◇4
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——視線を感じた。
続けて、飲み込まれそうなほど重々しい気配も。
時刻は夕方、長田の護衛は順調に進み、中沢の家があるという住宅街を二人で歩いていた、そのときだった。
足を止め、長田を呼び止める。長田は「どうしましたか?」と言いながら、戸惑った表情をしている。
辺りを見回すが、自分たち以外には誰もいない。
しかし、強烈な殺気は依然として自分を刺していた。
身体全体に緊張が走り、息がつまりそうだった。
来る、と思った。
禍々しい何かが、まっすぐこちらに向かってきている。
反射的に、長田を突き飛ばした。そして、突き飛ばした衝撃を利用して、自分も彼女とは反対の方向へ回避する——その瞬間、さっきまで何もなかった空間から〝それ〟は飛び出してきた。
飛び出したものは自分たち二人の間を通り抜けた。
音が聴こえた。風を切る音、そして、ゴッ、と固いものが衝突する音。音の方向へ目を向ける。住宅街において整然と並ぶ電柱、その一部がえぐれていた。そして、今しがたそのコンクリートの柱とぶつかったであろう〝モノ〟は、ゆっくりと振り返って、こちらを向いた。
——その存在を最も簡単で、最も適した言葉で表すならば〝怪物〟だった。
全長3mほどのそれは、全身がくすんだ銀色で紡錘形の体形であり、顔から飛び出した吻の形状も相まって、イルカを思わせた。しかし、そのフォルムから、人間のような手足が生えており、イルカは二足歩行ができるようになっていた。
だが、それをただのイルカの怪物、と呼称することは憚られた。
なぜなら、そのイルカには〝蝶の翅〟が生えていたからだ。
背中から生えた4枚の翅は、鈍い色の身体とは対照的に、夕日に照らされて様々な色の光を放っていた。よく見れば、顔の部分には巨大な複眼と触覚がついており、それらの部分だけを取り上げるならば、蝶、と言えなくもない。
つまるところ、それはイルカの特徴と蝶の特徴を有した人型の何かであり、総括して言えば、怪物なのだった。
しかし、わたしはこの怪物を知っている。
眼前にあるこれこそが、人間の感情の具象、あるいは、心の膿を具現化したもの。
化け物となり果てた心、
突き飛ばされた長田が身体を起こした。そして、わたしと同様に、砕けた電柱を見て、軽く悲鳴を上げた。
「電柱が、割れてる……? な、何が起こったんですか?」
「長田さん、あれがわかりますか?」
「えっ……? どこに、何が」
「……化心が出たんです。あなたには見えていないでしょうけど、今わたしたちの目の前には怪物がいます。おそらく、中沢さんや小渕さんに危害を加えたやつです」
「怪物……けしん……? あの、どういう……」
「詳しい説明はあとでしますから、あなたは一旦ここから離れてください」あっちに行け、と指図をする。ほとんどの人間には化心を認識することはできない。一応確認はしたが、やはり長田は見えないタイプだった。だが、割れた電柱を見て「ただごとではない」と判断したのか、長田は若干よろめきながらも、その場を離れた。
イルカの(あるいは蝶の)化心は逃げて行った長田の方を見ていた。そして、彼女のほうへ向きを変え、体勢を低く構えた。
「まずい——」狙いは彼女か。おそらく先ほどの突進をするつもりだろう、あれが人の身体に当たればひとたまりもない。
急いでコートの内側を探る、そして15cmほどのガラス瓶——アンプルを取り出した。中には、赤色の液体が詰まっている。アンプルの先の蓋を親指を使って折り、中身を空中に振りまいた。赤い水が舞うが、それらが下に落ちることはない。液体は真空中にあるかのように、ふわふわと宙に浮いていた。
化心は今すぐにでも飛び出しそうだった。わたしは浮いている水たちに〈行け〉と命じた。その言葉を受けると、ただ浮いていただけの水が一斉に化心の方向へ進み、ぶつかった。化心の身体が濡れる。
間髪入れずに〈灼け〉と叫んだ。
——直後、わたしの耳に、この世のものとは思えない不快な絶叫が響いた。
【オオオオオオオオオオ‼】
化心の絶叫が続いている。わたし以外には聴こえない絶叫だ。
鈍色の肉体からはジュウ…という音が鳴り、かすかに煙が立ち上っていた。皮膚の一部は赤黒く変色しており、焼け爛れていることが見て取れた。
いつしか絶叫はうめき声に変わっていた。長田に狙いを定めていた化心は、ひゅうひゅうという息漏れのような声を発しながら、わたしをじっと見ていた。
——効いた。手ごたえがあったことに安堵する。化心退治の秘密道具のひとつであるアンプルの中には、わたしの血液を魔術的に加工したものが入っている。それらは先ほどのように簡単な命令で操り、攻撃に利用することもできる。実戦で使用したのは今回が初めてだったが、想定以上の威力だった。
痛みを感じた化心が怒りを覚えたかどうかはわからない。しかし、標的をこちらに変更したことは間違いないようだ。蝶の複眼のような気味の悪い目が、こちらを捉えていた。
再びコートを探る。懐から取り出したのは、漆黒の
化心が突っ込んできた。
間合いに入る、直前、わたしは身を翻し、化心の側面を斬りつける。
「——固い」だが、それは化心の皮膚を撫でるだけにとどまり、深く傷つけるまでには至らない。
続けて化心は両腕を振り上げ、左右の腕を交互に振り下ろしてきた。
わたしは剣鉈を横に構えてそれらを一つずつ防いでいく。そうして攻撃を受け流しながら、隙ができるのを待った。
けれども、攻撃の手が休まることはなく、化心はより速度と威力を上げながら打撃を繰り出してきた。うまく受け流してはいるものの、化心の拳が剣鉈に触れるたびに、衝撃が身体中を駆け巡っていた。
このままでは駄目だ、いずれ受けきれなくなる。
葵さんが言っていた二つの教えを思い出す。
一つは、冷静に相手の力と技を観察すること。
幸いにも、この化心の知能はそこまで高くない、先ほどから単調な打撃を繰り返すだけだ。不意をつけば、大きなダメージを与えられる可能性はある。
【オ、オ……オ、オ……ウオオオオ‼】なかなか攻撃が通らず、化心は苛立っているようだった。片腕ずつの攻めはいつしか両腕を同時に振り下ろすようになり、より直線的になっている。そして威力は上がる一方だった。
もう、防御するには限界だ。
教えの二つ目を思い出して、覚悟を決めた。
化心の腕の振りに合わせて、剣鉈を持っていない方の腕——左腕を差し出す。
攻撃が腕に当たった。
グシャ、と、果実を叩きつけたような音が響く。
「————ッ‼」わたしは、もはや左腕とは呼べないほどに変形した身体の一部を使って、化心の一撃をかろうじて受け止めた。
想像を絶する痛みが脳と神経を犯す。
ショックで一瞬、意識を失いかけるが、理性でそれを抑える。
手ごたえがあったからか、あるいは、予想外の行動をとったからか、化心の攻撃が、一瞬、止んだ。
その隙を突いて、右腕を突き出す。剣鉈の切っ先が、がら空きの胴体を突き刺した。
【オ——】化心が声を出しかける、だが、悲鳴を聴いている暇はない。これだけの大きな化心なら、あと何回か刺突しなければ、殺すことはできないだろう。
二撃目を加えるために、そのまま右腕を勢いよく引き抜いた。
そして、再び構えようとしたところで——。
「——え」
おびただしいほどの〝赤〟が眼前を覆った。
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