第九章 あらくれ⑤

 「ちょっとツラ貸せよ」


 三者面談から数日後のバイト終わりの事だった。時刻は二十一時。従業員の出入り口になっている本屋の裏口、そこから出ると彼が立っていた。いつもの制服姿とは違うダボッとした部屋着姿で、部活指定の物であろうベンチコートを羽織っている。静かに強い瞳を湛えてそこに立っていた。叶うならバイト終わりというものは、誰にも会いたくなければ話したくないし、何なら目も合わせたくない。人に気を使えるような余裕が自分にはないからだ。満月を光と冬の夜空を背負う彼は、そんな俺の本音に不敵に笑って見せた。「だから今なんだよ馬鹿」と。どこまでも横暴に。どこまでも強かに。


 そんな俺様王様風虎様に引きずられてやってきたのは、幼い頃彼と一緒にサッカーを習っていた時の練習場。サッカーコートが併設された河川敷。川辺の風は案の定街中よりも冷たくて、首元のネックウォーマーを鼻まで上げた。彼も隣でベンチコートのボタンを一番上まで閉める。途中のコンビニで彼に奢っていもらった温かいコーヒーも、この寒さであればものの数分で冷たくなってしまうだろう。未だ手の中にある熱を確かめるように何度も缶の表面を摩った。芝生の斜面に並んで腰を下ろして、静かに囂々と流れていく水面を眺めていた。最初に口を開いたのは彼の方だった。


 「…お前、行きたいなら大学行けよ」

 「……簡単に言うなよ」


 自分でも驚くほど低い声が出た。自分で自分に驚いて固まっていると、隣の彼は大変楽しそうに笑った。何がそんなに面白いのかと震える背中を想いっきり叩けば、更に面白そうに笑う。一体何なんだこの男は。ひとしきり笑った後に浮かんだ表情はしたり顔で、まるで子供が親にいたずらを仕掛けて様子をうかがうときみたいにこちらを少し上目遣いで見上げてくる。「出てきた出てきた」と愉快そうなその様子に腹が立った。普段の自分ならこんなことで腹を立てたりなんかしない。いつもの自分は、自分で言うのもなんだがそれなりに懐が広い自信がある。大抵のことは流せるし、大抵のことは許せる。そしてあまり怒らない。それが俺だと思っている。今日はバイト終わりで疲れていて心に余裕がない。だからこうなっているだけで、落ち着いて話せば大丈夫。そう自分に言い聞かせてもう一度彼の方を向けば、いたって真剣な面持ちでこちらをうかがっていた。狩りをする虎みたいに。


 「お前、いつまで都合のいい子供でいんの?」


 ヒュッと鳴ったのは俺の喉。灰の中に冷たい空気が広がってきて、身体が芯から冷たくなる。手の中にあるコーヒーももう冷めきってしまって、熱を求めるように縋るようにパーカーのフードを被った。膝を抱えて背を丸める。完全に縮みこんだ俺に、鼻で笑う彼の声が聞こえた。ざわつく心に蓋をして、いつも通り軽い口調で「酷いなぁ」って笑おうと思ったのに。表情筋が言うことを聞いてくれなかった。なんとか絞り出したい言葉を探す。探しても見つからなくて口を開いても吐息しか出てこない。彼はコーヒーを飲み終わったのだろう。缶を潰す鈍い音が聞こえてきた。長い間。本当に長い間俺は動けなくて、何も出来なくて。それでも彼はずっと黙って待っていた。


 「弟の、ために…家族の為を思うなら就職しなきゃなんだ。俺は…俺のやりたいことは、あのクソ親たちがくたばった後でいいから…」


 違うんだ。くたばった後じゃ遅いんだ。「今」やりたいことが沢山あるんだ。でもその全てが出来るわけじゃないから、何もできる気がしないから。俺は恐らく、自分を諦める理由を、諦められる理由を探している。いつだったか星野さんに言われた言葉が蘇る。「意地と無理を履き違えるな」と、それでもそんな俺をカッコいいと言ってくれた彼女に申し訳ない気持ちになった。だって俺は今、自分が意地を張っているのか無理をしているのか。全部何も分かっちゃいないのだから。そんな今の俺は酷くみじめでカッコ悪い。言い訳のように並べた言葉にため息をつかれた。


