◇7

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 事務所に戻ると、ふんわりとピザの匂いが鼻孔をくすぐった。

 葵さんは、ソファーにもたれかかって待っており、入ってきたわたしを見ると「冷めちゃうよ」と笑った。机の上には、未開封のピザが二つ置かれていた。

「先に食べていても良かったんですよ」

「うまく開けられなくてさ。一緒に食べようよ」

「……? まぁ、いただきます。何を頼んだんですか?」

「店で一番売れてるマルゲリータと、店で一番売れてない万博ピザ、ビッグサイズ」

「万博ピザ?」

「色んな国の伝統料理をトッピングしたんだって」

「えぇ、どうしてそんなのを……」

「帷ちゃんが、何が好きなのかわからないから」

「普通のものでいいんですよ」

 万博ピザを開封する。それを一言で表すなら〝混沌〟だった。寿司、ビビンバ、麻婆豆腐、ナシゴレン、パエリア、カレー、トルティーヤ、ボルシチ、他にもいろいろ乗っている。随分と手間はかかっているようだった。

 マルゲリータも開封し、二枚のピザを順に口に運ぶ。どちらも味は悪くない、と思う。そもそも、記憶喪失の身では、何かを良いと思う基準の積み重ねが半年分しかないのだから、食べ物の好みなんていうのは、他でもないわたしが知りたい。なるほど、大げさに言えば、食事という行為はわたしにとって自分探しの一環ともいえる。

 葵さんは、試すようにピザを食べるわたしをずっと見ていた。いつものあの目で。なんだか居心地が悪くなる。

「……葵さんも食べてくださいよ。これ、一人じゃ消費できないですから」

「うん、私もすごくお腹が空いてて、食べたくてたまらないよ」

「じゃあ食べればいいじゃないですか」

「そうしたいのは山々だけどね、腕が動かないんだ」

「えっ」

 これはなかなか不便だねー、と言いながら、葵さんは肩をぶらぶらと揺らした。それに合わせて両腕も揺れるが、肘や指先は一ミリも動いていなかった。

 それを見た瞬間に思い出した。信じられない、といった表情の小渕と、彼が見せてきた腕のことを。

「葵さん。まさか〝入れ替えた〟んですか?」

「そうそう。だって小渕が、ちょっと小突いただけで『俺は怪我人だぞ』とかなんとか喚くもんだからさ。まぁ、魔法陣の処理もさせたかったし、ちょうどいいかなって」

 あまりにもあっけらかんと言うものだから、わたしも驚きを通り越して呆れてしまった。

 わたしの治癒体質が〝体質〟なら、葵さんのこれは〝能力〟と言うべきだろう。代々、化心と戦ってきた織草家の人間には、こういった能力を有している者が多いようだ。彼女は〝心術〟と呼称していた。

 葵さんの心術は〝状態を入れ替える〟というものだ。具体的に何ができるのかは知らない。彼女自身、あまり説明しようとしないし、力を使用しているところもほとんど見たこともなかったからだ(数カ月前に、飲んでいたお茶が急にコーヒー味にさせられたイタズラをされて以来だ)。

 推察するに、今回の場合は、化心の能力によって動かなくなった小渕の腕と、健康な自分の腕の状態を入れ替えた、といったところだろうか。

 だとしても、正気の沙汰ではない。小渕に尻拭いをさせるためだけに、自分の腕を捨てたのだから。

「……なんでそんな無茶をしたんですか」

「君が化け物を退治してくれるのなら、どうせ治るだろうし。別に構わないだろう」

「一生そのままかもしれないんですよ?」

「え? 殺せないの?」

「……殺しますけど」

「ほらね? 問題なし」

「…………」

 ため息が出る。これ以上の問答は不毛だと悟った。

 葵さんには、度々そういうところがある。人間らしく振舞うくせに、容赦のなさという面においては、まるで悪魔のそれだ。仕事をしていくなかで、色々な人間を見てきたが、彼女ほど底知れない存在には未だ出会ったことがない。

