第九章 あらくれ②

 先月末に行われた県大会で惜敗し、俺の部活動及びサッカー人生は幕を閉じた。あんなに熱を込めて取り組んでいたのに、いざ終わってしまえばあっけなく特に未練もなかった。三者面談の待ち時間廊下に用意された待つ人用の椅子に座って黄昏ていた。うちはどうやら母親がくるらしい。大抵の家はそうだろうが、うちに家は両親ともに多忙なため来ること自体が珍しい。ちなみに来れない場合は、幼少期からお世話見舞っている家政婦が来る。流石に進路に関するものなので、行かざるを得なかったのかもしれない。金木犀の中、半ば衝動的に告白した日から彼女との関係に変化はない。俺が彼女に押し付けた「残酷」という烙印は確かに彼女の心に届いていたらしかった。後に桜城に聞いた話で確証はないが。俺の前での彼女は今までと何も変わらに様に見えた。

 ぼーっと段々落ちていく陽を自分の影が変わっていくことで確認する。前の番のクラスメイトが出てきたが、俺の母親はまだ来ない。気まずそうに出てきた担任が、「もう少し待ってみようか」と苦笑いをした。一応確認したが、連絡などは一切入っていなかった。担任が教室の中へ戻っていくのと入れ違いに、隣の教室から件の彼女が出た来た。徐に俺の方へ近づいてきたので、自分の隣にあった保護者用の椅子を数回叩く。俺の行動の意図を察した彼女は大人しく俺の隣に座った。SHRが終了してからそれなりに時間が経っている。今の今まで何をしていたのかと問うと、彼女は一言「本を読んでいました」と答えた。気が付いたらSHRが終わっており、教室に自分以外いなかったそうだ。もはや何も感想が湧かなくなった。慣れとは怖いものだ。

 何を読んでいたのか問えば、鞄の中から一冊の本を取り出してくる。ブックカバーに包まれて題名は読み取れないが、彼女がすぐに答えを教えてくれた。『あらくれ』呼ばれたその本は、その題名に似合わず静かに彼女の手の中に納まっている。


「…白峰君、親御さんは?」

「来るまでなんか喋れよ」

「え…」


 少し視線を彷徨わせて考えてから、彼女は今手の中にある本について話し始めた。正直そうなうよなと思った。彼女が今その本を読んでいるのは中じぃに言われたかららしい。受験勉強の息抜きにピッタリだと言われたその本に、少し興味が湧かないでもなかった。俺が先を促すまでもなく、彼女はその本の概要を話し始めた。『あらくれ』に登場するお島は年頃の綺麗な娘であるのに男嫌いで評判だった。裁縫や琴の稽古よりも外に出て動き回る方が好きだった。幼い頃は里子に出され、七歳で裕福な養家に引きとられ一八歳になった時に入婿の話に抵抗し、結婚式当日に新しい生活を夢見て家出をする。題名通りのあらくれ者だ。


「お島には幼い頃から逃げ場がありませんでした。実母のは嫌われ、実父には川に捨てられそうになります。そんな中裕福な家の養子になるのですが、その関係もどこか白々しく、彼女は常に誰かを気遣って、働くことが当たり前になってしまっています」


 聞いていて思った。現代でいうなら実親は児童虐待する毒親だ。養父母やその周囲もお島の意志を無視して結婚を強いたという時点で立派な人権侵害をしている。自分たちに都合のいい道具程度にしかお島のことを想っていない。もちろん作品の時代背景を考えれば、当時はどこでも当たり前のように行われてきたことなのだろう。現代でも子供を道具としか思っていない親は五万といる。


「お島はそんな結婚を拒絶します。自分の人生に妥協することなく自らの意志を貫き通しました。この小説が書かれた当時の時代背景から、彼女のこの行動はかなり勇気のいるものだったことが容易に想像できます」


 自分の意志に従い自分らしく生きることで、彼女の生活はどんどん落ちぶれていく。作中で数人の男と彼女は出会うのだが、そのほとんどの男たちが彼女の在り方を潰そうとしてくる。当時の女性にとって結婚相手は親や周囲が勝手に決めるのが当たり前。女性はそれに従うのが当然とされていた。それを何度も拒絶し、自分を貫き通したお島は当時では凄く先進的な女だったことだろう。