 「そうやって自分を殺すの、もう終わりにしろよ」


 声色は鋭いのにぼやけ始めた視界でとらえた瞳は優しかった。奨学金のパンフレット集めて眺めてたのも、大学の案内冊子を手放せないのも。期末試験の勉強と並行して受験勉強を始めようとしてしまっているのも、全部俺がまだ何も諦めていないからだ。そう言って彼は俺の頭をフードの上から乱暴に撫でた。桜城さんに言った「時間解決する」なんて言葉。そんなこと絶対にないのに強がって言った言葉。時間は何も解決してくらない。いつだって解決するのは自分自身だ。自分自身でどうにかできないことを知って、誰かを頼れるようになったつもりでいたのに大事な時に何も出来てないじゃないか。


 これ以上他人をどう頼ったらいいか分からない俺の心を救い上げるように彼は笑った。今日自分がここに居るのは俺の化けの皮を剥がすためだと。いつもお人好しで優しい人の皮を被っている俺の本音を引きずり出したかったからだと。なんて悪趣味なんだと悪態をつけば、黄金の光を降らす満月を味方につけた彼は再度不敵に笑う。抱えた膝の上に肘を置いて頬杖をつく。冷たい風になびく彼の癖知らずの直毛が、キラキラ光って眩しかった。


 「俺は今日、お前を助けに来たんだよ」


 そんなにカッコつけたって普段の性格の悪さを俺は知っている。だからまた悪態でもついて反撃してやろうと思っていたのに、言葉の代わりに嗚咽が出た。「酷い顔」と笑う彼の脛を思いっきり蹴った。痛がる彼の言葉たちを聞き流しながら必死に涙を拭う。泣きながら彼に話した。調べていた奨学金制度の事。「新聞就学生」という制度があり、それならお金を稼ぎながら大学に通えそうなこと。でも寮生活は嫌なこと。夜は掛け持ちで何かバイトをしたいこと。そうすればきっと、親を黙らせることが出来るかもしれないこと。ほとんどなにを言っているか分からなかったハズなのに彼は相槌を打ちながら最後まで話を聞いてくれた。「寮生活嫌なら一緒に住むか?」とか、「大学一緒のとこ来いよ、文学部あるぞ」とか適度に助け舟を出しながら。

 「とりあえず親と先生に相談して…」とか、「家は心配すんな、俺の家に居候する形で落ち着くだろう」とか。いつもの彼もそれなりに頼りになるのだが、いつも以上に頼もしくて驚いてしまった。気が付いたら日付が変わっていた。こんなに遅くまで付き合わせて色々これから迷惑をかけるのに、彼は帰り際にまた温かいコーヒーを買ってくれた。散々泣いて冷たい夜風にさらされた顔面はカピカピに渇いていて、眼もとに缶の温もりを押し当てた。


「あ、そういえば俺大学在学中に起業するから」

「え」

「お前巻き込むから」

「それは別にいいけど」


 「おれでいいの?」と聞くと彼は「お前がいいだよ」と飾り気なく言ってのけた。別れ際なのに別れるのが名残惜しくて、今俺がしたいことをだらだらと並べていく。「大学入ったらもう一回サッカーやりたい」とか、「放課後遊ぶのやってみたい」とか。「売ってしまった本を全部買い戻したい」とか。それ全部を自分の事のように楽しそうに聞いてから、「全部やろうぜ」と笑ってくれた。本当に最後、これで解散しようと決めた瞬間に彼は何かを思い出したように言った。俺の頭を数回優しく叩いて、やはり満月を背後に背負って美しく笑って。「今までく頑張ったな」、「偉いぞ」って俺が一番欲しかった言葉をくれた。

 

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