 つまるところ、これが織草葵という人間の本質なのかもしれない。彼女は、問題を解決する上では、自分も他人も等価値とみなして勘定をするのだ。それは、良く言えば平等で、悪く言えば無慈悲でもある。

 感情に流されないという意味では、化心退治の仕事というのは、彼女にとっての天職なのかもしれない。

 そんなことをぼんやりと考えていたが、ふと視線を前に向けると、葵さんが口を大きく開けて、時折パクパクと開閉しながら、なにやらアピールをしている様が視界に入った。

「えっと、何してるんですか?」

「わからないのかい? 私は腕が動かせないんだ」

「……それで?」

「あーんしてるから、君が食べさせておくれ」


 ……まるで餌を待つ雛鳥みたいだ、と思いながら、彼女の口に寿司ピザを運んだ。



 夕食が一段落つき、葵さんは満足そうな顔をしながら、コーヒーを堪能していた(もちろん、わたしが注ぎ、わたしが飲ませている。王様か?)。

 わたしたちは、お互いに今日あったことの情報交換をしていた。化心との戦闘、中沢と長田との会話、小渕の部屋で見たもの。そういった全てを葵さんに開示した。

 葵さんはそれら全てを聞いた後、しばらく考える素振りをしてから「さて、どこから話したものか」と呟いた。

「何のことですか?」

「まずは、イルカの正体からかな。君、勘違いしているだろうし」

「正体? あれは、小渕の化心じゃないんですか?」

「違う。いや、小渕が主人ではあるけどね。そもそも、君が戦ったイルカは、〝化心じゃない〟んだよ」

「————は?」

 耳を疑った。

 何を言っているんだ、この人は?

「何を言っているんだ、この人は?」

「漏れてる漏れてる」

「……いやいや、あれは間違いなく化心ですよ。人型イルカで蝶の翅、あれが化心じゃなかったら何なんですか? まさか、着ぐるみを着た人間とでも?」

「そんなことを言うつもりはないさ」

「だったらわたしが戦ったのは、一体」

「正確には私も知らないよ。言っただろ、魔術の類は専門外だって。それこそ魔女の領分だ。ただ、間違いなく言えるのは、イルカが化心じゃないということだけ。あのさ、帷ちゃんは、化心がどういう存在なのか、ちゃんとわかってる?」

「それは、人の心の内側から湧き出た澱み、って」

「そう。溜まっていた負の感情が異形の姿となり、本人も認知しないうちに外に飛び出した存在、まさに心の膿だね。そこでだ、心の内側から湧き出るものなのに、なんで外部から召喚するための魔法陣が必要なんだい?」

「——あ」

「それに、化心は血を流さない。いいかい? 心が流すのは、涙だけなんだ。血を流す時点で、それはもう化心じゃない〝謎の生物〟なんだよ」

 葵さんとの会話を思い出す。

 確かに、返り血を浴びた、とわたしが報告した後、葵さんは〝化心〟という言葉であの怪物を呼んだことはなかった。あの時点で、イルカが違う世界の化け物であることに気が付いていたのだろう。そして、自分の推測を裏付けるために、自ら小渕に近づき、わたしに部屋を確かめさせたのだ。

 化心じゃないのだから、もちろん魔法陣の対処の仕方なんてわからない。だから自分の腕を犠牲にしてまで、小渕に後処理をさせた。自分やわたしが下手に触れれば、何が起きるかわからないから。心術の使用は、あくまでも状況を鑑みた判断だった。

 打ちのめされたような感覚を覚えた。わたしは、決して少なくない数の仕事をこなしてきたにも関わらず、化心の基本概念さえ失念していたのだ。この世界にも大分慣れてきたと自負していたが、全然だと思い知らされた。

