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 木造二階建てアパートの202号室に〝小渕〟の表札は貼られていた。「予備の鍵が郵便受けの中に入っている」と葵さんのメールに書かれていたので、中を探って取り出した。

 ドアを開けて、中に入る。間取りは一般的な1K、中沢家に比べると遥かに手狭だが、むしろ一人であの家に住んでいる中沢が異例なのだとも思った。

 手探りでスイッチを探し、電気を付けると、部屋が明るくなり、全貌が露になった。

 ——そしてわたしは、異様な光景を目にした。




「もしもし葵さん。なんか〝魔法陣〟みたいなものを見つけたんですけど」

『どのくらいの大きさ?』

「部屋いっぱいに。黒いペンキで描いてあります。周りにはろうそくとか、ローブとか、杖とか、なんというか〝いかにも〟って感じです」

『いかにも黒魔術か』

「そうですね。魔術とか呪術に関する本とかも散らばっています。……これすごいですよ『小学生でもわかる黒魔術入門』って」

『最近の小学生は進んでいるんだね』

「時代的にはむしろ逆行している気がしますけど。あとは……いえ、なんでもないです。多分、黒魔術には関係ないですし」

『そうか。ともあれ、これで裏はとれた。イルカを召喚したのは小渕で間違いない』

「そういえば、小渕に会ったんですよね」

『うん、病室に忍び込んで、話をしたよ。彼自身の自供は得られたけど、証拠は必要だからね。帷ちゃんに確かめてもらいたかったってわけ』

「証拠……それが魔法陣ですか。写真でも撮っておきます?」

『確認が済んだなら別にいらないかな、私も専門外だし。とはいえ〝魔女〟にはいい土産話になるかもだ。とりあえず撮っといて』

「わかりました」

『撮るなら早めにね、すぐに消えちゃうだろうから』

「え? それって——」

 どういうことですか? と言葉を続けようとした、そのとき。

 わたしの後ろのドアが思いきり開け放たれ、男が駆け込んできた。

『彼に話は通してある、君が既にそこにいることもね。——ヘイ我がスマホ、通話を終了して』という声とともに、電話が切れた。




 長田から情報を得ていたため、その男が、この家の家主にして中沢櫂のライバル——小渕琉太であることはすぐにわかった。背丈は中沢とほぼ同じ、刈り上げた髪が特徴的な、いかにもスポーツマン、といった容姿だった。

 待ってください、という制止の言葉も聞かず、小渕は一心不乱に魔法陣をかき消していた。何かしらの液体を含ませた雑巾を使って、床を思いきり擦っている。それらの液体の匂いなのか、あるいは溶けたペンキの匂いなのか、部屋が刺激臭で満たされる。たまらず窓を開けた。

「くそっ! くそっ! くそっ! なんで、俺が、こんな、チクショウ!」小渕は、何か色々とわめきながら、床をゴシゴシと拭き続けていた。わたしは、3分の1ほど消え始めたそれを止めることもできず(写真は結局撮れなかった)、逆に加勢するのも変だと思ったので、黙って部屋を見回したりしていた。

 葵さんには報告しなかったが、この部屋には床の魔法陣以外にも異常な部分がある。

 それは、四方の壁一面に貼られた新聞記事や写真だった。記事はいずれも競泳に関するものであり、新進気鋭の選手として小渕が取り上げられているものが切り取られ、飾られていた。中沢を取り上げたものもあったが、記事に×印がついていた。

 そして、写真はというと、ほとんどが長田の姿を写したものだった。明らかに、盗撮されたであろうものも混じっている。誰かと一緒に歩いているものもあったが、その誰か——おそらく中沢だろう——はマジックのようなもので念入りに塗りつぶされていた。

「じろじろ見るな!」と、急に怒鳴られた。床に目を向けると、ぜぇぜぇと息を切らした小渕が、こちらを睨んでいた。魔法陣は、半分以上かき消されていた。

「小渕琉太さん、ですね?」

「お前ら、お前らは頭がおかしいんだよ! 勝手に人の家入って……そうじゃねぇ、一番、イカれてるのは、あの女だ、いきなり病室に来たあいつ、マジでどうなってるんだ」小渕はこちらの質問には答えず、その言葉は不安定で要領を得なかった。大分混乱しているようだ。

「病室に来たっていうと、葵さんですか」

「アオイ、そう、織草葵。あいつ、いきなり俺を壁に叩きつけて、拷問しやがった。首を思いきり掴んできて、窓から落とされたくなかったら、質問に答えろって」

「あの人がそんなに怒るなんて珍しいですね。何やったんですか?」

「知らねぇよ! 『どうやって怪物を呼び出したのか』とか『誰に教わったのか』とか、とにかくいろいろ聞いてきた。挙句、『自分の尻は自分で拭け』って言って、腕を……腕を治したんだよ!」

 そういって小渕は今にも泣きそうな顔をしながら、両腕を見せてきた。事前に聞いた話によれば、両腕は麻痺して動かないとのことだったが、たしかに彼は動かないはずの腕を使って、床を拭いていた。

「治ったのならいいじゃないですか」

「違う! 腕のことじゃなくて! 俺は、こういう、理不尽で、わけがわからないのが、嫌なんだ! 急に動かなくなって、俺の人生、台無しで、それで治って……もう意味が分からないんだよ!」

「えぇ……」

「お前もあの女の同類なんだろ。お前もあいつと同じ、人でなしだ、そうに決まってる」

「…………」

「なんなんだよ、くそ……なんで、俺ばっかり、こんな目に、なんで俺だけうまくいかないんだよ……なんで俺だけが、いつも……、こんなに頑張ってるのに……」

 小渕は一人で俯きながら、ぽつり、ぽつりと、誰に聞かせるわけでもない文句を呟いていた。

 わたしはというと、これ以上長居しても得は無さそうだな、と感じたので、そっとその場を離れることにしたのだった。

 出ていく時も、背後からずっと声が聞こえていた。

 ドアを閉める際、美月、という言葉が最後に耳に入った。




「葵さん。今、小渕家を出ました」

『お疲れ様、事務所に夕食があるよ』

「夕食?」

『ピザの出前を頼んだんだ』

「なるほど、すぐ戻ります」

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