四日目 協力してしまった

 まるで頭が割れるような痛みだ、とはよく言ったものである。


「とはよく言ったものだな」

「38℃もあるじゃない。もう話さないで寝ていたほうがいいわ」

「今日は…植物園に行く、ゴホッゴホッ」

「もうそんなことは良いから、ベッドに寝て」


普段なら楓のか弱い腕力で玲音を無理やりベッドに寝かしつけることは不可能だ。

しかし、夏風邪で玲音が弱っている今、楓は容易に友人を押し倒すことができた。


「何か食べたいものはある」

「…特にない」


その時、玲音が激しく咳き込み、苦しそうに顔を歪めた。


「そんなこと言わないで。なにか食べて力をつけないと治るものも治らないよ」

「……お粥が食べたい」

「はいはい、今日の玲音ちゃんは人のお話が聞けて偉いですね〜。ママは嬉しいです

よ〜」


ここで飛んでくるであろうツッコミがないのは玲音の身体が病に侵されていることを雄弁に語っている。

人と打ち解けることが苦手な楓にとって玲音は特別な存在だ。

背中を押してくれるでも、前から引っ張ってくれる人でもない。

ただ、横にいてくれる、そんな人だ。

そんな友人を看病するには、


「お粥か……」


簡単なお粥なら何度か作ったことがある。

しかし、栄養を取らせる目的の、いわゆる病人食は作ったことがない。

スマホを取り出し、調べようとしたところで楓はふと手を止めた。

「貴浩さんなら詳しいかも…」

海の家での仕事がなければ、もしかしたら手伝ってもらえるかもしれない。

浮き立つ心を抑えられずに、少しトーンの上がった声でフロントに電話をしてしまったのは玲音に聞かれてしまっただろうか。


 人は待たしても粥は待たすな、という諺がある。

炊き上げてから時間がたつとお粥はどうしても糊状になってしまう。

ドロドロ、ネバネバのご飯を病人に食べさせるわけにはいかない。

だからこそ、粥を待たせてはいけないのだ。


◇◆◇◆◇◆◇◆


 閑散とした緑園荘のロビー。

モーニングコーヒーを愉しむ老年の夫婦とバックパックを抱えている金髪の外国人、そしてワンパクな子供を追いかける母親。なんとも平和な朝だ。

大窓から見える海は空を映しているかのように水色に瞬き、多くの海水浴客が日光と砂浜を楽しんでいるようだ。


「すみません、吉田貴浩さんは…」


受付にいるスタッフに楓は訊ねたのだが、途中で恥ずかしくなってしまった。

だが受付にいる女性はそれだけで察したらしい。


「貴浩さんなら海の家に行かれましたよ。何かお伝えしましょうか」

「あ、その、大丈夫です。でも、もし電話番号を知っているなら教えてくれますか。別に怪しい目的とかではないのですが……」

「…なーるほーど」


何かを悟ったのか受付嬢はニンマリと笑みを浮かべてスマホの上に指を滑らせた。

そしてメモの上にペンを走らせて何やら書き込む。


「これが貴浩さんの電話番号でこっちがメールアドレス。そしてこの日付が誕生日、ちなみにこっちのは次の有給休暇。あと…」


スマホの画面を楓に向ける。


「これがLIMEのQR...早く、スマホ出して」

「は、はいぃ」


言われるがまま楓はジーンズのポケットからスマホを取り出すと、LIMEを開いた。


「こっちがFACEBOK...それで、これがINSTAGRANだから」


次々とQRコードが出されるたびに楓は写真の機能を使用して一つのアカウント登録していく。


「私、あの!」

「どうかなさいましたか、お客様」

「ただ電話番号が知りたかっただけで…SNSのアカウントを教えられても」

「お客様は貴浩さんのSNSが気にならないのですか」

「……」


「自分に正直になることが大切だと私は思います。差し出がましいとは重々承知ですが、知っておいて損はありませんよ。あ、もうすぐ朝の仕込みが終わる時間ですね。ご用件があるのでしたら、今がチャンスですね。そう、チャンス」

