三日目 知ってしまった
「昨日の風雨のせいで海が濁って今日はお客様が殆ど来ないと思うんだよ。貴浩くんが来たらバイト代を出すだけで大赤字だから今日は来なくていいよ」
「雇用者としてそれはどうなんですか。いや、雇用者以前に人間として」
「貴浩くんは緑園荘で働けるから良いじゃないか。それじゃ、明日はお願いするよ」
「はぁ、分かりました。人手が足りなくなりそうなら呼んでくださいね、店長」
「心遣い感謝するよ」
ぷつりと切られた電話を片手に貴浩は緑園荘のフロントで頭を抱えていた。
昨夜は大荒れの天気だった。
海が濁ってしまえば必然的に海水浴客は少なくなってしまう。
「今日こそ本当に厨房を手伝わされる。麻沙美は鬼だからなぁ」
決して貴浩は料理が下手なわけでも、厨房に立つ資格がわけではない。
むしろ、思わず料理に己の創造性を加えてしまう麻沙美より実直に、丁寧に料理をするため、厨房の従業員からは常に歓迎されている。
海洋生物から動植物、香草などにも精通しているので適切な処理ができ、なおかつ幼い頃に仕込まれた包丁さばきは可憐そのものだ。
しかし、厨房の仕事は忙しく、休む暇もない。
日々、海の家で肉体を酷使している貴浩は極力、休みの日には体力を温存したいと考えていた。
「厨房は一度入ると逃げ出せない…今日は有給申請しようかな」
その時、貴浩はフロントの受付嬢から冷めた視線を浴びていることに気がついた。
どうやら辛気臭い顔でいられると仕事の邪魔になるようだ。
「ごめん、電話貸してもらって」
「バイト先の店長からのお電話でしょう。貴浩さんがプライベートナンバーを教えて差し上げれば、毎朝この時間に下に降りてこなくてもいいのでは」
「そうでもしないとベッドの中でゴロゴロしちゃうからね。メリハリつけなきゃ」
「麻沙美さんが部屋に乗り込んでくる方が早いと思いますよ」
「そうだね……ところで藪から棒に申し訳ないんだけど、なんか僕でもできるお仕事あるかな。実は今日も店長から海の家に来なくていいと言われてしまって」
頬に人差し指を当て、貴浩より背の低い佐藤瑠麗は考える素振りを見せた。
そんな姿が似合うのは世界でもこの人を含めてそうはいないと貴浩は考えている。
なぜ、こんな宿の受付嬢をしているのか時々分からなくなる。
「女将さんに尋ねられてはいかがですか」
「それは、ちょっと…色々と察してください」
「……あっ」
「何かありましたか!」
わざとらしく、右手のひらに握った左手を当てて閃いたという演出をするが、彼女らしいといえば彼女らしい。
「今朝、ナイチャーツアーに申し込まれた方がいらっしゃいました。貴浩さんならツアーの案内ぐらいできますよね。易易たる」
「できますよねって、本当はそっちの方が本職ですけど。夏場は虫が出るから申込みが少なくて…なんですか、いいたるって」
「ここの山林は樹海のような雰囲気もありますし、水も綺麗なのに参加者が少ないのは残念ですね。私も小さいときによく遊んでました。易々たるとはお茶の子さいさいという意味ですよ。勉強不足ですね」
「知りませんよ、そんな言葉……あれ、瑠麗さんってここの出身でしたっけ」
「いえ、おばあちゃんが住んでいたんです。海の幸も山の幸も、同時に楽しめるなんて一石二鳥ですよね」
ここら一帯は自然の恵みを享受して栄えた、いわば自然と共存している場所だ。
都市圏からのアクセスも良く、新幹線の停車駅もあるため一年中賑っていた。
「たしかに、両方楽しめるのは珍しいかもしれませんね。最近はアウトドアスポーツも盛んですし、もっともっと地域が活性化すればいいのですが……それで、ツアーは何時からの予定なのか知ってたりします」
「午前11時に出発して自然を満喫した後、山麓にあるそば屋に行かれるそうです。そこから更にもう一時間のコースですね」
「合計二時間か。滝まで行って引き返してそば屋、そこから別コースで戻るのが良いかな」
「それは貴浩さんにお任せします。もし、入山されるのでしたら事務に行程表を提出してくださいね」
「了解です。ありがとうございます」
ツアー客の年齢や性別、装備などによって柔軟にコースを変えるのが貴浩の主義だ。
適度な運動をしながら雄大な自然を肌で感じて欲しいと考えていた。
事前に申し込みがあるならば、必ず事務室に連絡がいっているはずだ。
情報を求めて、貴浩は緑園荘で最も忙しい部署に向かったのであった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
皆様にはモーニングルーティーンがありますでしょうか。
私にはあります。