「作中で描かれる彼女の人生。どこか一つでも妥協してしまったら、彼女は彼女ではなくなっていました。彼女を彼女たらしめていた自尊心や自立心。そういうものが殺されていた。当時はそういう社会だったんです」


 ただ彼女の性格が強情だっただけで、自分勝手で奔放で。周囲からその人格を否定されようとも、その選択を非難されようとも、確かにその選択は彼女を彼女自身の心を、その在り方を守ったのだと彼女は言った。その瞳の輝きの強さに、彼女も「そちら側」だろうなということが分かる。この星野和香という生き物は、どこまでも自分の「好き」に妥協せず生きてきて、この先も何も妥協しないで生きていくのだろう。

 最終的にはこのお島というあらくれ者は紆余曲折の末、彼女は裁縫師の男と三度目の結婚をして洋服屋を開くらしい。彼女は夫とたびたび喧嘩しながらも日々一生懸命に仕事をこなしていく。そんな彼女は現代ならキャリアウーマンとしてバリバリと活躍してただろうと思う。しかしその結末は面白いもので、彼女は洋服屋に集まった職人たちを引き連れて独立すようとするらしい。しかもその独立を計画した段階でこの物語は終わる。あらくれ者が主人公な物語にしては何とも爽やかで、少年漫画味を感じるラストだ。話を聞いただけだが、別にお島は善良ではない。可愛らしくもない。気が強いし、癇癪持ち出し、絶対にそんな女は願い下げだ。しかしどこか心惹かれるものがあるし、何より現実に居そうな感じがした。それが徳田秋声が書く女の特徴だと、彼女は得意げに教えてくれた。

 俺の母親が来ないまま一時間が経とうとしていた。本日最後の枠だったこともあり辛抱強く待っていてくれた担任が、おずおずと教室の中からこちらを窺うように出てきた。流石に申し訳なくなって母親に電話を掛けるが出ることはなく、ついでに父親とも連絡が取れなかった。もう後日でいいですと担任に言い残して帰り始める。そんな俺のあとを彼女は静かについてきた。話すことが思いつかず、苦し紛れに出したのは進路の話題だ。彼女は私大の文学部。俺は彼女とは別の私大、そして経営学部だ。


「大学在学中に起業したい」


 そんな俺の些細な野望は、冬の夜空に吸い込まれるように消える。それでも彼女には届いたようで、「貴方なら出来そうですね」と笑った。両親の会社は継がないのかと聞かれて、少し自分の暗い部分が顔を出した気がした。いつからか気づいてしまったことがあって、恐らく両親は俺のことを跡継ぎとしか見ていない。結構甘やかされて育った自信はあるが、それは恐らく未来への投資。高校生になった今だから分かる。身に染みる親の無関心さ。メンタルが先ほど聞いた『あらくれ』の話に引っ張られているのだろう、次から次へとネガティブな言葉が飛び出してくる。そんな俺の話を聞いて彼女は終始無言だった。バス停でバスを待つ間も、バスに乗ってしばらくしてからも。

 バスの狭い二人掛けの座席に、押し込まれるように座った。彼女との近い距離に若干戸惑いながらも、二人の間に流れる静寂をしっかり堪能する。ふと落ちてきた彼女の言葉は「どんな会社にするんですか?」というものだった。


「…サッカー関連で色々考えてる。ゆくゆくはプロのチーム創って運営したい。何なら海璃も巻き込む」

「楽しそうですね」


 口元に手を当てて、ふっと柔らかく彼女は微笑んだ。「応援してます」の一言で、この先なんだって出来る気がした。俺の今までよりも、俺のこれからを聞いてきたその姿勢にただただ救われた。背中を押されてどこまでも進んでいけると思えたのと同時に、どうにかこうにか連れて行かないものかと、一緒に歩いてはくれないものかと、また彼女に縋ってしまいそうになった。

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