「葵さん、わたし、まだまだでした」

「仕事を始めて半年にしては、よくやっているほうだよ。それに今回のパターンは、かなり稀だ」

「はい。まさかあれが化心じゃなかったなんて、異常事態です」

「異常なのはそこじゃないよ、帷ちゃん」

「ち、違うんですか?」

「もちろんイルカの召喚は特殊だけど、魔術の分野なら、無い話じゃない。珍しいのはね、イルカの怪物が化心のように振舞ったことさ」

「……すみません、何を言っているのか」

「つまり、君がイルカを化心だと勘違いしたのは、ある意味当然なんだ。だって、あのイルカは化心の最大の特徴を有していたのだから」

「化心の特徴……それって、見えもせず、聞こえもしないこと、ですか?」

「そのとおり」

 確かに、初めてイルカと邂逅した際、長田にはあれを認識することはできなかった。そうであったからこそ、わたしはあの怪物を化心だと確信したのだ。

 しかし、そうだとするとますますわからない。化心ではないはずのものが、なぜ化心と同じ特性を有しているのか。

 葵さんが口を開ける。喉が渇いた、の合図だろう。わたしは、既に冷めきっていたコーヒーカップを口元に運んだ。「ありがとう」と葵さんが頷く。

 そして、一つ咳払いをすると、彼女はさらなる推理を述べた。

「どうやったかはわからないが、イルカの怪物はある時、化心と〝融合〟したんだよ。〝蝶の化心〟とね。それによって、化心特有の認識阻害の力を得た。そして、蝶の化心の本体は、中沢櫂だ」




「順を追って説明しようか。まず一ヶ月前、中沢は蝶の化心を生み出した。きっかけはいくつかあるのだろうが、まぁスポーツは勝負事の世界だ。『負けたくない』という闘争心が、暴走してもおかしくはない。化心を発現させるほどまでというのは、驚きだけどね」

「イルカよりも、蝶が先ですか」

「そうだ。そして蝶の化心は、小渕の両腕を麻痺させた。そういう能力——心術なんだろう。とはいえ、そのことで中沢を責めることはできないし、裁くこともできないよ。わかっていると思うけど『心を憎んで人を憎まず』だ」

「はい、それはもちろん」化心は、生んだ本人でさえ知覚できない存在だ。人の潜在意識の中に潜む彼らは、誰もが心に持つ悪意などを栄養として喰らい、成長し、願いを歪な呪いとして昇華する。小渕の負傷は、中沢が原因だが、彼が意識的に行ったわけではないのだ。

「化心の暗躍によって、小渕は大会に出ることができず、中沢は記録保持者になった。めでたしめでたし——とはいかない。今度は、小渕の方が黙っちゃいなかった」

 それはそうだろう。小渕は——元来の人間性はともかく——この件に関しては理不尽な目にあった被害者でしかないのだから。

「もちろん小渕は化心のことなんて知らないし、よもや自分の症状の原因が、中沢にあるなんて考えもしなかった。だがそれでも、彼は自分の境遇の不満や苛立ちを、他でもない中沢にぶつけることしか考えられなかった」

「でも、小渕さんは化心を発現させたわけではないんですよね?」

「うん。直接話してみてわかったけど、化心を生み出す土壌としては、彼の感情は強くない」

「強くない?」

「これは私の勝手な推測だけど、もし中沢と小渕がまったく同じ実力をもった選手で、お互いに万全の状態で試合の場に立ったとしても、勝ったのは中沢だろうね。勝利への執念が段違いなんだ。世の中には精神論を軽んじる輩もいるけども、私は、心の強さっていうのは、存外馬鹿にできないと思っているよ。特にこういう世界にいれば、尚更だ」

「小渕さんの部屋には、異常な枚数の新聞記事と写真が貼られてありました。彼は、中沢さんと長田さんに、強いこだわりを持っていたようです。あの思いは、偽物だとは思えません」

「偽物ではないさ。ただ、彼の妬みは〝二流〟なんだ。化心を生むに足るものじゃなかった。熱意なら、中沢のそれには及ばない。残酷なことを言うようだけどね」

 二人の姿を思い出す。

 感情の起伏に乏しく、全てに対してぶっきらぼうな態度をとる中沢と、異常な狂気が漏れ出していた小渕。第一印象なら、小渕のほうが執念の強さは圧倒的に上だと誰もが思うだろう。だが、真実はそうではなかった。化心を発現させたのが中沢の方だったことが、何よりの証拠だ。

