第6話 傘をさす女
夜0時ごろ。冷蔵庫を開けたら食べ物はもう払底した。お腹が空いていて寝れない。そんなわけで、ぼくは近くのコンビニに買い出しに行った。
真っ黒な空と真っ暗な団地が混ざり合って、シルエットだけが見える。
団地中央の十字路にいく。そこで左に曲がれば、24時間営業の店がある。そこまで行けば、光っているその店の看板が見える。その光だけでも、心もとない感じもなくなるはずだ。夜道は怖いからね、暗いし、人もいないし。けど、その店に行くと、団地の暗がりを通らないといけない。街灯はあるが、一本しかない。
街灯の方へ振り向くと、そこに一人の女がいた。
団地の群れが墳墓のように並び立っている。
こんなところで何をしているのやら。ああ、なるほど、特殊商売の人か。つまり、あれだ。性欲の処理がしたい男を待っているだろう。
まあ、女は何をしようとぼくには関係ない。ぼくは買い物に行きたいだけだ。
夜勤から帰宅すると、寝るのも遅くなる。
しかし、変だ。女は傘をさしている。
雨が降っているのかと一瞬そう思ったが、降っていない。ないのに傘をさしている。しかもこんな真夜中で。
訳わからない。
女から視線を逸らした。あれは危険な存在だ。心はそう言った。ぼくは早くも家へ戻った。あんな不審なものを見かけたら買い物もしていられなくなる。
しかし、最後の瞬間、あの女に睨まれた気がした。
最近は夜勤の時間がかなり長い。家に帰る時間は11時以降になるほどだ。
あの女はまだいる。いないと思ったら、位置が変わっただけだ。とにかく団地にいる。
なんだろう。だんだんと家に近付いてきた気がする。
はじめは団地町の中央だった。昨夜は大通りの電柱の下、今夜は団地の駐車場。
会社からの帰りは、いつも傘の女と会う。ぼくはあんなモノに近寄ることはできない。ほんの少しでも個体として意識されたら、後戻りのできないことになってしまう。あれは人間ではない、なぜなら、たまに視界から消えるから。そんな前触れもなく消えられるものは人間のできる所業ではない。
しばらく夜勤をやめようと思うけど、あれは仕事だ。やめたら食い扶持の金はなくなる。ならば、なるべくあの道を通らないようにする。うん、そうしよう。まあ、分かるけど、無駄だって。あの女は気づいていないうちに近付いてくる。
ある日の夜、ぼくもあの団地の道を避けてちょっと遠い方のコンビニへ行こうと思った。だけど、傘の女はもう避けられないくらいの距離でぼくの住むマンションの駐車場まで来た。
怖くて気が狂いそうだ。ぼくは家へ戻った。素早く施錠した。窓を閉めた。カーテンを力任せに引いた。
「ぱっ、ぱっ、ぱっ……」
ノックの音が響く。最初は普通のノックだが、だんだん荒々しくなっていて、最後は平手でドアを打つような音になった。
怖くて布団の中に身を隠した。大丈夫だ、ドアはちゃんと施錠しているんだ。
ノック音はおよそ1時間くらい響いた。
翌朝、目が覚めた後、ぼくは周りの状況を確認した。
もう朝8時だ。カーテンは閉まっていたので部屋の中は暗い、暗すぎて何も見えない。ていうかいつの間にか寝ていたし。
もう安全だ。あの女は夜にしか出てこない。
誰かノックをしている。ぼくはびっくりした。
「あの、大丈夫か?」
中年男の声だ。
多分、隣のあのおじさんだろう。ぼくはドアののぞき穴を通して確認する。
よかった。やはり隣の人だ。
「はい、何があったんですか?」
彼は何を確認しているようにドアを見る。
パタっと、ものが倒れた音が聞こえた。俯いて見ると、倒れたのは傘だ。
あれ? 家にそんな傘あったっけ。
男が心配そうに言った。「昨日の夜、誰かドアをノックしたんだよね?」
「あ、はい、多分、近所の子供かと」
ぼくは嘘をついた。
「なぜそんな嘘を」
「う……嘘じゃないよ」
とりあえずシラを切る。ぼくにもどう解釈する方がいいのかわからない。
「……私が出て確認したら、誰もいないぞ……あなたが、ノックしたんじゃないか? 1時間も」
誰もいないのにノックの音が響く。彼はそう言った。
つまり部屋の中からのノック。
馬鹿な。
でも。
目が暗闇に慣れてくると、近くのものもどんどん見えるようになった。
ぼくはドアを見て立ち尽くした。
ドアの上、無数の血の手形が残されている。
あの女は、部屋の中にいる。
絶対に振り向くな!心の中にそう叫んだ。
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