大本を断つことでしか、解呪できない。

 そういうわけで、今の状況はかなりまずい。

 なんとか打開策を見つけようとして、考えをめぐらす。

 右手にまだ握られている剣鉈を見る。

 投擲はできるが、それだけでは致命傷にはならないだろう。

「……そうだ。アンプルなら」コートを探る。自分自身は移動できずとも、遠隔で操作できる魔術なら、武器として使えるはずだ。

 しかし、それも無意味だった。先ほどの衝撃で瓶は全て割れ、中身は地面や服に染み出していた。

 カーキのコートが赤黒く染まり、わたしの身に重たくのしかかっているのを、今更感じた。

【ド、コ……ミ、ヅ、キ……イ、タ、イ……ミ、テ、テ……イ、タ、イ、ノ……】

 わたしは、呻き声をあげながら、辺りをぐるぐると周っている化心を見つめていた。

「……万事休す、ですね」

 全身の力が抜けてくる。

 無責任だということは、わかっている。

 このまま放っておけば、長田は確実に殺されるだろう。

 織草帷は、ただ自分が万策尽きたというだけの理由で、巻き込んだ人を、見殺しにするのだ。


【ミ、ヅ、キ……ミ、ヅ、キ……ミ、テ……ミ、テ……】

 化心の声が聞こえる。


【ミ、テ……ミ、テ……ド、コ……ミ、テ……】

 本来、その言葉に意味はない……はずだ。


【ハ、ヤ、イ……ス、ゴ、イ……ミ、テ……】

 だが、言いようのない違和感がそこにはあった。


【ミテ、ミテ、ミテ、ナデテ、ミテ、ミテ、ミテ、ダイテ……】

 さっきから、まるで何かを訴えているような、そんな印象を覚えた。

 見て、速い、凄い、撫でて、抱いて。

 言葉の中に共通する意思を探る。

「化心は、湧き出た心の澱み——」

 そして、葵さんの言葉を反芻する。

 ついに、ある仮説が自分の中で構築された。

 あの化心は、

 もしかして、

「————褒めて貰いたいんですか?」




「当たれっ!」

 化心の注目をこちらに向けるため、持っていた剣鉈を投擲した。

 武器は回転しながら、対象の脇腹を掠めた。

 化心が振り返る。

 蝶の複眼が、わたしを見つめていた。

 敵は、辺りを見回しながら、警戒するような足取りで、こちらの方へ向かってくる。

【スゴイ……ミテテ……イタイ……ナデテ……】

「……恥ずかしいのかもしれませんけど〝そういう気持ち〟って、ちゃんと言ったほうがいいんじゃないですか? こんなに酷くなっちゃう前に」

 強張っていた肩の力が抜ける。

 化心というのは全て、殺意や恨みといった負の感情だけで構成されているものだと思い込んでいた。

 なので、この結論に至った時、わたしは拍子抜けしたし、あの二人はやっぱりお似合いだったんだと、心から思えることに安心した。

 ならば、やるべきことは一つだ。

 ……痛いのは、少し嫌だけど。

 両腕を広げて、抱擁の体勢をとる。

 そうして、思いきり深呼吸をして、身体が震えそうになるのを悟られないよう、どうにか堪えてから、

「——おいで。褒めてあげる」

 と、精一杯微笑んでみた。




【————アアアアアアアアアアッ‼】

 化心の突進が、無防備なわたしに突き刺さる。

 身体の中の臓器が押し潰され、たまらず血を吐いた。

 それでも、両腕を化心の背中に回して、しっかりと抱きしめる。

 化心の身体とわたしの身体が、完全に密着していた。


 薄れゆく意識の中、コートに染み込んだ血液が、化心の身体にも付着しているのを確認すると、わたしは最後にただ一言〈燃えろ〉と唱えた——。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る