第2話
開口一番、少女は妙なことを言う。
「ママがどうした?」
聞いてみたが、少女は答える様子もない。ただ、あまり光の無い金色の瞳で、こちらをじっと見つめるばかり。
「知らない顔だな。お前、どこの家の人間だ?」
この村の人口は百人程度。互いが一人一人の顔を熟知している。
だが、この少女は一度も見たことがない。それに、普通なら冥霧にもアドニスにも近寄るべからず、と親にしつけられているはずだが。
見たところ、彼女はまだ十にも満たないようだ。
所々に傷のついた黒いワンピース。右の横髪は赤い紐で束ねられている。そして、なぜか前髪が二箇所、思い切り反り返っている。
「なぜ答えない」
まさか、言葉が通じていないのだろうか。
「とりあえず、そこから離れろ。お前のような子ども、冥霧に入ったら一瞬で死ぬ」
こちらは案外素直に聞き入れてくれ、少女は両足で跳ねるようにして、アドニスの方へ近寄った。
「そしたら、さっさと自分の家に戻れ。アドニスには近寄るなと教えられているだろ」
「ママ…… アドニス…… ?」
また意味のわからないことを。
アドニスは静かに立ち上がる。
「俺が連れて行ってやる。どこから来たか教えろ」
少女は一瞬首を傾げた後、なぜか冥霧の方を向く。そして、あろうことか、まさにそちらに向けて指を指したのだ。
「冗談か? 俺はそういう面白さとかはわからない」
しかし、少女は一向に指を下ろす気配がない。
どうするべきか。考えあぐねていると、ふと少女の異変に気がついた。
「翼…… ?」
間違いない。少女の背中には、右側にだけ小さな翼が生えているのだ。しかも、それはぴょこぴょこと動いているではないか。
「鳥でも埋まってるのか?」
アドニスは試しにその翼を引っ張ってみた。だが、全く抜けない。
「痛い」
「本当に生えてる…… お前何者だ?」
そう尋ねると、突然少女はこちらに振り向いた。しかし、その目はアドニスではなく、その奥を見ているようだ。
「ウルカヌだ」
少女が口にした言葉に、アドニスはしばらく理解が追いつかなかった。
「今なんてーー」
と、にわかに村の中心部が騒がしくなってきた。
騒ぎは徐々に大きくなっていき、人々が驚く声と共に、ただならぬ悲鳴までが聞こえてくる。それらの内の一際大きな声が、アドニスの耳に届いた。
「あれって、ウルカヌ!?」
「おいおい! 生きてたのかよ!?」
今、確かにウルカヌと言っていた。
「親父が生きてた…… ?」
アドニスは少女のことも忘れ、騒ぎの方に向かった。
村の中心部、広場の方ではかなりの人だかりができていた。村のほぼ全員が集まっているのではないか。
そんな彼らの視線の先。人だかりから外れて、ぽつりと立ち尽くす者がいた。
歳の割に、筋骨のたくましい身体。長く癖のある赤毛。生まれつき片足が悪いために、独特な歩き方。
全てが記憶に残るウルカヌの像と一致していた。
「親父……」
だが、なぜだろう。あれをどうしても父として認識できない自分がいた。
生気のない顔。その半分には黒い結晶が、肩までびっしり生えていた。冥獣と同じ症状だ。普通の人間なら死んでいてもおかしくない状態。
それだけではない。もっと別の何かが、本当のウルカヌとは違っているような気がした。
「アドニス!」
声の方を向くと、すぐ近くにアネモネがいた。
「アネモネ。本当に親父がーー」
「何かおかしいよ! 確かにあれはウルカヌさんなんだけど、何か違うというか……」
言葉で表せないが、アネモネも何か異変を感じているらしい。
そうこうしている内に、ウルカヌの前に一人の男が進み出た。村長だ。
「止まるんだ、ウルカヌ! その結晶、冥獣のものだろう! その姿で歩き回られては困る! まずはフォーチュナーさんの所で見てもおう! いいな?」
少々及び腰になりながらも、懸命にウルカヌの説得を試みる村長。これでとりあえず一段落つくだろう。
しかし、事はそう簡単に運ばなかった。ウルカヌがこちらに向け前進を始めたのだ。
「おい! 止まれと言っているのがわからんのか!」
村長の叫び声に、周囲が再び大きくざわめき出す。
「アドニス! 止めに行かないと!」
初めて見るアネモネの切羽詰まった表情。
このまま見過ごしてはいけない。アドニスは頷くと、夢中で人混みの中に突っ込んでいった。
「どけ、道を開けろ」
人混みをかき分け、奥へ奥へと進む。だが、
「ウルカヌ! どこへ行く気だ!」
前方から村長の声。
しかし、前の人たちが邪魔で、何が起きているかは確認できない。