「どうして、人の心はこうもわかりづらいのでしょうか」

「感情が読みやすいと、儲からないからだよ」




「話を戻そう。中沢に恨みをぶつけることにした小渕。できれば自分と同じ目に合わせてやりたいと思うのは、自然なことだ。とはいえ、自ら手を下すのは憚られた。そもそも、物理的報復ができる身体じゃないからね」

「それで、黒魔術を使っての復讐ですか? なんだか随分飛躍しているような」

「そうだね。いや、黒魔術を習得するルートは既にわかっているんだ。長田の友人に、オカルトに造詣が深い者がいるだろう? うちの店を勧めた人間だ。長田のストーカーである小渕なら、もちろん、そいつのことも把握していただろう」

「その人に師事して、教わったと?」

「本があったから、独学の線も捨てきれないけど、素人が簡単にできるものじゃない。知識のある協力者がいたとみて間違いない」

「なるほど……いや、でもおかしいですよ。小渕さんの手助けをした人間が、長田さんにハートキャッチを勧めたってことですから……えーと、行動が矛盾しているような」

「君の言う通りだ。だいたい、小渕にしても、復讐の手段として黒魔術を選ぶのは不自然だよ。報復なら、殺し屋みたいなのに依頼するほうがまだ現実的だ」

 病院を出ると、葵さんはすぐに、長田の友人のことを調べたらしい。しかし、その人物とコンタクトをとることはできなかったそうだ。「一旦、長田の友人のことは置いておこう。次に彼女と会ったら、聞いといてくれ」と葵さんは言った。

「とにかく、黒魔術が行使され、成功したのは事実だ。そしてイルカの怪物が召喚された。それが今から一週間前。イルカは言わば、契約した使い魔のようなものだ。小渕の命令に従い、中沢家を襲撃したのだろう。ただ、聞いたところによると、完全にコントロールできたわけではないようだが」

「中沢さんの証言によれば、部屋の中で暴れただけ——そうか、その時点では化心じゃなかったから、姿が見えたんですね?」

「そうなるね。蝶と融合したのは、中沢と邂逅した直後だろう。彼の化心が混じったことで、そいつは見えなくなり、姿も変わったんだ。そして今に至る、というわけ」

 中沢はイルカに手足が生えていることに最も違和感を抱いていた。蝶の目や、翅についての言及がなかったのは、その時点では融合していなかったからだ。

「——さて、主人が二人になり、小渕の命令も聞かなくなったあの半心半妖は、暴走状態にある。関係者以外に被害が出る前に、一刻も早い討伐が求められるわけだ。帷ちゃん、この事件は特例のケースだけども、私の教え子なら、あと三日以内には解決して欲しいね」

「み、三日ですか」

「うん。これも貴重な経験を積むと思ってだ。大丈夫、君ならできるよ」

「……頑張ります」

 正直、わからない点は残っている。葵さんでさえ、全てに説明をつけることはできなかった。今回の事件がイレギュラーというのは、そういった面もあるのだろう。

 それでも、確実に言えるのは、あのイルカ蝶がこの世に生きていてはならないモノだということだ。

 ハートキャッチのスタッフとして、葵さんの弟子として、わたしのやることは変わらない。

 アンプルは効いた、刃は通った。

 ならば、殺せる。


「ああそうだ。帷ちゃん、今日は泊っていってよ」

「えっ」

 わたしが一応の覚悟を決めていた時、急に葵さんに呼ばれて戸惑った。

「……どうしてですか。今日のところは、もう帰ろうと思ってたんですけど」

「何度も言うようで申し訳ないんだけど。私、腕が動かないんだよね」

「…………はい」

 嫌な予感がする。

 その場から後ずさりそうになったが、葵さんの刺すような視線で足を止められた。

 そして葵さんは、とびきりの笑顔を浮かべると「お風呂に入りたいなー」と頼んだのだった。


 葵さんを背負いながら決意する。これがあと数日続くのはごめんだ。

 勝負は明日中につけよう、と。

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