友人の萩谷玲音さんが仰られるには人様にお見せできないものらしいのですが、今日は特別にこの場を借りて皆様に打ち明けておこうと思います。
幼少期をヨーロッパで過ごした私は朝はゆっくりと過ごしたいと思っております。
ですので夜は10時に就寝し、朝は4時に起きるように習慣づけております。
起床しましたらまずはシャワーを浴びます。
唯一、人様に自慢できる長い髪に潤いを与え、お肌のケアも怠りません。
一時間ほどでシャワーと洗顔を終えたら、バスローブを着てスムージー作りを始めます。
あ、たまにバスローブを着るのを忘れてしまうのは秘密ですよ。
普段はフルーツスムージーを作っているのですが、今日は吉田貴浩さんから頂いた夏野菜を使って身体が喜ぶヘルシーなスムージーを作りたいと考えています。
包丁を使ってナス、トマト、ピーマン、カボチャ、キュウリ、とうもろこしを一口サイズにカットします。
とうもろこしは事前に茹でておいてくださいね。
適量をミキサーに入れた後、水とお好みで牛乳や男性ならプロテインなどを入れます。
スイッチを入れたら後は放っておきましょう。
「おはよう」
「おはようございます」
玲音さんは下着姿で就寝されるのですが、お身体を冷やさないかとても心配です。
それに万が一の時にその姿で就寝していると人に知られたらどうするのでしょうか。
「何入れたのコレ」
「夏野菜です。玲音も飲んでみますか」
「いや、私は遠慮しとくよ。それより楓の化粧水使ってもいいか。昨日、温泉に置いてきちゃってさ」
「ええ、どうぞ。洗面台の中にありますから」
「ん、あんがと」
玲音さんは私と違ってキリッとされた男勝りな方。
友人たちによれば、おっとりしている私。
正反対な二人ですが、なぜか馬が合い、こうして一緒に旅行をしているんです。
そろそろスムージーが良い感じですね。
コップに入れて、氷を二つほど落とせば完璧です。
凍らせてシャーベット状にして頂くのも最高ですから、一度はやってみてください。
「いただきます」
それにしても、これのどこが人様に見せられないモーニングルーティーンなのでしょうか。とても普通なルーティーンだと私は考えているのですが…
それでは、今日のスムージーはどういうお味でしょうか。
「ん」
ナスの生味、トマトの微妙な甘み成分、ピーマンの苦さ、キュウリの青臭さ、とうもろこしのツブツブ感。
「……」
危うく吐き出すところでした、ですがこれは身体に良いもの、だから…
…………
「またかよ…ちゃんとシンクにしたのは偉い。ほら、そんなゴミ早く捨てちまえ」
毎朝、どうしてこうなってしまうのでしょうか。
私には分かりません。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「今日も貴くんかぁー、三日連続なんて運命感じちゃうね」
「その運命とやらは自分にどうしても海の家で働かせてくれないみたいですね」
事務室でツアーリングの客が二人と知った時、高揚感と同時に恥ずかしさが貴浩を襲った。
この二人と会えるのは嬉しいが、連日会うとなると恥ずかしくなるのが人間の不思議な感覚の一つだ。
「随分と重装備なのですね。ピンヒールでも行ける簡単ツアーと言われたのですが」
「ピンヒール...はともかく、手ぶらで行けることは確かですよ。これは個人的に必要なものを詰めていたら荷物が多くなってしまっただけです」
お手軽と謳っているツアーだろうとも、事故は起こるべくして起こってしまう。
最悪の事態を常に想定するのがプロフェッショナルだ、と貴浩は教えられた。
「そうなんですか。今日もよろしくお願いいたします」
楚々と丁寧に頭を下げた楓の髪が揺れ動き、ふわりと花の香りが鼻孔をくすぐる。
「こ、こちらこそ。それでは時間ですので出発しましょうか。今日は風が吹いていて、山中は涼しいと思いますよ」
「...それは良かったな、楓。風に当たりたい気分だったんじゃないか」
気分でも悪いのだろうか。
連日、イベント詰めだから体力が底をついているのかもしれない。
「大丈夫ですか。ご無理なさらないほうが良いですよ」
「あ、それは...」
「貴くん。楓はちょっーと気分が悪いらしいから優しくしてあげてね」
「それは構いませんが、本当に辛かったら言ってくださいね」
「はい...」
楓の胸中に秘めた思いに貴浩が気づくことはなかった。
秘めた思いが乙女のそれとは程遠いという事実にも。
ナチュラリツアーをするうえで守らなければならない注意事項が幾つかある。
まず、ガイドの指示は厳守すること。
基本的にガイドは知識に富んでおり、非常時の対応方を熟知している。そんな自然のエキスパートに楯突くのはもはや客ではない。貴浩自信はそのような客に遭遇したことがないのだが、ガイド仲間によれば年に2、3人いるそうだ。