何かを勘違いした受付嬢から一刻も早く離れるべく、楓は頭を小さく下げるとスマホを大事そうに抱えて自室に逃げ帰った。


◇◆◇◆◇◆◇◆


 うだるような暑さ、もう汗すらかけないほど消耗していた時、天から声がかかった。

天ではないが。


「貴浩くん!ちょっと休憩しよや!」


一昨日からの修復作業がひと段落したところでオトヨさんが貴浩に言った。

暴風は海の家の屋根や壁を破壊ていた。

昨日はトタン板で仮補強していたらしく、朝一番からベニヤ板を片手に、もう片方にはトンカチを持ち、なんとか日差しを防げるようにしたのだった。

我ながら満足できる出来栄えだが、その代償として貴浩とオトヨは汗だくになっていた。


「塩アイスもらいます!バイト代から払っておいてください!」

「それっくらいいよ~。貴浩くんのおかげで綺麗さっぱり直ったんだからね」

「それじゃ、ありがたくいただきますね」


口に塩アイスをくわえると、貴浩は海の家で最も涼しい場所に向かった。


「やっぱここだよな」


レンタルしているサーフボードに背を預け、大海原に己の身体をされるがままに。

灼熱の陽光も肌にまとわりつくような暑さもここでは意味をなさない。


「あれ、誰だろう」


塩アイスを半分食べ終えたところで、貴浩は見知らぬ番号から電話が数件かかってきていることに気が付いた。


「こういうの返すか迷うよな~」


だが、同じ時間帯によく知っている人物からLIMEが入っているのも知った。

その内容を読んでいくうちに貴浩は自分の心拍数が急上昇していくのを感じた。


「……マジかよ」


対面で人と話すのは緊張しない。

だが、電話越しとなると無駄に緊張してしまう人は多いはずだ。

貴浩もその例外にもれず、電話を苦手としていた。

その時、某有名な映画のテーマソングと共に、再び謎の番号から電話がかかってきた。

数コール流したところで貴浩は覚悟を決める。


「もしもし」


裏返った声はもう相手に電波として届いてしまった。


「はひぃ」


だが、心境は二人して同じようだ。


「ど、どうしたの。いや、どうしてもこの番号を」

「あ、あのあの、今お時間ありますか」

「うん、あるけど...」


絶妙にかみ合わない会話のせいか微妙な沈黙が訪れる。


「実は...」「だから...」


再び、沈黙。


「どうかしたの」


精一杯の理性を用いて貴浩は声をかける。口調が普段より砕けているのはご愛敬だ。


「実は玲音が風邪を引いてしまいました」

「昨日、雨に濡れたのが原因ですかね」

「それは分からないんですけど、彼女らしからぬ言動でとても辛そうなんです。それで何が食べたいと聞いたらお粥が食べたいらしくて…緑園荘さんにお願いしようかと思ったのですが、貴浩さんにお聞きするのがベストかなって…ご迷惑でしょうか」