「お、おい! そ、それ以上動けば、命の保証はできないぞ!」
物々しい言動から、事態が悪化していることだけがわかる。
その時、人混みの終わりが見えた。アドニスは手荒に人々を押し退け、一気に前へと進む。
視界が開けた。
「親父」
数メートル先で、ウルカヌは既に立ち止まっていた。
槍を構えた数人の男たちに取り囲れている。そして、彼の目の前には、三つ足の鉄製の器に乗った、大きな白い鉱石が。
「灯晶塊…… 何をするつもりだ?」
嫌な予感がした、その時だった。
ウルカヌの顔がこちらに向いた。死人のように
予期せず果たした四年ぶりの再会。何を言えばいいのか。
「悪いな…… 全部嘘だ……」
ウルカヌは
「なに?」
「お前はただ突き進め…… もう決して立ち止まるな…… 後は頼んだ……」
聞き返す暇もない。
ウルカヌは前に向き直るや否や、灯晶塊に手を伸ばした。
「待て、親父ーー」
「貴様! それに触れるな!」
村長の怒号の後、数本の槍が一斉にウルカヌを狙う。
沈黙が訪れた。誰も彼もが言葉を失った。場違いに心地よい微風によって、動かなくなった彼の赤毛がそよぐ。
そんな無音の中、薄氷にヒビが入るような、微かな音が耳を
「なんだ?」
音は次第に大きくなっていき、ついには周囲に響き渡るほどに。
そして、皆がようやく気づいた。灯晶塊に大きな裂け目ができていたのだ。そして、次の瞬間。
「そんなバカな…… 灯晶塊が!」
村長が叫ぶ。
「砕けた……」
巨大な塊は粉々に砕け散り、地面にこぼれ落ちていく。これまで傷一つ付かなかった灯晶塊が。
「大変だ! 冥霧が! 冥霧がこっちに迫って来てるぞ!」
誰かが発した言葉に釣られて、アドニスも村の外を見る。
その光景はまさに絶望だった。
百年以上の間、見えない壁に阻まれていたはずの冥霧。それが今、境界線を越え、こちら側に侵入してきていたのだ。
死を想起させる黒が、次々と家屋を
「そんな…… あっちには妻が……」
「に、逃げろ!」
「逃げるって、どこに! ここは冥霧に囲まれてるんだぞ!」
慌てふためく者、その場に倒れ込み泣き叫ぶ者。
おそらく数十秒後には、ここも冥霧に飲まれるだろう。
そんな中、アドニスは一人その場に立ち尽くしていた。
父が目の前で死に、彼の為に故郷が滅びようとしている。村の全員が死ぬ。
それなのに、何の感慨も湧かない。無表情のまま。ただ、それらを少しの色付けもない、単なる事実として認知するだけ。
「俺は何をすればいい……」
単純にアドニスは混乱していたのだ。彼にはこの事態を
「そうだ、アネモネ……」
アネモネに会って、何かが変わるわけではない。それでも、彼女なら何か助言をしてくれる気がした。
それで、辺りを見回していると、膝を突きうなだれている村長が目に入る。
今はあんな人間より、アネモネを探してーー
『まずは村長と仲良くなること』
不意にアネモネの言葉が
「おい、村長」
村長が青ざめた顔を上げる。目が合うなり、彼の顔は激しい怒りによって歪んだが、すぐに死人のように
「消えてくれ……」
「だめだ。お前の役に立ちたい。何かできることはないか?」
「そう思うなら、わしの前から消えてくれ……」
「そうすれば、俺と仲良くする気になるのか?」
村長は力なく笑う。
「だから、貴様は化け物なんだよ」
直後、村長の後方から冥霧が押し寄せ、彼の身体を呑み込んでいった。
「化け物……」
気がつけば、アドニスの視界は一面黒に染まっていた。冥霧は既に村全体に及んだらしい。
さっきまで盛んに聞こえていた、人々の生へ
皆死ぬのだ。アネモネも。もう彼女声を聞くことも、あの笑顔を見ることも叶わなくなる。
「きゃぁぁぁ!」
突如遠くから聞こえてくる悲鳴。アドニスは辺りを見回す。
「今のは、アネモネ…… ?」
「やめて! 離して!」
また聞こえた。間違いない、アネモネの声だ。
思考より先に足が動く。数メートル先しか見通せない中、アドニスは声の方へと急いだ。
限られた視界に常に映るのは、死体、死体。ほんのついさっきまで生きていた人たちだ。
「アネモネ、どこだ?」
「アドニス…… ! 助けて…… !」
先程よりもか細い声。
だが、声はもうすぐそこだ。
「今行く」
声の方に突き進んでいき、ようやく見つけた。大きな人型の何かに、首根を掴まれているアネモネを。
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