また、自然は常に天候が変化している。
不測の事態に備えて行動を取ることが求められるのだ。更には必要な装備を携行する必要があり、上級者と呼ばられるような人であったとしても、自然を侮ってはいけない。
「ちょうど、道になっているように見えるここら一帯は昔、川が通っていました。地殻変動によって今ではここから50m横に移動しているんですよ」
「土壁が赤色なのも関係あるのでしょうか」
「いいところに気が付きましたね、楓さん。これは鉄やアルミニウムの酸化物を含んでいるため赤色なんですよ。土壌が不毛である場合が多いのですが、ここだけが赤色土で他は肥沃な土壌なんです」
「簡単に言うと」
「…すごい土地です」
「シンプル・イズ・ザ・ベスト」
興奮するあまり話しすぎてしまったようだ。貴浩の悪い癖だ。
「ここから少し道が険しくなるので足元に気をつけてくださいね」
入山して三十分ほどだが、ついに街道からそれて山道に入った。
整備が行き届いているとはいえ、木の根や石に躓いて捻挫する可能性もある。
ガイドの努めはツアー客が安全に自然を楽しむことだ。
「あ、あの細い木の先端。青い鳥が止まっているのが見えますか」
貴浩が指さした先に楓と玲音が目を向けた。
すると、そこには女性の手ほどのサイズの鳥がいた。
「とても綺麗な小鳥ですね。都会では見たことがありません。名前はなんというのですか」
「オオルリという名前の東南アジアから日本に夏の間だけ訪れる渡り鳥です」
目を輝かせて鳥を観察する楓とは対照的に玲音はどこか冷めた目つきだ。
いや、冷めたような目つきに見えるだけだろうか。
「ピールーリーという特徴的な鳴き方なので覚えやすいですよ。もし聞く機会があったら聞いてみてください、可愛らしい鳴き声ですよ」
「鳥はウグイスとかカラスの鳴き声しか知らないので勉強になります。ね、玲音」
「あれは焼き鳥にしたら美味いのか」
「......」
「......」
腕時計に目を落とすと、十二時に近づいている。
「貴浩さん、あそこに咲いている紫色のお花の名前もご存知ですか。お店で見たことがあるお花ですので、たぶん有名ですよね」
「あれはアザミですね。香水として使われたりするほど香りの良い花でその葉は薬草としても使えます。天ぷらとしても頂けますよ。しかし、海外に生息しているアザミには毒があるため、市販のアザミは食べないでくださいね」
「天ぷら...川魚の天ぷらは最高だよなぁ」
「............」
「............」
じゅるり、と唾を呑み込む玲音を見て、貴浩と楓は顔を見合わせて静かに吹き出した。
「そろそろお昼にしましょうか。今から行くお店の手打ちそばは絶品です。前に雑誌で取材されたりテレビで放送されたこともあるんですよ」
「よし、行こう。早く行こう」
「ちょ、ちょっと、玲音! すみません、貴浩さん。あの人、ご飯のことになるといつもちょっと我を忘れる癖があって」
あれをちょっとで済ませるのはいかがなものかと思う。だが、少し可愛いと思ってしまうから反則である。
確かに一時間ほど歩いているため、お腹も空いたころだろう。
「分かります。自分も自然のことになると熱く語ってしまうので。人の癖というのは中々抜けないものですよね」
「私も毎朝スムージーを作っているのです。たまに失敗してしまうこともあるのですが、やっぱり自分で何かをするというのは気持ちが良いですよね。あ、失敗といえば、たまにバスローブを……」
「どうかされましたか」
訝しんだ表情で楓の顔を覗き込もうとした貴浩だったが、それは小さな手に押し留められてしまった。
「い、いえ......」
玲音の後を追うように足早に進んでいく楓の後ろ姿。
少し見えたその頬が紅潮しているのは気のせいだろうか。
――何を言おうとしていたのだろうか。
貴浩は自問しながら、お腹を空かせた客と急に機嫌を行方不明にさせた客を追ったのであった。
~~
お蕎麦は美味しかったです。
山草の天ぷらやおひたしが出たのですが、食べたことのないものが多くて楽しめました。
帰りは雨が降ってきてしまったのですが、貴浩さんが上着を貸してくれたおかげで濡れずに済みました。
私は大丈夫と言って聞かなかった玲音ですが、帰ったら悪寒がするらしく今はベッドにゆっくり休んでいます。
体調を崩さないか心配です。
あ、そういえば朝作っておいたスムージーが冷蔵庫にあるはずです。
これを飲んで私も寝ることにします。
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