「迷惑だなんてそんなことありませんよ。こっちはもう一段落して、今は海にぷかぷかと浮いているだけなので、すぐに向かいますね」

「で、でも、海の家でのお仕事はどうなさるんですか」

「店長に言えば休ませてもらえますよ」

「作り方を教えてもらえたら…」

「友人が大変なことになっているのに、突き放したりはできません。それとも、友人だと思っていたのは僕だけですか」


真っ直ぐな貴浩の声音に楓は思わず首をすくめた。


「と、友達でお願いします」

「それじゃ、今から戻りますね。それと今から言うことをメモして僕の妹に渡してくれますか」


岸に大急ぎで泳ぎだしつつ、貴浩は必要な材料を頼んだ。

スマホが防水でないことも忘れて。


◇◆◇◆◇◆◇◆


 用意された食材を見て楓は慄いていた。


「あの…お粥を作られるのですよね」

「ええ、そうですよ」


屈託のない笑みを浮かべた貴浩が長ネギを持ちながら言った。

――ネギが似合う男の方…


「もしかしたら、玲音さんに何かアレルギーでもありましたか。予約情報には特に記載がなかったので適当に集めてしまったのですが」


適当でこうはならないでしょう、と楓は内心で激しく突っ込んだ。

大きめのテーブルには所狭しと鮭の切り身、大葉、ネギ、ミョウガ、梅、海苔、昆布。程よく焼けた肉、熱々のたこ焼きに加えて何かの佃煮と何かの乾きがある。

一瞬、もしかしたらこんなお粥がどこかの郷土料理にあるんじゃないかと疑いもしたが、それはないと秒で打ち消したのだった。


「いつもなら炊飯器を使うんですけど、今日は土鍋で炊きましょう。水分の調節が楽ですし、何より美味しいですから」

「分かりました。何から始めればいいですか」


正直なところ、楓は包丁を握ったことがないと、言っても過言ではないほど料理が苦手だ。

家庭科の授業は下から数えたほうが早いほど酷いものだった。


「まずはお米を研ぎましょう。五回ほどがベストですが、まだ水が白濁しているようでしたら続けて洗ってください」

「はい」


楓はカーデガンの裾を捲ると米を水に浸した。

そして手を入れると、痺れるほどの冷たさに思わず悲鳴を上げる。


「山脈から流れる雪解け水を汲んでいますから冷たいですよ」

「先に仰ってくださいよ」


口を尖らせて文句を言う。

再び、次は慎重に、手を米の中に沈めるとゆっくりとかき回してゆき、最後に水を捨てる。

五回繰り返すと米は透明感を帯び、洗い終えた水も綺麗になった。


「終わりました。つぎはなにをsじたらいいですか、先生」

「先生?」

「今だけ料理の先生です」

「それじゃあ、生徒の楓さんはお水を600ml、土鍋に入れてくださいね。計量カップを使うと簡単に測ることができますよ」


楓が眉を曇らせる。


「あの、この計量カップは500mlまでしか測れませんが…どうしましょうか」


貴浩は思わず顔を背け、人に見られたら絶妙に嫌がられる笑顔をなんとか隠した。

これは反則級の可愛さだ。

大の男が同じことをすればふざけているのかと怒鳴りたくなるが、困り顔で訊ねてくるちょっと気になっている人なら話しは別だ。


「生徒さん。600から500を引いた余りを二回目で入れる、という画期的な方法がありますよ」

「……」


そこでようやく、楓は自分が初歩的なミスをしていることに気が付いた。

計量カップを持つ手が羞恥心のために揺れている。


「…ちなみに、水を多めに入れると少しやわらかめのお粥になります。玲音さんの好みに合わせて調節すると良いですよ」


ちょうど500mlの水を入れ終わったところで、貴浩がアドバイスをする。

病人食の代表といっても過言ではないお粥。そのアレンジ方法は無限だ。


「咳き込んでいたので喉が腫れているんだと思います。だから、優しめのご飯にしたら食べれるかもしれません」

「じゃあ、あと100ml分水を足しましょう」


少し手を震わせながらも、楓はしっかりと自分の仕事をやり遂げた。


 適切な量の水を入れた土鍋をコンロの上に乗せてから点火する。

中火で八分間火にかけた後、15分間さらに弱火でじっくりご飯を炊き上げる。中火から弱火にする際は土鍋から白い煙が出ているか確認することが大切だ。

最後に30分間蒸らせば、誰もが頬を緩めるようなお粥の出来上がりだ。

事前にお米を水に浸けておくこともお忘れなく。


「うわ〜、こんなに甘い香りがするんですね。初めて自分でご飯炊いてちょっと感動してます」

「もしかして、楓さんって凄いお家のお嬢様だったります?」


貴浩にとっては冗談のつもりだったのだろう。

しかし、楓の表情に影がさし、心なしか瞳が冷たくなった。


「そんなことはないですよ。どこにでもいる、普通の家で育ちました。ただ…母が過保護で、あまり料理をさせてくれなかったんです」

「あ、トッピングは好きにしてくださいね……それじゃあ、楓さんの家と自分の家はまるで正反対だ。自由奔放な家族に囲まれて、自分の道は自分で決めろって小学生の頃から言われてましたね。少し寂しかった記憶とセットですけど」

