第3話
全長は三メートル程あるだろうか。真っ黒な
その指で、器用にアネモネの首を挟んでいた。
アドニスの存在に気づき、人型がゆっくりと首を傾ける。額から垂れた薄い布のせいで、その顔を拝むことはできない。
「冥獣…… ? だが、なんだあの種類は」
約五年間、アドニスは冥霧を度々探索してきた。
その中で何度も冥獣を目にしてきたが、全てが四足歩行の獣であったのだ。あれは新種だろうか。
視界の端で、手の蝶の紋様が光るのがわかった。
「おいアネモネ、大丈夫か?」
「これが大丈夫に見える…… !? どう見てもダメでしょ…… !」
苦しそうにはしているものの、アネモネは普通に会話することができている。
あの人型はなぜ彼女を殺さないのか。それ以前に、普通の人間であるはずの彼女は、冥霧の中にいて異常はないのか。
いや、今は全部後回しだ。
「待ってろ。今助ける」
それを聞いて、アネモネは幾分和らいだ表情で
アドニスは右手に意識を集中させる。すると、その周りに、白く
これこそが冥獣に唯一対抗できる力、
敵は未知の冥獣。だが、経験上、一対一であれば勝機は十分にある。
拳に力を込め、一歩踏み込む。
そして、人型に向かい一直線に跳躍。一気に間合いを詰める。
あまりの急加速に、人型はまだ反応できていない。頭部ががら空きだ。
「喰らえ」
頭部目掛けて、アドニスが拳を振り下ろす。
渾身の一撃だ。これを喰らえば、どんな冥獣でも一たまりもない。
「なに?」
だが、響き渡るのは、金属同士がぶつかり合うような
アドニスの拳は、目標の寸前で止められていた。人型の長い爪によって。それも、たったの一本に。
「びくともしない…… いや、それよりこいつ、いつの間に爪を……」
「アドニス、避けて!」
アネモネの警告により、残りの爪が襲ってきていることに気づく。
「速い」
アドニスは人型の胴体を踏み台に、大きく後ろに飛ぶ。鋭い風切り音を立て、爪が鼻先すれすれを掠めた。
なんとか避け切れたようだ。
しかし、着地の際、彼は異変に気づいた。しっかりと地面に足をつけたつもりが、バランスを崩し、大きく尻餅をついてしまったのだ。
「なんだ?」
視線を下げ、ようやくわかった。
左足の膝から下がなくなっていたのだ。にも関わらず、アドニスは顔を
「今まで見てきた冥獣の比じゃない。なんだあいつは」
絶対的な力の差。
「このままでは、俺は確実に……」
殺される。
しかし、アドニスの予想は外れた。
人型はなぜか
「おい、どういうつもりだ! なぜ俺を殺さない!」
アドニスが叫ぶと、人型はゆったりとした動作でこちらを向いた。
「まだ俺は戦える。勝手に逃げるなーー」
アドニスは自分の目を疑った。瞬きの後、それの姿は目の前にあったのだ。
それは息のかかる距離まで顔を近づける。そして、愛おしそうに彼の顔に沿って爪を
「ニシノハテ。ソコマデ、タドリツケレバ、オマエヲ、ミトメヨウ」
女性のような高い声を基調にして、そこに複数の低い音を混ぜたような、奇怪な声。
「西の果て? 認めるとはどういうことだ? お前はなんなんだ?」
「ワガナハ、ハオス。コノセカイヲ、ニクムモノ」
「ハオス…… お前があの魔王?」
世界を破滅させた元凶。本当に存在していたというのか。
魔王はそれ以上答えない。それは再びアドニスに背を向けると、彼の元を離れて行く。
「待て!」
その時、魔王に担がれるアネモネと目が合う。こちらの身を案じるようなその顔は、なぜか柔らかな微笑みに変わった。
「アドニス、あなたは生きて! 他にも生きてる人たちがどこかにいるはずだから! そこで、あなたは友達を作って、幸せになって!」
「何を言ってるんだ。俺に友達ができるわけない。俺は化け物だぞ。俺にはお前しか……」
「あなたは化け物なんかじゃないよ! 私の大切な友達!」
「友達……」
アドニスはどうにか片足で立ち上がり、魔王の後を追う。だが、運悪くぬかるみを踏み、勢いよく転んでしまう。
魔王との距離はどんどん離れていく。そして、ついにそれの姿は闇へと消えた。
「アネモネ……」
なぜだろう。身体が、鉛でも入れられたかのように重い。
あちらこちらから冥獣の鳴き声が近づいてきた。
「そうか。俺はここで死ぬのか」
と、アドニスは前方に何かが落ちていることに気がついた。先程、人型を見失った場所だ。
這うようにして近づいてみると、それが一冊の手帳だとわかる。よれよれの革の表紙といい、
「アネモネが落としたのか…… ?」
何の気なしに、ページを開いてみた。が、何も書かれていない。他のページもそうだ。文字どころか、汚れの一つない。
「これは……」
だが、最初のページ。その一番上に、数行だけ文字が並んでいた。
『私からのプレゼント!
