第九章 あらくれ⑥
三者面談期間も終わり、もう少しで期末試験がやってくる。放課後の国語科準部室には私と中嶋先生の二人だけ。特に何を話すでもなく、私は参考書と、先生は仕事と向き合っていた。数学の参考書をキリのいい所まで進めて顔を上げる。外は暗くなり始めていて、もう聴こえない運動部の掛け声に放課後の終わりが近づいていることを悟った。「そういえば」と先生が口を開く。「全員進路決まったらしいな」と。さほど興味がないのか、話題を広げる気配が見られなかった。そのことを指摘すれば、先生は笑って「どうせお前らはどこでもうまくやる」と答えた。突然向けられた信頼に少し戸惑う。そんな私の様子を見てまた笑った。
「私、学芸員になりたいです」
まだ確定していない「なりたい」という願いを口にしてみる。先生は優しく「そうか」と頷いて、まさかそっちへ進むとは思わなかったと笑う。文学館で働きたい旨を伝えれば案外向いているかもしれないと言ってくれた。私が人と関わることを辞めた原因の一つである本という媒体は、文学という世界は、それでもなお私を世界と繋げてくれるものだった。本がなければ、文学がなければ、私は彼らと出会えていなかっただろうから。聞こえてくる運動部の掛け声の中に彼の声が聞こえないことにも、放課後立ち寄れば笑顔で迎えてくれる彼を最近見かけなくなったことにも、放課後聞いて欲しい話をたくさん抱えてやってくる彼女があまり来なくなったことにも、ここに集まればいつでも私の話を聞いてくれた彼女と最近話さなくなったことにも、こんなに寂しさを感じることはなかっただろうから。
「どこで働きたいとかあるのか?」
「斜陽館ですかね」
ちなみに斜陽館とは青森県にある太宰治の記念館である。私の答えに「青森は遠いぞ」と笑ってくれるこの人と、あと何回この放課後を過ごせるのだろうか。考えようとして考えることを自分が拒否した。心のどこかで終わってほしくないと思ってしまうから。ずっと続けばいいのにと思ってしまうから。でも皆進んでしまう。悩んで迷ってこの先を探して。自分が自分で在れる道を模索して、やっと見つけることが出来た道を進んでいく。先生が電気ストーブを止めるために立ち上がる。私も机上に広がった参考書を片付けて立ち上がった。退出する先生の後を追って電気を消そうとしてふと動きが止まる。消したくないなと思ってしまった。そんな私を見かねて、私の脇から手を伸ばして先生が電気を消した。「寂しがるにはまだ早い」と私の内心を見透かして。
昇降口まで先生と静かな廊下を並んで歩く。白峰君は大学在学中に起業するなら将来都内にいるだろうし、帆澄君はそれに巻き込まれる。莉子ちゃんは将来美容師になりたいらしいので恐らく都内。そして望結ちゃんは都内に就職…。と考えた時に、私は将来また一人になる。そう話題を上げてきたのは先生だった。せっかく出来た友人と離れるのは寂しいだろうなと他人事で。確かに寂しい。まだその未来が確定したわけではないけど、考えただけでも寂しかった。
「でも自分の人生に妥協したくないので」
自分を潰さないように殺さないように、自分らしく自分勝手に生きる先できっとどうしようもない別れとか、どうしようもなく墜ちてしまうときが来るだろう。それでも自分の人生に妥協したくない。こう生きていきたいと決めたのなら、それを貫いていたい。少なくとも私はきっとそういう風にしか生きられない気がした。昇降口で靴を履き替えて、校舎の外まで出てきてくれた先生と正門で別れる。
「大丈夫だよ」
そのたった一言が何についてかなんて聞き返すのは野暮な気がした。帰りのバスで車窓から流れる景色を眺めながら考える。この時期にもう一度『あらくれ』を読めたのは良かったのかもしれないと。この時代は彼女が生きた時代よりは生きやすい。女性は結婚しなくても生きていけるし、女性の職業の幅も広がっている。恋愛だって割と自由だ。でもそんな自由な世界だからこそのしがらみは多くて、まだあと数年は学生でいられるけど社会に出た時が怖い。自分の思い通りにいかないことばかりだし、きっと社会というコミュニティに溶け込むために多くのものを犠牲にしなければならなくなる。そんなこの先の人生の中で、私はどれだけ私を妥協せずに私のまま生きていけるだろう。皆は皆のままで、どうやったら生きていけるだろう。そんなもの生きてみなければ分からないのだけど。
誰かに言われた「大丈夫」に縋って、他の誰かに助けられながら、とりあえず今はただひたすらに自分勝手に生きてみようと思った。そんな私のちっぽけな覚悟を、夜空に瞬く星たちが静かに見下ろしていた。自分が思い描く無計画に我武者羅な未来計画に一旦終止符を打つように、バスの降車ボタンをいつもより少し強く、強く押した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます