第九章 あらくれ①
祭りの多かった秋を超えて十二月がやってきた。冬が深まる今日この頃、本格的に大学受験及び進路決定の時期になった。私も一般入試へ向けて受験勉強の追い込みを行っていく。私が志望するのは私立大学の文学部だ。学費や学力について親と話し合い、最終的には中嶋先生がおすすめしてくれたところを第一志望とした。中学生の時、高校受験の際に息抜きだと親に言い訳しながら読む小説は面白かった。何ともいえぬ背徳感がそうさせたのだと思う。しかし、大学受験ともなればかかるお金も時間も高校受験の比ではない。流石の私も、この数か月は小説を我慢して勉強に打ち込もうと思っていた。しかしやはり、息抜きというのもたまには必要だ。そう自分に言い訳しながら国語科準備室へ向かった放課後。先客は帆澄君だった。三年生の三者面談期間である今、彼も例外ではなく本日そうだったらしい。その表情からは、わずかな疲れが読み取れた。長机に座ってうなだれる彼の対面へ座る。長机の上には数冊のパンフレットが並べられており、そのほとんどが奨学金に関するものだった。
「大学行くんですか?」
「行きたいし担任にも行った方がいいって言われてる。でも親は金がないって」
彼の家庭事情は恐らく、私が想像しているよりもずっと複雑だろう。日々バイトへ明け暮れ、そんな日々の中の貴重な休みを友人の為に使っている。完全にプライベートな時間などないに等しいのかもしれない。普段の彼を見ていて、私も大学へ行くべきだと思った。彼の知的好奇心や向上心がもったいないと思ってしまう。大学受験にはお金と時間が必要で、今の彼にはどちらも足りない。万が一にも受験が出来たとしても、その先の入学してからが一番お金がかかる。彼は恐らくそれも自分でやりくりしなくてはならないのだろう。
「就職も考えてるんだけどさ」
「はい」
「…やっぱり俺、もう少し好きなことやってたいんだよね」
「もう少しちゃんと本の勉強したい」と彼は静かに、しかし駄々をこねるような声色で囁く。その声を母親のように厳しく窘めるなんて、私にはできなかった。抱えている不安や焦燥、それらを振り払うように彼は伸びをする。背もたれに体重がかかるたびに、パイプ椅子の軋んだ音が鳴り響く。そろそろ新しい椅子に変えた方がいいかもしれない。一旦机上に並べられていたパンフレットを片付けながら、彼は努めて軽い口調で私に問いかける。今日読んでいる本について。彼もきっと息抜きが欲しいのだろう。私なんかの話で力になれるかは分からないが、私は今朝選んだ一冊の題名を彼に告げた。
「『あらくれ』です」
『あらくれ』は、一九一五年に徳田秋声が著した長篇小説だ。一人の女の波乱万丈な人生を描いた、自然文学主義らしい写実的な作品だ。彼は私が告げた題名を繰り返す。内容を思い出そうとしているようで、読んだことはあると頭を抱えながら暫く唸っていた。「なんか、主人公結構自分勝手というか…自由奔放というか」と絞り出された感想に頷く。そんな話をしていると、国語科準備室の扉が開いて中嶋先生が入ってきた。「寒いだろ」とぼやきながら、どこからか電気ストーブを引っ張り出してきた。室内にに学校の備品として備え付けられているストーブが別にあるのだが、普段授業で使うことはないこの教室は給油の範囲外なのだそう。先生が給油して使うことは可能だろうが、ここ数年動かしていなかった機械をいきなり動かすのは少し怖い。
話の輪の中に入ってきた先生に今までのことを話すと、「これまた面白い本に手を出したな」と笑った。「徳田秋声ってのもまた渋い」と笑う。徳田秋声は金沢出身の小説家で、尾崎紅葉の弟子であり、泉鏡花の弟弟子。自然主義的技法の完成者。島崎藤村、田山花袋と並ぶ自然主義の大家で在り、静かに現実を見つめ、それを飾り気なく書き込んでいく作風が特徴だ。名だたる作家たちと関わりを持っていながら、本人の知名度は他に比べると薄いように思う。個人的には女性を書かせたら右に出るものはいないと思っている。彼の書く女性は、今回の『あらくれ』のお島も含めて魅力的で美しい。そんな私と先生の話を聞きながら、彼は「へぇ」と興味深そうに相槌を打つ。
「本人も面白い人ですよ。作品作りに血迷って社交ダンス始めたり、師匠である尾崎紅葉の死因を甘いものの食べ過ぎだとぼやいて、兄弟子である泉鏡花に馬乗りで殴られたりとか…」
「は?」
「それだけじゃないぞ。秋声はその殴られた後、電車の中で泣きながら帰ったらしい」
「情けな!」
しかし彼は本当に凄い人で、事実ノーベル文学賞を受賞した川端康成が「日本の小説は源氏にはじまって西鶴に飛び、西鶴から秋声に飛ぶ」と述べ、また晩年には「日本の小説は西鶴から鷗外、漱石に飛んだとするよりも、西鶴から秋声に飛んだとする方が、私にはいいやうに思ふ見方である。鷗外、漱石などは未熟の時代の未発達の作家ではなかつたか」と述べるくらい凄い人なのだ。
帆澄君はスマホで自分でも徳田秋声について調べながら笑って私と先生の話を聞いていた。その笑顔は先ほどよりも少し晴れやかで、少しでも役に立てたであろうことに安堵した。先生は笑って言う。『あらくれ』は今の私たちが息抜きで読むにはピッタリな小説ではないかと。何故そうなのかわからず首をかしげる私と帆澄君に見せつけうように、先生は数回指先で机上の隅に積まれたパンフレットを叩いた。
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