色んな人から感情を学んで、その都度ここに記すこと! この手帳が埋まる頃には、アドニスは自分の感情を手に入れられているでしょう!』
このハツラツとした筆跡は、アネモネのもので間違いない。
「これがあいつの言ってたプレゼント……」
アドニスはしばらく動けずにいた。
だが、身体の奥底では、得体の知れない熱い何かが、激しくうねりを打っていた。これが何を意味するのか、彼にはわからない。
「西の果て…… そこに行けば、アネモネを連れ戻せるかもしれない……」
アドニスは近くの木を支えにして、立ち上がる。
時を同じくして、荒い息を立てながら寄ってくる、冥獣の群れ。数は十以上。
正直、勝算はない。
「なら…… 俺はハオスを倒して、アネモネを連れ戻す」
だが、アドニスは死を選ばなかった。足掻こうとした。
感情の萌芽。いや、まだそんな大層なものではない。芽が出る、そのほんの兆しが見えた程度だ。それでも、彼にとっては大きな前進であった。
「だが、今の俺にこいつらの相手は無理だ。ここは一旦
退路を確保しようと、後ろに下がった時。ちょっとした地面の出っ張りに足を取られ、盛大にすっ転んでしまう。
「ぐっ、こんな時に」
また光る蝶の紋様。
そして、不意に生まれた隙を、冥獣は見逃さなかった。巨大な冥獣が、大口を開けこちらに突っ込んでくる。その頭は結晶で堅固に守られている。
「まずい」
立ち上がろうと急いでもがくが、中々上手くいかない。
「俺はまだ死ねない…… アネモネを助ける…… そう決めた……」
だめだ、もう間に合わない。
その時、にわかにアドニスの肩に、ずしりと重さが加わる。
「今度はなんだ?」
振り向くと、目に入ったのは銀色の髪。
あの銀髪の少女だ。彼女がアドニスの肩にしがみついてる。
「お前はさっきの……」
「ママは死なせない」
少女の言葉の後、大きな変化が起きた。
アドニスの右腕が、肩から指先にかけて、真っ黒に染まり始めたのだ。それだけではない。その腕は不定形で、炎のようにゆらゆらと揺れている。
「なんだこれは…… お前、何をした?」
「前」
少女の指差す方を向く。冥獣の鋭い牙は、もうすぐそこだ。
「死んじゃう。倒して」
少女が言う。
そうだ。まずは目の前の冥獣を倒さなければ、自分は死ぬ。そうなれば、感情を獲得することも、アネモネに再会することも叶わなくなる。
「…… ああ」
冥獣が飛びかかってくる。その顔面に合わせて、アドニスは漆黒と化した拳で一撃を放った。
すると、硬い冥獣の結晶部分が、牙もろとも簡単に
が、冥獣は
「やりきれなかったか。それにしても、この力は一体……」
冥獣は荒い呼吸をしながら、こちらを警戒している。
既に頭部の半分ほどが欠損しているが、死ぬ気配はない。それどころか、頭部が徐々に再生してきていた。
「再生が速いな。だがーー」
アドニスは前傾姿勢になり、片足で地面を蹴って加速する。その姿は、腕の黒色も相まって、まるで猛進する一頭の冥獣だ。
冥獣の前足が彼をはたき落とそうとする。しかし、その程度では彼の進行は止められない。彼はその前足を瞬時に破壊し、それの腹面へと滑り込む。
「お前たちの弱点は知っている」
アドニスの手が冥獣の胸を貫く。そして、体内の何かを掴むと、それを強引に引き抜いた。
彼の手が掴んでいたのは、黒い結晶に覆われた球体。それはゆっくりと明滅している。
「終わりだ」
手に力を入れる。すると、球体は黒い
冥獣は弱い唸りを最後に、横に倒れていく。
「倒せた……」
「重い……」
不意に背中の方から、苦しそうな声が聞こえて来た。
「ん、そうか。お前がいたのを忘れていた」
少女は先程から、ずっとアドニスの肩にしがみついていた。よく振り落とされずにいたものだ。
彼は素早く上体を起こす。腕が黒く染まってから、身体が段違いに軽い。
「これはお前の力なのか?」
「違う。それがママの本当の力」
「俺の…… ?」
タイミング的に、少女が何か働きかけていたようだったが。それに、彼女も冥霧の中で生きていられるようだ。
疑問が山積するが、考えている暇はない。四方八方から、残りの冥獣が一斉に突進してきたのだ。
「まあいい。そういえば、お前、名前は?」
「リゼ」
「そうか。助かった、リゼ。お前がいなければ俺は死んでいた」
「リゼ、良いことした?」
「ああ」
アドニスはふと思った。もしかすると、彼女と友達になれるのではないかと。今のところ彼女に、村の人間のような敵意は見られない。友達になれれば、感情のことを学べるはずだ。
彼は一人頷くと、迫り来る冥獣の群れを見据えた。
「待ってろ。先に周りを静かにさせる」
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