「こういう時、人のことが羨ましくなってしまうのって……なんでかな」


隣の花は赤い。

だが、その答えはどこか突き放した感じになると悟った貴浩は慎重に言葉を選んだ。

感情の機微には敏い。そうやって生きてきたから。


「羨ましく思っていいんじゃないかな。ほら、デザートを二人で分ける感じ…分かるかな?」


人の機微は分かるが、それを理解したところでどうこうできるほど貴浩はボキャブラリーを持ち合わせていない。

ソワソワしながら、失敗したかという気持ちが頭を過りながら待っていると、唐突に楓が笑い出した。

意味がわからずただ呆けていると、笑いすぎて涙目になっている楓が答えをくれた。


「そ、そんな真剣な顔で話してるのにデザートを分けるなんてこと言う出すんだもん、ハアハア、お腹痛い」


どうやら笑いすぎたため横隔膜がイッてしまったようだ。

急にフェーズアウトした笑いだったが、下降気味だった気分はフェードインしてくれたようだ。


「刻みネギと卵。オーソドックスだけど良い選択だね」

「あ、もうこんなに時間が経ってるんですね!貴浩さん、海の家の方は本当に大丈夫なんですか?」

「う、うん。店長は理解のある人だし…すぐに戻れば怒られないかな」


時計は十時を指している。

そろそろ大勢のお腹を空かせた海水浴客達が海の家に襲来する頃合いだ。


「は、はやく戻ったほうがいいですよ! 私のせいで貴浩さんが怒られるなんて、そんな」

「そうだね、車で飛ばせば十分で着くからまだ間に合うはず。それじゃあ、の前に食器類は厨房に行って借りてくれば良いよ。食材を運んでくれた人、あれが自分の妹なんだけど面倒見は良いから安心してね。それじゃ!」


電源を落としていたスマホを起動させた瞬間、画面に飛び込んできた大量の不在着信に恐れをなし、貴浩は大慌てで部屋を出ていった。

残された楓は一瞬戸惑ったが、あまりにもおかしくて声を上げて笑ったのだった。


◇◆◇◆◇◆◇◆


 「楓がお粥を作った。しかも、怪我をしていない……男の匂いがする」


熱冷ましシートを額に貼り付け、本格的に病人顔になっている玲音だったが、解熱剤のおかげで朝より幾分か楽そうだ。

安心した楓は土鍋からお玉を使ってお粥を器によそると、息を吹きかけて冷まそうとする。


「男の匂いって…また熱が上がったんじゃない」

「いや、朝より下がってる。それより私の知らないところでイベントが発生していることに納得がいかない…おい、そんなに冷まさなくても食べられるぞ」

「ただ単にお粥の作り方を教えてもらっただけだよ…玲音は超がつくほどの猫舌じゃない」


適度に冷めたお粥を玲音に渡し、ついでに熱冷ましシートも交換する。


「ネギの切り方が素人そのものだし、卵は玉になりすぎてる……けど、美味しい」


何か言わないと死んでしまう、と本人が言う通り玲音は素直になれない。

だが、そんなことは長年の付き合いで知っている。

お互い様だ。


「ねぇ、玲音」

「どうした。面倒な話しか」

「たぶん」


数秒間、玲音は己の中にある天使と悪魔が葛藤したが、すぐに答えは出た。


「お粥を作ってもらったからな。話ぐらい聞くさ」


だが、いざ話すとなるとなかなか切り出せない楓は口を開いては閉じ、開いては閉じてを繰り返している。


「嫌なことでもあったんか」


こういう時、楓は大抵身の回りに起きた”嫌”なことを話す。

しかし、頭を横に振ると楓はそろりと言葉を紡いだ。


「私のこと、話したくなった」

「ほぅ、それはまた…」

「よく分からないけど玲音の時と同じ感覚なんだ、今」

「そっか」


玲音の返事は素っ気ないように感じる。

けれど、その中に包容されている意味はまた別だ。


「まだ決めてない。でも、たぶん……大丈夫な気がする」

「そうだな」

「うん」

「決めるのは楓だよ。私はこの通り、熱で頭が働かないからね」


その時、ピロンっと楓のスマホから着信音が聞こえた。


「んー、どうした……おいおい、ちょっと待て」


画面を眺めていた楓の表情が次第に強張っていき、遂にはあの玲音ですら恐ろしく感じるほどになった。


「玲音!」

「なんだよ、肩揺らすのやめろって。こちとら病人だぞ」

「明日までに」


楓が一呼吸つく。

表情は完全に覚悟を決めた人間だ。


「絶対に風邪治してね」


あまりの気迫に玲音はただ頷くことしかできなかった。

ベッドに転がったスマホの画面には、貴浩から納涼祭への誘いが書かれていた。

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